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バグ (完全版)  作者: 祓川雄次


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 宝田薫は壁に掛けられた時計を気にしていた。

 確かに今日であったと記憶しているのだ。だが当の本人が、未だに二階の部屋から降りてこないのだ。当事者ではない自分が気にしても始まらないのはわかっているが、いったい何をしているのか、と気を揉んでしまう。階段へと足を運んでは、居間へと戻り壁に掛かった時計を確認する。それを数回繰り返す中で、薫は、上階へと声をかける以外の方法を見つけられなかった。少し苛々する口調で薫は口を開いた。

「百合、今日村木君と打ち合わせに行くって言ってなかったっけ」

 その言葉に対する返事は降ってこない。声が小さかったのだろうか、薫は更に自らの気持ちが急くように感じられ、先ほどよりも大きな声を出した。

「おい百合、時間じゃないのか」

「そうだよ、わかっているから」

 部屋のドアが開き、階下に向かい、落ち着いている声を出した百合は、鞄を持って降りてきた。急ぐ気配を感じられず、薫は苛々を募らせた。

「もう出ないと間に合わないだろう」

 相手を待たせるな、早く行け……薫の言葉にならない気持ちが表情に溢れている。

「まだ大丈夫だって」

 前髪をいじりながら百合は軽く言った。薫は自分が待たされているという錯覚にさえ陥っている感じであった。

「遅刻は駄目だぞ、時間にルーズだと嫌われるぞ」

 自分ならば絶対にそんな気になっているだろう。

「大丈夫、時間には間に合うから」

 百合は村木から誕生日プレゼントとしてもらった時計を薫に見せて笑顔で言った。昔から百合の遅刻癖に相当悩まされてきた薫は、時間前に行動する自分との性格の違いに、不機嫌な表情を見せた。

「あのなぁ、待たされる身にもなってみろ」

「ツネ君はお兄ちゃんと違って、そんなにせせこましくないから平気だよ」

 薫の真剣な表情を交わすかのように、百合は得意げに彼氏自慢をした。

「おい」

 小莫迦にするような百合に対して、薫が追い打ちをかけようとすると、百合は真剣な表情を薫へと向けた。薫はその表情に引きずられるように自らも真剣な眼差しを向けて言葉を待った。

「じゃあね、お兄ちゃんの相手をしているより早く行った方がいいでしょうし」

「まあそうだな」

 思わず拍子抜けするように、百合の正論に薫は答えた。なんという幕切れなのか……薫は自らの反応にもがっくり来た。まあ妹相手だから……仕方がない。

「じゃあ行ってきます」

 薫を交わすかのように、百合は玄関へと向かった。その後ろ姿に

「行ってらっしゃい」

 と言葉をかけ、玄関をすり抜けて行った百合を見送ってから、薫は呆れ顔で居間へと歩み、サイドボードの上に置かれた仏壇に向かい、ため息を一つついた。

そこには一〇年前に亡くなった両親の遺影が置かれている。その遺影に対し、思わず苦笑することしか、薫にはできなかった。

「まったく、百合の時間の感覚には参るよ。親父やお袋も時間にはうるさかったからな、そう思うと一体誰に似たんだか……」

 蝋燭に火をつけ、線香を手に取りながら、写真へ問いかけると再びため息が漏れた。

「でも結婚式が近くなってホッとするよ。

やっと親父たちに代わってきた肩の荷が下りるって感じかな」

 思わず頬の筋肉が弛緩した。薫は線香をそっと両親の前に差し出すと、手を合わせて目を閉じた。


【最寄りの駅にもうすぐ着くから、それほどかからないで行くね】

 百合は光の差し込む電車内から、村木へとメールを送った。

【わかった、式場の前で待っているから気をつけて】

 村木からのメールはすぐに返ってきた。いつも待ち合わせの時にはこんなやりとりが多い。連絡さえしておけば遅刻は失礼ではない。そんな子供の頃から携帯電話がある世代の感覚が百合の中にはあった。村木はそれなりに長い付き合いの中で、何度も遅刻する百合の感覚に慣れてしまったのか、ちょっとした遅刻に対して、別段文句を言うことはなかった。ただ連絡がない場合には、心配したメールが届くのだ。

 電車は滑るようにホームへと入り込んだ。いつも同じ位置に止まる電車の運転手は凄いな……。そんな事を頭に浮かべ、百合はドアの前に立った。時間にはルーズなくせに、そのような時ばかりはせっかちなのだ。

 電車を降り、時間を確認しようと時計を見ながら歩いている時に、百合は体がぶつかる感触を覚えた。その感覚の方へ視線を向けると、一人の男へとぶつかったことが理解できた。

「すみません」

 軽く頭を下げ、百合は階段へと向かい、勢い良く駆け上がった。

ぶつかった男はその百合の後ろ姿を蛇のような眼で、ジーっと見た後、電車へと乗り込んで行った。

【見つけた】

 男は抵抗なく滑らかに走り出した電車の中で、先ほど百合が昇って行った階段を見てニヤリと口角を上げた。


「もうそろそろかな」

 思わず言葉を口にして、村木は駅の方向を見た。

その視線の先、人影の奥から、小走りに向かってくる百合の姿が見えた。タイミングがいいな、村木はちょっとしたことだが、それが何か良いことの始まりのように思えてならなかった。

