第7話:鍵を握る古書
アルフレッドが自身の過去を語ってから数日が経った。
二人の間には、以前よりも深い信頼関係が築かれていた。
リリアーナは、彼の孤独な心を少しでも癒せるよう、温かい紅茶を淹れたり、時には他愛のない話をするようになった。
アルフレッドもまた、彼女の前では、宰相としての仮面を外し、一人の人間として穏やかな表情を見せるようになった。
その日、リリアーナは、書庫の奥深く、最も埃が積もった一角を清掃していた。
そこは、人々が「呪われた」と恐れ、誰も足を踏み入れなかった場所だ。
彼女が埃を払い、古びた書物に手を触れるたび、書物が彼女の指に吸い付くように微かに震えるのを感じた。
まるで、彼女に語りかけるような感覚が、より強く、鮮明になっていく。
そして、彼女の心に呼応するように、壁の奥から一冊の書物が、淡い光を放ちながら姿を現した。
それは、他のどの書物とも異なっていた。
表紙は黒く、まるで夜空のような深い色をしている。触れると、ひんやりとした感覚が伝わってきた。
背綴じには、小さな司書の誓いの刻印が、うっすらと残されていた。
それは、十年前に行方を絶った司書の痕跡だろうか。
彼女は、その書物を慎重に取り出し、作業台へと運んだ。
アルフレッドは、いつものように執務を終えて図書館にやってきた。
そして、リリアーナが抱えている書物を見て、静かに目を見開いた。
「それは……『パリンプセストの書』か?」
アルフレッドの声が、僅かに震えていた。
リリアーナは首を傾げる。
「ご存知なのですか?」
「王家に代々伝わる言い伝えだ。世界の叡智が記された、特別な書物があると」
アルフレッドは、リリアーナの隣に立ち、その書物を覗き込んだ。
表紙には、見慣れない紋章が刻まれている。
それは、彼女がこれまでに解読してきた魔法陣や古典語(ルーメ語)とは、まったく異なるものだった。
リリアーナは、その書物のページを開こうと試みる。
だが、何度試しても、ページは開かなかった。
まるで、固く閉じられた岩のように、微動だにしない。
「……これは、特定の『真名誓約』がなければ読み解けない仕掛けが施されているようです」
リリアーナの言葉に、アルフレッドは短く頷いた。
「やはりそうか。言い伝えでは、この書物は、読む者の理解を反映して内容が書き換わるとも言われている」
その言葉に、リリアーナは、じっとその書物を見つめた。
この書物には、魔法が失われた原因が記されていると思われる。
そして、その真実を解き明かすためには、この書物を開かねばならない。
その時、リリアーナの脳裏に、これまでに解読してきた魔法陣や、古典語(ルーメ語)の断片が、走馬灯のように蘇った。
それは、それぞれがバラバラだった知識が、一つの線となって繋がるような感覚だった。
「もしかしたら、この鍵は、物質的なものではないのかもしれません」
リリアーナは、アルフレッドを見つめた。
「私たちが解読してきた、失われた言語や魔法陣……それらすべてが、この書物を開くための『真名誓約』なのではないでしょうか」
アルフレッドは、リリアーナの言葉に、深い灰色の瞳を細めた。
彼の表情は、驚きと、そして確信に満ちていた。
「君の言う通りかもしれない。この図書館の叡智、そして君の持つ知識こそが、『真名誓約』なのだ」
二人は、じっと『パリンプセストの書』を見つめた。
この書物を開くことができれば、過去の事件の真相が明らかになるだろう。
だが、アルフレッドは、静かに言った。
「真名誓約は、魂そのものを賭ける、危険な行為だ。一度誓約を結べば、二度と撤回できない。君の魂に、取り返しのつかない傷がつくかもしれない」
彼の瞳には、彼女を案じる深い憂いが宿っていた。
「それでも、君は進むのか?」
リリアーナは、真っ直ぐな瞳で彼を見つめた。
「はい。この図書館に眠る物語を、すべて見届けたいのです」
彼女のその強さが、アルフレッドの心を静かに揺さぶった。
知の探求に夢中になるあまり、リリアーナは激しい喉の渇きと、軽い頭痛を覚えていた。
古書の解読には、魔力的な代償を伴うことを、彼女はまだ知らなかった。
だが、その微かな違和感こそが、この先待ち受ける、大きな謎の序章だった。
二人は、それぞれが持つ知恵と、探求心という共通の「鍵」で、この図書館に秘められた真実の扉を、少しずつ開けていく。