「ごめん、待った」

 百合の笑顔に、思わず村木は笑顔と言葉を返した。

「待ったよ、まあ百合と付き合ってから待つことは慣れたけれどな。

 それにしてもいつも百合は走ってくよな」 

 村木は少しだけ胸を上気させる百合に再び笑顔を向けた。

「近くになってやっと待たせているんだって気になるんだよね。

 それにしても現代人は時間に追われすぎだと思わない」

 他人事のように言う百合はゆっくりと言葉を出した。

「現代人っていうか、たぶん時間という感覚ができた当時からなんじゃないか」

 まじめに返すのはいつもの村木の感覚だ。百合はそんなまじめなところが嫌いではなかった。でも話は別だ。

「実にせせこましい。もっと大らかに生きないと」

 百合は少し頬を膨らませるようにして言った。村木は呆れた笑顔を見せた。

「百合が時間にルーズなだけだろう。

 子供ができた時に、百合のその感覚だけは受け継がないで欲しいなぁ」

「そんなぁ、でも出かける前にお兄ちゃんにも言われた」

 思い出し、少しだけ嫌そうな表情を見せた。

「なんだよ、自覚症状なしか」

 村木は頬を緩めてしまった。

「ないわけじゃないけど」

 百合はふと時計を確認した。実際にはそれほどの遅刻ではないと思う時間なのだ。それは百合の感覚でしかないのだが……。

「まあ待ち合わせには遅れたけれど、結婚式の打ち合わせには間に合うから良しとするか」

 村木は百合に目を合わせて式場の中へと歩き出した。百合はその村木を追うようにして近づき、腕を組んだ。それに応えるように村木が百合を見ると、二人は同時に微笑んだ。


「それでは最終の打ち合わせはこれで終わりですね」

 百合と村木の向かいに座る結婚式場の担当者である浅沼は、トントンと紙の束をまとめるように机に二、三回叩きながら言った。

「いよいよ来週ですね。よろしくお願いします」

 村木が頭を下げると、続くように百合も頭を下げた。

「ウエディングドレスに腕を通すのが楽しみだな」

 百合は思わず自分の姿を想像した。その姿に呆れるように村木は苦笑した。そして思い出しながら言葉を出した。

「試着の時に何度も着たくせに」

「試着は試着、本番は違うでしょう。みんなに見てもらうんだし」

 少しばかり頬を膨らませながら言う百合の顔は愛嬌に満ちていた。

「そうですよね、私も百合さんが列席されている方の前で、あのウエディングドレスを着るのを楽しみにしていますから」

 営業トークなのか、本心なのかわかりにくい言葉を浅沼は笑顔で出した。けれども百合は少しもそれを嫌みとは感じず、笑顔で応えた。

「百合は何着も着て、ドレスを決めるのが遅かったからな。

 浅沼さんにはご迷惑をおかけしましたからね。

 それも含めて色々とありがとうございました」

 村木は再び浅沼に頭を下げた。

「いえ、まだまだですよ。

 来週、滞りなくご婚儀が終わるまで、私も全力でお世話させていただきますので」

「そうだよ、まだまだお世話になります」

 百合はいたずらな視線を村木に向けてから、浅沼に頭を下げ、同意を求めた。浅沼はその百合に頷いて答えた。そんな光景を見て、村木は思い出したかのように言葉を出した。

「そうですね。百合は遅刻癖があるので、当日もご迷惑をおかけします」

「まあ、失礼しちゃう。結婚式には遅刻しないもん」

 百合は先ほどとは変わって、少し頬を膨らました。その表情を引き金に、思わず笑いが巻き起こった。村木も百合も浅沼も、和やかな雰囲気に溢れていた。


 結婚式場を出ると二人は近くの喫茶店へと入った。夕食を取るにはまだ時間があったからであった。

「それにしても結婚式の打ち合わせって結構大変だったな」

 村木が思い出したかのように言って、コーヒーを口にした。

「そうだな、予約して列席者のリストやら招待状やら、よくここまでやってきたって感じだよね」

 百合も納得したのか、数回頷きながら答えた。

「さっきも言ったけど、百合のウエディングドレスを決めるのは超時間がかかったからな」

「だって一生に一度だよ。友達にうらやましがられるようなドレスを着たいからね」

 百合はそこは譲れないという、少しだけ迫るような言葉を出した。

「まあ百合の友達のほうが俺の友達よりも多く来てもらうから、気合入ったんだろうけどな」

 村木は再びコーヒーを口元へと運んだ。それに合わせるように百合もコーヒーを口腔へと流し込んだ。

「今、私は幸せなんだって、結婚はいいよ、ってみんなに自慢するんだから」

 百合は張り切った笑顔を見せた。村木はその笑顔に答えた顔を一瞬で真顔に戻した。

「じゃあ結婚生活もしっかりやらないとな」

 そう言ってからかうような表情を見せた。

「ちゃんとやるって、任せといて。

 それにしても私が結婚したらお兄ちゃんもいい相手見つけて結婚する気になるかなぁ」

 百合は少しだけ遠くを見るようにして言った。その視線を自らに戻すように村木は言葉を出した。

「お兄さんだって、相手がいない訳じゃないだろう」

「さあ、でも女っ気はないような気がするんだよね」

 不安な表情を見せた百合は、ふと一〇年前の事を思い出していた。

 両親が飲酒で爆走する外国人の運転する車に轢かれた時のことを…。

 社会人になったばかりの薫と、百合が大学合格を決めたばかりの頃であった。

「お兄ちゃんはこの一〇年間、私の世話ばかりだったんだよ。

 家の事をやりながら仕事して……。だから女っ気がないように思えるんだ」

 百合の視線が少しだけ落ちた。

「そうだったな。自分が遊びたい盛りの時にお父さんの役をしていたなんてな……。

 お兄さんのその行動は尊敬するよ」

 村木は自分がその立場であったならば、もう百合は大学生なんだし、自分のやりたい事ばかりをやっていたかもしれないと考えた。薫とは何回も顔を合わせていたので尚更そう思えた。

 百合はコーヒーを飲んでから、話題を変えた。

「お兄ちゃんって言えば、結婚式が終わったら私の荷物を運んでおいてくれるって」

「だいたい新居に持って行っているじゃん」

 二人が住む予定になっている部屋には、何が入っているのかわからない百合のダンボールが多くあることを村木は思い出して口を開いた。

「最後の荷物は運ばせろってきかないからさ、だからお願いしたんだ」

 村木はそんな薫の気持ちを頷いて受け止めた。

「そうか、じゃあ新婚旅行から帰ってきたら、真っ先にお兄さんのところに挨拶にいかないとな。お土産をいっぱい持って」

「うん」

 百合の笑顔には自慢の兄、という文字がびっしりと書かれているように村木には感じられた。


 そこから結婚式前日までの日々は、あっという間に過ぎていった。

 仕事から帰ってきた薫は、食卓に大好物の切干大根の他に、二人で食べる量としては少し多いと思える料理が並べられていることに驚いた。百合はどうだと言わんばかりの表情を薫に見せた。

「こんなにいっぱい作ったのか」

 上着を脱ぎながら薫は言った。

「うん、今日から仕事休みにさせてもらっているからね」

「そうか、それにしても張り切りすぎじゃないか」

 改めて食卓を見ると、好物ばかりが並べられていることに気が付く。

「お兄ちゃんと結婚前に食べる最後の夕飯だからね。

 でもちょっと頑張りすぎたかもね」

 ちょっぴり照れた笑顔を見せて言った言葉に対して薫は嬉しさと共に、寂しさを覚えた。家族四人で過ごしていたこの家。両親が事故で無くなり、結婚する百合が去り、今後自分ひとりで住むことになるとは想像もしていなかったし、これから「ただいま」と言っても返事がない状態になるのだ……。だが寂しいと言っても、妹の結婚に対する嬉しさのほうが数倍も上であることは間違いなかった。

「すぐ着替えてくるから」

 薫はそれだけを言うと自らの部屋へと向かった。すぐに着替えを終え、食卓に着く時には、料理の他にビールが準備されていた。

「はい、お兄ちゃん」

 席に着くと、百合は缶ビールを持って、薫にグラスを持つことを強要した。

「ありがとう」

 薫が持つグラスへと淡い麦色の液体が注がれていく。百合は残ったビールを自らのグラスを満たし、今度は乾杯を要求してきた。

「じゃあ明日の百合の結婚式に乾杯」

 二人のグラスが、カチンと音を立てて触れ合った。そのグラスの中身を薫は、様々な思いと共に一気に飲み干した。

 喉を鳴らしてグラスを置いた時に、百合は食卓に手を着き、頭を下げた。

「お兄ちゃん、お父さんとお母さんが亡くなってから、色々とありがとう。

 お世話になりました」

 呆然とその姿を見た薫は、すぐに正気へと戻った。

「おい、いつの時代の挨拶だよ」

 照れ笑いというか、苦笑するしか薫に、それ以上の言葉は出なかった。

「いいじゃない、いつの時代でも……。

 本当に面倒見てくれたんだから、今日の料理も感謝の気持ちを込めてなんだからね」

 真剣な眼差しの百合の顔が笑顔に変わった。

「……」

 薫は思わず、胸の奥からこみ上げてくる感情と涙を、ぐっと堪えた。百合は薫の感情が高ぶっていること理解し、もう一押しした。

「ねぇ」

 薫は真一文字に閉めた唇を開いた。

「お前は大学決まったばっかりだったし、俺が面倒みるしかなかったからな」 

 思わず一〇年前の、大学の入学金の用紙を受け取った光景が薫の頭を過った。

「そうだね。まだまだ私は子供だったからね。

 でもそんな風に妹を過保護にしたから、お兄ちゃんは未だに独身だしね」

 百合は薫の顔を覗き込むようにして言った。

「そんなことは関係ないだろう」

 薫の表情は一気に照れを見せた。ここぞとばかりに百合は思いを語った。

「だってそうでしょう。家の事と仕事とで、彼女を作る暇なんてなかったんでしょう」

「今まではな、でも俺が本気になれば彼女の一人や二人、どうってことないさ」

 薫は見栄を張ると、ビールを口にした。

「本当に……」

 百合の微笑みは、疑いの念を多く表していた。

「本当だよ」

 薫は自信なく、つまるようにどうにか言葉を出した。その言葉を聞いて百合は肩の力を抜いた。兄に自分が負担をかけていたのではないか、そんな重荷と罪悪感が身体の中から抜けていくようにも思えた。

「じゃあ、私の結婚式が終わったらそうしてね」

 迫るような視線と共に、空になったグラスへと百合はビールを注いだ。

「百合」

 思わず感傷に浸ろうとする薫を見て、百合は微笑みで返事をした。ここで涙腺を緩めるわけにはいかないと思ったからである。

「さあ、自慢の料理だから、残したら許さないからね」

 百合は箸を手に取ると、料理を掴んだ。

「おい、こんなに食べられるわけないだろう」

 二人の笑いが食卓へと響いた。それは仏壇の両親にも届いていると、薫は勝手ながら想像していた。そして百合の今後を祝福してくれているという願望を込めた。


 百合が風呂から出てきた時に、薫はテレビを見ていた。その後ろ姿に百合は声をかけた。

「お兄ちゃん、もう今日は寝るね」

「そうだな、大切な結婚式に遅刻する訳にはいかないからな」

 茶化すような顔で薫は振り返った。

「さすがに明日はちゃんと行くよ。始発に乗らないと間に合わないし」

「そっか、花嫁は準備が多いのだろうからな」

「そうだよ、女は大変なんだよ」

 本気だか冗談だかわからない表情を百合は見せた。薫はそれに頷くことしかできなかった。だが階段を上ろうとする百合に、薫は思い出したかのように声をかけた。

「百合、明日行くとき、親父とお袋にちゃんと挨拶してから行けよ」

「わかった」

 百合は薫の言葉に、この家を離れる寂しさを少し感じた。その感傷を抱えたまま自分の部屋の中へと入っていった。


 朝を迎えると、百合は静かに自室を後にした。

 まだ薫が寝ている可能性を考えると、なるべく音を立てないようにと気を使ったからだ。

 居間へ降りると昨日食べきれなかったおかずを冷蔵庫から小鉢に移し、軽く食してから、仏壇へと手を合わせた。

「お父さん、お母さん。私も結婚する年になったよ。

 二人に見てもらえなくて残念だけれども、結婚式、楽しんでくるからね。

 あと私が結婚した後に、お兄ちゃんにいい人ができて、この家に住むことを願っていてあげてね」

 いつもよりも長く手を合わせてから、百合はそっと家を出ていった。

 玄関の閉まる音を、薫は布団の中で聞いた。

【もう出たか……この時間なら流石に遅刻はしないな】

 そんな事を考えると、やはり昨日言われたように、百合に対して過保護なのかなと、思わず考えてしまった。

 薫はもう少し寝ようとしたが、それがかなわずに、布団を出ることにした。そして百合と同じように、昨日の料理を少しだけ食した。


 早く目を覚ましたのは薫だけではなかった。まだ時間があるにも関わらずに村木は起きて準備をしていた。

 スーツに着替えて、これから家を出ようとした村木の携帯電話がふいに鳴った。

 こんな時にタイミングが悪いなぁ、そんな事を思いながら村木は鞄に入れたばかりのスマートフォンを取り出した。

 ディスプレイに出た名前は式場からであった。何か当日の朝に確認することがあったかなどと考えてから村木は電波を繋いだ。

「えっ、わかりました。確認してみます」

 焦る声と共に驚きの表情浮かんだ。どうしたら良いのか、村木は思わず電波を他に飛ばした。

 

 薫はシャワーを浴びた後の濡れた髪をドライヤーで乾かしていた。そんな時に、不意に固定電話が鳴り始めた。このまま髪を乾かしたい気持ちを途切れさせて受話器を耳にした。

「お兄さん、村木です」

 その声は少し焦っているようにも感じられた。珍しく百合が時間通りに出ていったことが逆に気になったが、村木に何かあったのかもしれないと考えないこともなかった。だがそれは結婚式当日に考えてはならない事であると、薫は脳裏からいらない思いを拭い去った。

「村木君、結婚式の当日なのに、朝からどうした」

 薫は落ち着いた口調で問いかけた。

「あの、百合さんはもう出られましたか」

 先ほどの焦りの声とは異なり、少し落ち着いた感じの声、というよりも無理に感情を抑え込んでいるようにも感じられた。その感じた事を、たまたまであろうと、薫は自分の嫌な予感を抑えて答えた。

「百合ならば始発の時間に出たはずだけれども、どうしたんだい」

 一瞬、村木が何かを考えるような間を取った。言葉がないので、薫は先に自らの声を電波に乗せた。

「俺に電話をするよりも、百合に直接連絡をすればいいのに……。

 準備中とはいっても、電話にくらい出るんじゃないか」

「何回もかけているのですが、出ないんですよ」

 村木はやはり焦っているようであった。

「じゃあもうスマホを持っていないのかな」

 先ほど考えた嫌な気持ちが、薫の背中を爪先でひっかくような、ゾクゾクとした感覚を覚えさせた。

「実は式場から連絡がありまして、まだ来ていないというんです」

「何だって、あいつ今朝ちゃんと家を出たぞ」

 薫は驚く声を出し、時計を見た。その時計が示す通り、家を出てからかなりの時間が経過していることは明白であった。

「今、村木君はどこにいるんだい」

「私はちょうど家を出ようとしたところです。式場から連絡を受けて、何回か百合の電話にかけたのです が出ないので、自宅に連絡をさせてもらったんです」

 一瞬落ち着こうとしていた村木の言葉が、焦りの声に変わったのを薫は察知した。

「取り敢えず、俺もすぐに家を出るから、式場で落ち合おう」

「わかりました。何とか連絡を取れるように百合の電話にかけながら向かおうと思います」

「わかった。頼む」

 薫はまだ少し濡れている髪のことを忘れ、上着を羽織るとすぐに家を出ていった。


 村木は一週間前の、最終打ち合わせの時に百合と待ち合わせた式場の前で薫を待っていた。その時の百合とは比べ物にならない速度で、薫が走って来るのが確認できた。

「お兄さん」

 思わず村木は手を振った。それを確認した薫は勢いを緩めずに村木の前へと姿を現した。相当急いできたことは荒い呼吸で理解できた。

 薫は上気する胸を落ち着かせるように、大きな深呼吸をしたが、すぐに口を開くことはできなかった。

「お兄さん、すみません」

 村木が頭を下げた。薫は首を横に振ってから、声を切らしながら答えた。

「何を言っているんだ。謝るのはこっちだよ。

 俺も電車の中で何度か百合に電話をかけたんだが、やっぱり出ないな」

 頭の中をよぎる嫌な予感は外れて欲しい。二人はそう思い込むことしかできなかった。

「本当に心配です。こんな日に何かあったかと……」

 村木は百合を信じている。薫は握りしめる拳を見て思い、背中に手を当てた。

「とりあえず式場の人と話をしてみよう」

「はい」

 二人の気持ちは建物に入る小走りにも込められているようであった。


「俺は運がいい男だな」

 にやりといやらしく笑い、蛇のような視線を前方へと向けながら、椛島は大きな4WDの車を走らせていた。誰も乗り合わせていない空間で、椛島は煙草を咥え、安物のライターで火をつけた。

「今日はいつもよりもうまく感じるな」

 口元から噴出した煙が空を漂う。その煙の先にある車が減速した。それに続くように椛島もブレーキを踏む。前方の信号は赤へと変わっていた。

「音楽でも聴くか」

 椛島はカーステレオをいじった。どこかで聞いたような緊迫感のある映画音楽が車内に流れ出した。椛島は気分がいいのか、表情はどこか緩んでいるように見えた。

 ふと後部座席の方を見た。だがそこには何も存在しなかった。後方に待つ車もない。

 椛島の噴出した煙が後部座席に、踊るように舞った。

 信号が青へと変わり、前方の車が走り出すと、それに続くように椛島の車は、滑るように走りはじめた。

「悪く思うなよ。一体数十億の対比では、一を犠牲にすることは仕方のない事だ」

 椛島は前方に広がる空を見上げた。


 結婚式場の待合の中で、薫と村木は何度となく百合の電話へと電波を飛ばした。朝から同じようなことを続けているが、呼び出し音がなるばかりで、百合の声が聞こえてくることはなかった。

「あのご新婦様はまだお見えにならないのでしょうか」

 結婚式の担当である浅沼が、心配そうに待合室にいる二人へと近づいてきた。

「すみません、連絡はしているのですが」

 村木は頭を下げることしかできなかった。それに続くように薫も頭を下げる。

「今まで打ち合わせをしてきて、百合さんの性格を考えると、自ら来ないようなことはないと思うのですが……」

 流石に何人の人間に接してきた自信からか、浅沼の言葉は説得力があった。

「確かに私もそうだと思います」

 村木がその眼力を認めるかのように力を込めて答えた。遅刻の癖はあるが、無責任ではない。それが村木の百合に対する認識であった。

 一度唾を飲みこんでから、村木は薫に視線を移した。もちろん薫も同じ思いであるが、連絡がつかないことには何もできないのであった。

「兎に角、ギリギリまで手を尽くしてみようと思います」

 力のこもった村木の言葉であった。

「わかりました。けれども準備を含めた時間を考えると、あと三〇分くらいしか待つことはできないとおもいます」

 浅沼はその言葉の後に、新婦である百合が来ないのであれば事件や事故などという言葉を続けようとした。けれども結婚式当日の当事者たちに、そのような言葉は言えず、会釈をして待合室を出ることしかできなかった。

 先ほど浅沼が示したタイムリミットいっぱいまで二人は百合の電話へと電波を飛ばしたり、駅までの道を再度行き来したりと現状でできる限りの手を尽くしたが、どこにも新婦の姿は確認できなかった。

「宝田さん」

 村木と共に、村木の両親が心配そうな表情で控室に顔を出した。

「宝田さん、息子から話を聞きました」

「妹が本当に申し訳ないです」

 声をかけてきた村木の父親に対して、薫は頭を下げることしかできなかった。

「そんな、あんなにしっかりしている百合さんだから、事件か事故に巻き込まれたのではないかと思うのですが……」

 村木の母親は心配そうに薫に声をかけた。誰もが無事を願いながらも、それを肯定できないという、不安な表情を浮かべることしかできなかった。そんな一瞬の間を父親が破った。

「結婚式は中止にして、息子と一緒に警察に行ってください。

 まずは百合さんの安否が心配ですから」

 薫はその言葉をありがたいと思った。結婚式という体裁ではなく、本当に百合を心配してくれている。その事に対して頭を下げる以外の行動を取ることが薫にはできなかった。

「本当に申し訳ないです。

 結婚式の費用等はうちで一切みさせていただきますので」

 そんな言葉に対して、村木の父親は薫の肩に手を添えた。その手のぬくもりを、そして後に続く言葉を、薫は心底ありがたいと思い、それを百合に伝えたいと考えていた。そのためにも、まずは百合が見つかることだけを願っていた。

「そんなことはどうでもいいから、早く。

 式場の方と列席者の方々には私たちから説明をさせてもらいます。

 百合さんが無事であることを願います」

 父親の言葉に、薫はただただ頭を下げ、村木と共に待合室を飛び出すことしかできなかった。


 薫と村木は一台のタクシーで、宝田家の管轄の警察署へと向かった。

 そのタクシーの中で、何回も百合に電話をかけてみたが、電波が届くことはなかった。

 二人が走り込んだ警察署の中で、峰と今泉という二人の刑事が相談に乗ってくれた。

 タキシードと礼服を着ている二人の姿に一瞬驚くような素振りを見せたが、色眼鏡ではなく、相談内容をしっかりと聞いてくれた。

「それで、宝田百合さんは、今朝、結婚式のために式場へ向かう途中でいなくなったという事なのですね」

 念を押すように聞いた内容を租借して峰は二人へと確認した。温かみがあるようだが、何かを探ろうとしている視線も含まれている。しかし薫も村木も今はそんなことを気にすることはなかった。

「はい、自宅から電車を使い、式場へと向かったはずなのですが」

 村木が焦りを押さえようとしながら答えた。峰は、頷いて聞くと、薫へと視線を移した。

「お兄さんは百合さんが自宅を出たことは確認したのですね」

「はい、始発に乗ると言っていましたので、その時間に私も目を覚ましていました。

 顔を合わせてはいないですが、玄関の閉まる音は布団の中で耳にしています」

 頷きながら峰はその言葉を耳にした。

「失礼ですが、自らいなくなったという可能性はありませんか」

 淡々とした口調で今泉が二人に問いかけた。村木はそんな若い今泉の態度に苛立ちを覚えた。確かにこのような行方不明の事柄は警察に多く寄せられているのであろうが、自らの事をなると、怒りは抑えられずに、言葉となって身体から浮遊した。

「楽しみにしていた結婚式当日ですよ。そんな事はあり得ないと思います」

「マリッジブルーという事もあり得ないですか」

 少し声を荒げた村木に対して、再び今泉の淡々とした口調が返ってきた。

「そんな事、あり得ないでしょう」

 村木の語気が再び強くなった。それと同じ思いでありながらも薫は村木の肩に手をやり怒りを制した。もちろん自らが感情的になってはならないという思いもあった。薫自体も穏やかな気持ちでないことは確かだ。だがそれを表現したところで何も変わることはない。冷静になろうと、薫は深く深呼吸をした。

「村木君が言うように、それはないと思います。

昨日、私に結婚をするという。両親に言うような挨拶をしたくらいですから」

「姿を消すための口実ではなくて、ですか」

 再び今泉が感情を逆なでるような言葉を吐く。だが決して挑発をしようとしている訳ではなく、本人としてはあらゆる可能性を探るつもりの言葉であった。だが受け手としては心中穏やかではいられなかった。

「はい、違うと思います」

 薫の目には、抑えようと思いながらも、明らかに力が入って見えた。それをじっくりと峰はとらえた。

「今泉、まずは百合さんの足取りを追ってみよう」

 二人の相談者がここまで言っているのであれば、警察としては調べてみるしかない。単純に家出というのであれば、結婚式当日を選ぶ必要もないだろう。それが峰の考えであった。

「村木さん、宝田さん、すみませんね。私たちもこんな質問は嫌なのですが、日本には多くの失踪者がい  るんですよ。

 ただそんな中でも単なる家出という人たちも多く、色々聞いてからではないと取り合えない場合もあるので……。

 失礼なことを色々と聞きましたが、まずは家を出て、駅へ行ったかという。最初のところから調べてみようと思います」

 年配の落ち着いた雰囲気を醸し出す峰は、頭を下げてから立ち上がった。それに続くように今泉も立ち上がり

「色々すみません」

 と非礼を詫びるように頭を下げた。実直で不器用なのだろう。それが今泉に対する薫の見立てであった。


 峰と今泉は警察署を出ると、駅へと向かった。その際に薫からもらった百合の写真を眼に焼き付けた。

「峰さん、改めて聞きますけれども、結婚式が嫌になって家出した可能性はどう思います」

 今泉は失踪事件などの件数も多く、ありきたりすぎて関わることが無駄かのように思っていた。自発的に家を出る人が多いのがそのせいであった。ただ単なる家出もあれば、身内からのDVなど理由は多岐に渡る。だから今泉の、早く済ませたいという気持ちを、峰もわからないではなかった。だが少なからず第一段階だけでも捜査しなければならないと考えていた。それは警察の怠慢という問題になりかねないからであった。

「新郎と兄の話しだと、その線はないと思うけれどな」

「こういう話って多いじゃないですか」

 今泉は刑事らしく、疑ってかかった。だが峰も疑うことは忘れていなかった。

「それはわかっているけれども、初動捜査をしないで、もしもの事があったら大変だからな」

「まあそうですけれども」

 今泉は無駄になることも多い、行方不明者という案件を面倒だという気持ちが先行していた。けれども上司である峰が動くというからには捜査をしないわけにはいかなかった。

「とりあえず家から駅へと向かったというのだから、駅を通過して電車に乗ったかどうかを調べよう」

「わかりました」

 今泉が少なからず助かると思ったことは、百合が始発に乗る予定だったという事であった。時間が不確定であれば、防犯カメラなどの映像を確認するのに、かなりの時間要しなければならないからであった。それがないというだけでも気持ちは楽であった。

 今泉と峰は駅に着くと、すぐに駅員に状況を説明して、駅が開く始発時間からしばらくの防犯カメラの映像を確認させてもらった。何度か確認のために短い時間の映像を繰り返し見て峰は大きく背を伸ばした。

「始発という以前に、駅に百合さんの姿はないみたいだな」

「そうですね、始発の後の電車の映像まで見ても百合さんらしき人はいないですね」

 今泉は家出であればまず駅に来てからどこかへと姿を消したと思っていただけに、その線は峰が言うようにないのかもしれないと思ったが、誰かが共犯であれば、駅に来ることなく車で、という可能性もあると考えていた。

「今泉、宝田さんの自宅から駅に向かうだろうと言っていたルートは覚えているか」

「もちろんです。さっき地図の映像も撮ってありますから」

 スマートフォンの地図アプリがスクリーンショットされていることを確認して答えた。

「じゃあそのルートを調べてみよう。自宅を出たことは明らかだからな」

 駅員へ礼を言うと、二人は駅を出て、宝田家へと歩き始めた。

「峰さん、お兄さんである宝田薫が妹を殺したということは考えられないですか」

 今泉は他の可能性をふと考え着いた。

「まず無いだろうな。

 それに結婚式当日まで引っ張って殺すなんて、明らかに莫迦らしいだろう」

「ですよね」

 可能性は少ないと今泉は考えていたが、そんな線も考えてしまう。仕事がら物事を疑うという頭になっている自らに、少しだけ嫌気が刺した。

 それほど遠くはない駅と宝田家の道を、二人はゆっくりと歩いた。防犯カメラがあったのならば、その位置を覚えておく必要があると思い、方々を確認していく。


「村木君、本当にすまない」

 警察から帰ってきた宝田家の居間で薫は村木に頭を下げることしかできなかった。

 式場の浅沼や村木の父親からの連絡で、式はやらず、会食に出られる人だけ食事をしてもらって帰ったという事を二人は耳にしていた。だが大半の人々は、そのまま帰ってしまったという話もあった。

「お兄さんのせいじゃないですから……。

 それにしても百合は一体どこに行ってしまったんでしょう」

 薫が頭を下げることにも、百合がいない事にも、村木は気持ちが落ち着かなかった。刑事の今泉が言っていたように、自発的にどこかに消えてしまったのならば、自分に原因があったのかもしれないと思わないこともなかったからだ。だがどこが原因になったのかはまったく見当がつかなかった。

 薫は一度仏壇に視線を移した。死んだ人間に願っても叶うことはないと理解しながらも、両親がどこかで百合を探し、救ってくれることを期待してしまう。

 それではいけない。薫は神頼みという感覚を振り切り、今は落ち着こうと自らに思わせるために、冷蔵庫から飲み物を出し、村木へと差し出し、腰を下ろしそれを飲んだ。一瞬の冷たさが、少しだけ冷静さを取り戻させてくれるような錯覚を覚えた。

「結婚式を楽しみにしていたんだ。自分から失踪するなんてありえないと思う。

 まるで神隠しにあったようだな」 

 改めて考えると、やはり薫には百合が消える理由は見当たらなかった。

「事故にあったとは考えられないでしょうか」

 同じく、考えるように村木が言葉を出した。

「うちから駅までの間で事故に合ったとして、それほど大きくない怪我だとしたら、帰って来るか連絡をしてくると思うんだ。

 意識が無くなるような事故だったとしたら、救急車のサイレンなんかで気がつくだろうからな」

「轢かれて、隠ぺいのために連れていかれたとか……」

 不吉だと思いながらも、村木は思いついたことを口にした。そのほうが今は気がまぎれる思いもあった。

「可能性がないわけじゃないだろうが、そんなに早い時間に車の往来があるのかな」

 二人は憶測で物を言うことしかできなかった。そしてその理屈には、絶対に百合が自らいなくなったわけではないという条件が付きまとっていた。その中で色々なケースを考えていくと、そのうち何も思い浮かばなくなったのか、二人の間に沈黙がうまれてきた。その時間経過の重苦しさを、薫は飲み物を喉に通すことで流し込もうとしていた。

 その沈黙を、緊張とは無縁ののどかなインターホンの音が打ち消した。

薫も村木も、もしかしたらと思い玄関のモニターを確認するために立ち上がり、振り返った。しかしそこには望んでいた百合の姿はなく、二人の男の姿しかなかった。

 その二人を薫は家の中へと招き入れた。

「先ほど、駅の防犯カメラ映像を確認してきました」

 今泉が口火を切った。

「どうでしたか」

 逸る村木が、思わず身体を前のめりにした。

「始発とその次の電車の時間帯に、百合さんらしき人が駅構内へと入った形跡はありませんでした」

 落ち着いた口調で峰が話した。その言葉が村木の首を折った。

「それでは、家から駅の間でいなくなったという事なのでしょうか」

 薫が尋ねた。

「可能性はそれくらいでしょうね。

 駅と違う方向へ向かったのならば、また違う考えをしなければならないのでしょうが」

 今泉は言葉を発しながら、表情には出さないが、また疑いばかりを持つ自分への嫌悪を膨らませた。

「先ほど薫さんが言われていた駅へのルートを、今、歩いて見てきました」

 峰がポケットから地図を出した。そして一か所を指さす。

「防犯カメラがあったのは、ここにあるコンビニだけでした」

「そこに百合は映っていたのですか」

 一瞬光りが見えたような気がした。だがその光りは次の瞬間には立ち消えていた。

「店長がいないという事で見せてもらえませんでした。でもこの後確認しに行ってきます」

「そうですか」 

 薫と村木の口から吐息が漏れた。だがこれから確認するという事は、まだ望みがあるという事であった。薫は強く気持ちを保った。

「申し訳ないのですが、未だに事件などに巻き込まれたのか、家出なのか私たちは確証を持てない状況です。

 けれどももう少し調べてみようと思っています。

 もしも百合さんから連絡がありましたら、署で渡した連絡先へ電話してください」

 峰と今泉はそれだけを言うと、宝田家を後にした。

 その後コンビニエンスストアの防犯カメラを調べた後、署へ戻り椅子に座っている今泉の元へ、峰が缶コーヒーを持って近寄った。

「ほれ」

「ありがとうございます」

 受け取った今泉の言葉に峰は軽く手で答えると、疲れたように乱暴に椅子へと腰を下ろした。

「コンビニの防犯カメラに、宝田百合さんは映っていませんでしたね」

 コーヒーを一口飲んでから、今泉は言葉を吐いた。それに対しゆっくりとプルトップを開けた峰が答えた。

「そうだな、明日の朝、百合さんが家を出た頃と同じ時間に、あの辺りで聞き込みでもするか」

 峰が軽く言った。今泉はそんな峰を思わず見た。

「そこまでやる気なんですね」

「ああ、何だか気にかかる気がしてな」

 峰が眉間にしわを寄せた。

「百合さんが家を出た時間って、始発ですよね」

「そうだ、明日は早起きになるから、今のうちに仕事を終わらせて早く寝るか」

「じゃあ報告書の作成しておきます」

「頼む」

 今泉は峰が何に対して気を留めているのかわからずにいたが、やるというのならば仕方がないと気持ちを切り替え、報告書を仕上げると、すぐさま警察署を後にした。

 翌日、始発前の電車がない時間だったので、今泉は峰を車で迎えに行き、駅の近くにある駐車場へと車を止め、薫の家までの静かな、澄んだ空気の道を歩きはじめた。

「こんなに早い時間だから人がいないですね」

 歩きながらぼやく今泉に

「まあな」

 と峰は辺りを見渡しながら空返事をして歩いた。小泉が言うように静けさが漂う中に、人通りが多くあるとは思えなかった。だがしばらく歩いていくと、一人の老人が犬の散歩をしている姿が目についた。今泉が助かったというような表情を見せて老人へと近づき、警察手帳を見せてから百合の写真を出した。

「このコ、宝田さんの娘さんじゃないですか」

 老人は百合を知っているのかマジマジと写真を見返した。その老人の姿を確認してか、主人が動かなそうなのを察して犬はその場に座り込んだ。

「知っていらっしゃいますか」

 峰がゆっくり尋ねると、老人は頷いた。

「亡くなったご両親の事を知っていたものですから……。

 この子がどうかしたのですか」

 老人はやっと警察に尋ねられるような事があったのかと不思議そうな表情を見せた。

「昨日、この時間帯に百合さんをご覧になりませんでしたか」

 老人は一度振り返るように考えてから

「さあ、私は見ていませんが」

 と答えた。

「そうでしたか、ありがとうございます」

 今泉は朝の人気のない時間帯に偶然出会うことはなかなかないだろうと、落胆の表情を見せた。だが峰はそれ以外に何かなかったかと老人へと再び問いかけた。

「百合さんの事とは別に、何か気になることなどはなかったですか」

「気になる事ですか……

 そういえばあまり見ない車が通ったりはしていましたが、それ以外はないと思います」

「車ですか、まあそれが何かあるとは思えないですね」

 思わず今泉が言葉を出した。だが峰はあまり見ない車という点に何か引っかかるようなものを覚えた。

「あの、なぜ見たことのない車だとわかったのですか」

 老人はそう言われる、お座りをしている犬を見て答えた。

「うちの犬なんですが、普段車が通っても吠えることはないんですよ。

 ただその時は警戒してうなるようにして吠えたんです。

 それにエンジン音が聞こえたものですから」

「犬の鳴き声とエンジン音なんて……」

 今泉が少し莫迦にするように鼻で笑った。それを峰が制するように二人の間に入った。

「エンジン音は珍しいのですか」

「ええ、散歩の時間に車が通ることも珍しいですし、最近は電気自動車が多くなっているので、この辺りではあまりエンジン音を聞かないですね」

「そうでしたか、ありがとうございます」

 峰は老人に対して頭を下げると、今泉を置き去りにするように歩き始めた。今泉は慌てて老人へと頭を下げ、すぐに峰を追いかけてきた。

「峰さん、もしかして車を調べようとしていますか」

 今泉も何かを感じることはあったようである。しかし百合の事とは結び付かないのではと峰へと尋ねた。しかし峰は今泉を見ることもせずに、辺りを見渡した。もしかすると昨日防犯カメラの映像を見せてもらったコンビニで、改めて記録を見せてもらったならば、その車が映っているかもしれないと峰は考えていた。

「今泉、もう一度コンビニに行くぞ」

 峰は自らの頭の中でそんな事を考えると、足早に動きだした。

「ちょっと峰さん」

 再び置き去りにされそうになった今泉は、再び峰を追いかけた。だがたまたま見かけた車が、今回の百合の失踪に影響があるとは到底考えられなかった。


 村木は居間のソファーで目を覚ました。

自らの身体の上にタオルケットがあることを確認した時に、昨日、峰たちが帰った後、薫と交代で百合を探しながら、どちらかが家に連絡があるかもしれないと待機していたのを思い出した。そんな中、いつの間にか眠ってしまっていたのだと確信した。

 腕時計を確認すると、八時を回っていた。薫がどうしているのか、立ち上がりあたりを見渡すが、その姿は見当たらなかった。人の家で一人という状況はどう考えてもおかしい。村木はどうして良いのかわからずに立ちすくんだ。

「おお、村木君、起きたか」

 そんな村木の思いを知らずにシャワーを浴びてきた薫は、髪をタオルで拭きながら頭の中が真っ白になっている村木へと話しかけた。

「お兄さん、昨日はここで寝てしまったようで、すみません」

 慌てて村木は頭を下げた。そしてタキシードの上着がハンガーに吊るされている様を目にした。

「いや、仕方がないだろう。

 村木君もとりあえずシャワーを浴びてくるかい」

「いえ、それよりも百合さんの行方を……」

 今は見当がつかなくても妻になるはずであった百合を探すことしかない。村木はそうする以外の考えを持っていなかった。

 薫もその気持ちはわかるというように、首を一度縦に振った。

「とりあえず俺も昨日に続き、百合が行きそうな場所を当たろうと思っている。

 だがな、一度シャワーを浴びて、目をしっかり覚ましてからの方が、効率がいいだろう」

 そんな薫の言葉に押されるように、村木はシャワーを浴びることにした。

 そしてシャワールームの中で百合が使用していた、であろうシャンプーやボディーソープの存在を見た時に、村木は早く探しに行かなければと気持ちを急かされるようで、素早くシャワールームを出た。

「お兄さん、シャワーありがとうございました。

 じゃあ私は百合を探しに行ってきます」

 はやる気持ちの村木に対して、薫は食卓に並べた食パンと目玉焼き、そしてコーヒーを指さした。

「とりあえず腹ごしらえだ」

 村木は何とも言えない気分であった。こうしている状況の中で、百合は食事をしっかりと取っているのだろうか、もしもしていないのであれば、自分だけが食事を取っているという状況は心苦しかった。

「お兄さん、百合は食事もしていない状況かもしれないんですよ。そんな時に私だけ食事をするなんて……」

 村木は申し訳なさそうに言った。その肩を軽く叩き、

「いいから食べよう」

 と言うと薫は席へと着き、食事をはじめた。断ることもできず、仕方ないというように村木も席へと着いた。

「よくもそんな冷静でいられますね。私は心配で心配で、それどころじゃ」

 村木は気持ちだけが先走っていた。どうして百合が結婚式当日に消えてしまったのか、それを早く知りたいのだ。自分に問題があったのか、それとも事件や事故に巻き込まれたのか……どちらにせよ百合の安否を早く知りたいという思いでいっぱいであった。

「探すからには、それなりに体力も必要だ。

 俺たちが倒れたら誰が百合を探すんだ」

 薫自身、すぐに行きたい気持ちはやまやまであった。だがここで冷静にならなければと、自らをいさめた。たぶん一人であれば寝食を考えずに、無我夢中で百合を探したであろう。だが村木の存在が自分を引き留めた。この義理の弟になるはずであった男の事も、考えて行動しなければならない。無事に妹を村木の元へと返すためにも、自分が冷静でなければならないと薫は考えていた。

「食事をしたらもう一度警察に行ってみよう。今日はそこからだ」

 更に食事を進める薫を見て、村木は貪るように食事をはじめた。


「峰さん、朝一でいきなり仕事をしろだなんて……」

 コンビニエンスストアの防犯カメラを確認した際に、何となく見えていた車を気にした峰は警察署に帰ってきてから、すぐに鑑識にその映像を渡した。

 そんな押し付けられた仕事を行ったのは良いが、少しくらいの愚痴は言いたかった。そんな感じで椅子に座っている峰に調べを済ませてきた職員は報告書を渡した。

「申し訳ない。失踪事件かもしれないから、初動が大切だったもんでな」

 峰は本当に済まないというように頭を下げて、報告書を受け取った。その行動に職員は逆に恐縮してしまった。

「まあ峰さんがこんなに強引な事を言うのは珍しいですからいいですけれど……」

 その一言に峰は改めて手を拝むように上げて礼を言い、椅子をすすめた。峰の横に職員が座ると、今泉は一緒に報告書を見るために席を立って、二人の背後について車を確認し指をさした。

「あの人が言っていた珍しい車って、たぶんこの防犯カメラに写っているこの車ですよね」

 峰は振り返ることをせずに答えた。

「ああ、たぶんこれだろうな」

 駅から宝田家へと向かう中で出くわした犬の散歩中の老人が言っていた車……峰も今泉と同じ意見だと思い、この車に関してもっと調べてほしいと考えていた。鑑識の職員はそんな予感がしてならなかった。 そして峰から飛んでもない言葉が出た。

「Nシステムでこの車の事、どこまで追える……」

 鑑識は渡した資料映像を改めて確認した。

「さあ、どこまで追えるかはわからないですよ。

 ナンバーもわからないですし、システムがないような場所を通っているかもしれないですから」

 峰に頼まれたのならば仕方がない。職員はそんな感じで答えた。

「とりあえず車種だけでも特定してくれ。それによってそのあたりの駐車場なんかを探すこともできるだろうから」

 峰から言われた言葉に、鑑識職員は、わかりましたと下がっていった。普段峰がこんなに執着することがないから、断る気持ちにもならなかった。

 それよりも驚いたのは今泉であった。それはすぐに口から出た。

「そこまでやりますか」

「なんだか、今回はやらなきゃならない気がするんだよな」

 今泉は峰の刑事の勘がどのように作用しているかなどはわからなかった。だが大きな事件ではないので、捜査員が自分たち二人以上に増えるようなことがないと考えると、大変さだけが頭を回っていた。

 そんな二人が割り出された車種から、この近くで所有される車の台数を割り出し、リストを作り始めた頃に、薫と村木が警察署を訪れた。

 応接室に通された二人がしばらく待ったのちに峰と今泉が姿を現した。

「昨日の今日で申し訳ないのですが、何か手がかりはありましたか」

 薫は峰と今泉が席に座るや否や、すぐに切り出した。

「このような失踪事件は、初動が肝心と聞いたことがあります」

 村木が続くように質問をする。

「その通りです。まあ難しい状況だという事は間違いないです。

 この手の失踪は自発的かどうかなども含まれるので、なかなか警察も身動きが取りにくいのです」

 峰が自分たちの状況を説明した。

「じゃあ昨日から進展は何もないという事なのですか」

 村木の身体が一瞬前方へと、詰め寄るという感じでないはないが小さく動いた。その動きを見た今泉が、何もしていないという言葉にいら立ちを感じたのか、リストにしている最中の車種から割り出そうとしているパソコンの画面を見せた。

「まだ早いだろう」

 今泉の行動を、峰は一瞬制するように一言入れるが、気持ちとしては同じで行動をしているという意思を見せるという意味は、ありだとも考えていた。

「昨日、駅の防犯カメラを調べました。

 薫さんが言われていた始発、そしてその一本あとの電車の時間帯に百合さんの姿は確認できませんでした」

「それは昨日聞きましたよ」

 村木は堂々巡りになるような言葉はいらないと、やはり警察は何もしないという印象を受けた。

「村木君が言うように、その報告は昨日聞いています。

 私たちはそこから先の事を聞きたいのですが……」

 薫はあくまでも冷静で居ようと、ゆっくりと言葉を出した。峰は聞き入れるように頷くと言葉を出した。

「それから駅に行く途中にあるコンビニエンスストアの防犯カメラにも、百合さんの姿は映っていませんでした」

 家からコンビニの間で百合がいなくなった。報告を聞いて、薫も村木もその結論に達することは当たり前であった。だが駅までの間の交通手段のない百合がどのようにいなくなったのか、皆目見当がつかなかった。結婚式に行くために、駅と反対方向に行ったとは、今泉以外は考えることはなかったからだ。

 峰はもう一つの事を報告しはじめた。

「今朝、宝田さんの家から駅に向かうための始発時間に、私たちが周辺を調べたところ、いつも犬の散歩をするという方に出会いました。

 そこで一台の見かけない車を見たという話を伺いました」

「見慣れない車ですか」

 その言葉に、ないと思われていた交通手段が見つかった。百合が自発的であるかどうかはわからないが、その車が関与している可能性があるかもしれない。そう思うと薫も村木も気持ちが逸った。

「その車に百合が乗っていたと……」

 村木が思わず言葉を漏らした。峰は落ち着いた表情のまま、村木を見て言った。

「そこまでの確証は取れていません。

 たまたま用事があって通ったのか、百合さんに関係があるのか……。

 だがコンビニエンスストアの防犯カメラに、犬の散歩の方に聞いた車と同じ特徴の車が映っていました。

 今泉が、今お二人に見せたパソコン画面のリストは、私たちの管内で同車種の車の所有者リストです」

改めて薫と村木が画面を見た。

「これってどれくらいの台数があるのですか」

「二〇〇台ちょっとだったと思います。

 これをしらみつぶしに潰していくので、所有者に話を聞くだけでも一か月はかかると思います。むしろ一か月で終われば早いほうだと思ってください」

 今泉の言葉を聞いた薫と村木は、顔を見合わせて落胆の表情を見せた。峰と今泉が初動を早くしてくれたと言っても、これを調べるにしてもどれだけの時間を要するかわからず、らちがあかないと言わざるを得なかった。

「申し訳ないですが、今回はまだ事件性がないという上の判断で、私と峯の二人でしか動くことができないのです。

 全力を尽くすとしか言えませんが、どこまで捜査を進めることができるのか……私たちのも読むことができない状況です」

 今泉の言葉を聞いて、薫も村木も更に沈黙を生む以外はできなかった。

「私たちにできることはないのですか」

 しばらく考えた村木が、自分の責任を感じるように、しぼり出すように言葉を吐いた。

 もしかしたら自分の不甲斐なさが百合の失踪を生んだのではないか、と思うところもあったからである。もしもそうであるならば、今泉が言うように、どこまで失踪という形で捜索をしてもらえるのかわからない。家出と判断されたらそれまでである。だからこそ自分たちにできることがないか、という行動しか思い浮かばなかった。

「個人情報になるので、私たちが車の所有者に当たることを手伝ってもらう訳にはいきません。

できるとしても、お二人は百合さんの行きそうな場所や友人に聞くなどをしてもらう事しかないと思います」

「わかりました。申し訳ないのですが、百合の捜索を引き続きよろしくお願いします」

 薫は現状を納得して立ち上がると、二人に頭を下げた。

 村木もそれに続くように頭を下げることしかできなかった。


 警察署を出た村木は落胆の表情を見せて、ため息をもらした。

「お兄さん、もしかしたら百合は、本当は私に愛想をつかしていなくなったのではないでしょうか」

 そんな事を言い放ち、苦虫を噛むような村木の表情を見ていると、薫はそんなことがある訳ないと、強く心に思った。それほどに仲睦まじい二人を見てきたのであった

「そんなわけはないだろう。

 あいつは君との結婚を楽しみにしていたんだ。

 とりあえず家に帰って、もう一度俺たちができることを考えよう」

 薫は村木の肩に手をかけた。そしてその手に力を込めた。それは自らも納得させ、奮い立たせようとしているようであった。

「はい」

 ここで自分が情けない姿をしていても百合は見つからない。もしも自分が思うように、百合が結婚に疑問を持ち、それによって失踪したとしても、探してしっかりと話し合い、もしも別れることになってもいいと村木は考えた。兎に角、今優先するべきことは、勝手な思い込みよりも、百合の安否の確認であると確信したのだ。

 駐車場へと向かい、二人が歩いていると、目の前を歩いてくる老人が、思わず段差で躓いて倒れた。薫はその老人へと近づき、「大丈夫ですか」と声をかけた。

「ああ、大丈夫だ」

 老人は何事もなく立ち上がった。そして薫の顔をマジマジと見た。

「君は大丈夫なのか」

 いきなりかけられた言葉に、薫は反応することができなかった。助けにきた自分になぜその質問が投げかけられたのか……さっぱり理解できなかった。村木はこの老人は痴呆症なのかと思わず警戒した。

「私はここで躓いたが、君は今、人生で躓いたりはしていないか」

 先ほどの言葉といい、薫はのぞき込むように自分を見る老人が一体何を言いたいのか、真意を読むことができなかった。やりとりを見ている村木は、やはりこの老人痴呆なのだろうと、今度は確信するように思った。

「たぶん平気だと思いますが」

 薫は気圧されるように、そう答えるしかなかった。

「そうか、ここ数日、空がうねっている感じがしてな。何か気になったのだ」

 老人は薫に言ってから、空を見上げた。その行動につられるように薫も空を見上げた。何なんだ…村木は言葉とともにそれにならった。しかしいつもと変わらず、晴天の空がそこには広がっていた。

「空が……」

 薫は思わずそこに百合の笑顔を思い浮かべた。

「もう大変なことが起こり始めている。そんな気がするのだ」

 老人のいぶかしがるような表情に、村木は痴呆症以外であればと思い、声をかけた。

「おじいさん、もしかして占い師か何かですか」

 その言葉に空から視線を村木に動かした老人は、ゆっくりと答えた。

「そんなのではないよ。ただ最近不吉な予感がしてな」

 不吉に感じているのはあなたに対する自分たちのほうだ。そう言いたい気持ちを村木はぐっと抑えた。そして老人にかかわることの方が、さらに良くないことを引き起こしそうに思えてならなかったので、すぐに行動を起こしたほうが良いと心を駆り立てた。

「お兄さん、行きましょう」

 村木に即されるように薫はその場を去ろうとしたが、老人はふとそれを遮った。

 そしてポケットから手の平で包めるくらいの大きさの石を取り出して、薫に見せた。

「これがなんですか」

 不審に思った薫は一歩後ずさるような気持ちであった。だが老人は意に返せず言葉を出した。

「私のパソコンを分解したら出てきたんだよ」

「そんな物がパソコンの中に入っている訳ないでしょう」

 唖然とした表情の薫に代わるように、村木が莫迦莫迦しいという顔で言った。老人は村木を睨みつけるではなく、まっすぐに見た。痴呆だけではなく、精神までおかしいのか……そう思うと村木は言葉を失った。

「そう考えるのが普通だろうな。私もそう思うよ。

 ただどうしても気になったもので、パソコンに詳しい知人がこの署にいるので来てみたのだよ」

 老人は表情を変えずに、村木から視線を薫へと変えた。

「そうでしたか、それでは会いに行かれたほうがいいでしょう。

 私たちは急ぎの用があるのでこれで失礼いたします」

 薫はそれだけを言うと老人に背を向けて歩き出した。村木もそれに従った。

 老人は一度目を閉じると、確かに自分は夢か幻覚を見ているのかもしれない。そんな事を考え、そして空を見上げた。

 ただの青い空であるが、やはり老人の眼にはうねっているようにとらえられた。そしてそれは薫を見たことによって、更に大きくうねり、胸の中で増幅しているように感じられてならなかった。

 だからこそ薫が運転する車が駐車場を出ていくまで、その姿を追ってしまったのだ。


「あの老人、痴呆症ですよね」

 村木は動き出した車の中で、思わず考えた事を口にした。

「さあな、だが現実が見えていない感じだったな」

「そうですね、それよりも私たちの現実を見ないとですよね。

 これからどうしますか、先ほどの警察の話しだと、家からコンビニの間でいなくなった可能性があるという事でしたが……」

 村木に言われて薫は、自分たちに何ができるのか考えたが、良い方法は浮かんでこなかった。

「でもなぁ、俺たち素人がやるには難しいとは思わないか」

「あのあたりで、車に轢かれて、側溝の中とか」

 村木は頭に浮かんだことを言葉に変えた。

「あのあたりに開かれた側溝はないしな、しかもその中に隠すとしたら、それこそ警察にはわかるんじゃないかな」

 否定されて、更に村木は考えを巡らせた。

「じゃあ他の道を通って駅に行った可能性は」

「他の道かぁ、でも駅にの防犯カメラには映っていないのだからな。

 それに駅に行くには、やはりいつもの道を通るだろう」

 村木は更に他の方法を模索しようとした。けれども自分の新たな考えが思う浮かぶことはなかった。だが何もしないという方法は一番思いつかなかった。

「とりあえず家に帰ったら、辺りを手当たり次第歩いてみませんか」

 その言葉を聞いて、薫は一瞬考えてから頷いた。

「やらないよりはやってみたほうがいいか」

 と村木の意見に乗ることにした。

 薫にしても村木にしても、何もせずに不安を抱えたままじっとしていることが、どれほど自分たちの心を痛めることであったか理解していた。


 その後、散々歩きまわることはしたが、日が暮れる頃までに、薫と村木は百合の消息にかかわるような情報をつかむことはできなかった。

「いったい百合はどこへ行ったんだ。これ以上探しても……」

「そんなこと言わないでください、まだ私は諦めないですよ」

 弱音を吐くように言った薫の悲痛な表情に対して、村木は否定するように強い口調で返した。

「しかし、これ以上俺たちの手でできることがあるのか」

 首を横に振りながら薫は無念の表情を見せた。

「……」

 村木は返す言葉がなかった。自分たちの思いつく場所はほとんど探したのだ。だからと言って諦めることはできず、同じ場所を何度でも訪れるつもりであった。

「とりあえずもう遅いし、一度家に帰ろう。

 場合によっては村木君の家に連絡が来ているかもしれない」

 薫の言葉に村木は強く唇を噛んだ。それは自らの力の無さの表れであった。

「わかりました。

 一度家に帰ってみます」

 脱力をし、改めて非力を恨むような村木の肩に、軽く薫は手を当てた。

「無理をしないようにしてくれ。

 俺もまだ色々手を尽くすつもりだから……本当に今回は妹がすまない」

 先ほどの弱気よりも、薫の謝罪の表情の方が村木にはつらく思えた。

「お兄さんのせいじゃないですよ」

 どこにも怒りを持っていくことのできない村木は、そんな言葉を出すこと以外はできなかった。

 消沈した気持ちで村木は自宅へ帰ると、すぐに郵便受けを漁った。

脅迫状でも何でもいいから、百合の手がかりが、痕跡があって欲しかった。しかしその思いは叶うことなく、ただチラシが数枚存在するだけであった。

 百合と暮らすはずであった部屋の中へと入ると、思わず疲れが出たのか、ぐったりと椅子へ腰を下ろした。そして脱力すること以外はできなかった。

「百合」

 本来であれば結婚式を終えて、新婚旅行へとでかけているはずであった。だがそれどころか、今は一人の虚無感を抱えることしかできないのだ。

 どこで歯車が狂ってしまったのか……。

 村木は壁に飾られている二人で旅行に行った時の写真を思わず見つめた。

 百合の笑顔を思い浮かべると、その目から悲しい涙が流れるまでには、それほどの時間はかからなかった。


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