君の声は、まだ響いている
誰にも気づかれない声が、世界の隙間に響いていた。
この物語は、ひとりの少女が「自分の存在を証明する」ために歌い続けた、その夜の記録です。
性的な描写はありません。けれど、これは明らかに「感覚」の物語であり、「身体」の物語であり、「崩壊」の物語です。
五感のすべてが、彼女の中で一つずつ壊れていくその過程を、静かに、そして丁寧に描いています。
もしあなたが何かを「失ったこと」があるなら——
その痛みの奥に、きっとこの声が、まだ響いているはずです。
彼女の名前を、誰も知らない。
けれど、地下道を抜けた先、駅前の灰色の柱の下に、
いつも一人で立つ女の子の姿を——
あの、色褪せたカーキのコートに包まれ、ギターを背負った背中を——
何度か目にしたことのある者は、きっと少なくないはずだ。
その立ち姿には、誰とも繋がっていない、澄んだ孤独があった。
コートの下から覗く毛玉だらけの黒いセーター。
革のストラップに擦れたギターの木肌は、長く乾いた風を吸い続けたあとみたいに、くぐもった色をしていた。
アンプの表面は埃と傷に覆われ、延長コードは何度も巻き直された跡で、輪郭が少し歪んでいた。
彼女は、毎夜そこに現れる。
通りすがる人々に小さく頭を下げ、静かにアンプの電源を入れ、
ぎこちなくマイクの高さを合わせ、乾いた咳を一つだけ吐いて——
そして、呼吸と一緒に、歌を滑らせる。
声は、濁っていなかった。
けれど、誰も、足を止めない。
誰も、耳を傾けない。
彼女の声は、人の気配の間をすり抜けるように漂い、
革靴の音、スマホの通知音、地下鉄の低いうなりの中に溶けていった。
それでも、彼女は歌い続けた。
それは歌というより、「熱」だった。
高音へと跳ねあがるサビの瞬間——
喉の奥から息を押し出すたびに、彼女の視界の端で、誰かの背中が微かに揺れる。
遠くで誰かが笑い、誰かがタバコを吐き、誰かが他人の人生を歩いていく。
そのすべての隙間を、彼女の声が通り抜ける。
まるで、声という透明な刃物が、世界の皮膚をほんの少しだけ裂いていくように。
——それで、いいのだと、彼女は思っていた。
なぜなら、彼女には「これ」しかなかったからだ。
写真を撮られるのは苦手で、うまく笑えず、
誰かとつながる手段も、言葉も、彼女にはなかった。
けれど、歌っているときだけは、喉の奥が世界に開き、
声という形で、たしかに「今ここにいる」と言える気がした。
届かなくても、いい。
拍手も、視線も、評価も、要らない。
誰にも気づかれなくても——
たった一音でも、自分の身体からこの世界へ「何か」が溢れ出ていれば、それで良かった。
それは、息をするように静かで、
それでいて、焼けるように痛い祈りだった。
もし、この声すら出なくなったら——
たぶん、そのときこそ、ほんとうに「自分」が消える気がした。
---
違和感は、唐突だった。
いつものように、イントロが終わる。
彼女は息を吸い、顔を上げ、目を閉じて、喉の奥を開く。
高音のサビへ——天井に向かって声を跳ね上げようとした、その瞬間。
音が、出なかった。
ほんとうに、なにも。
破綻でも、失敗でもない。
ただ、喉の中のスイッチが、物理的に落ちたかのように、
空気だけが、すうっと虚空に抜けていった。
彼女の視界が、一瞬で収縮する。
耳の奥で自分の呼吸だけが大きく響き、
世界が、音を失った。
身体が、凍る。
でも、止まってはいけない。
彼女は、咄嗟に歌い直した。
声は出た。けれど——それは、かすれていた。
ひどく、引っかかるような、まるで喉の奥に何か異物がぶつかって振動しているような音。
その瞬間——
「痛っ」
小さく、喉が裂ける感覚。
粘膜の奥を、乾いた布で擦られたような、
皮膚が剥がれたときのような、焼けつくような鋭い痛みが走る。
歌いながら、彼女は喉を抑えそうになる衝動を必死で押し殺した。
音はまだ続いている。誰も、気づいていない。
けれど、身体の中で何かがひび割れた音だけが、はっきりとわかった。
最後まで歌い切ったあと、マイクを切り、
彼女は静かにギターを背負い直し、そのまま立ち去った。
背中が、汗で冷えていた。
喉の奥には、乾いた鉄の味が広がっていた。
* * *
翌朝。
彼女は、診療所に向かった。
医者は、彼女の喉を見て、すぐに眉を寄せた。
症状を聞くなり、数分で紹介状を差し出す。
「大きい病院で、ちゃんと内視鏡で見てもらいましょう。
これ、放っておくと、ほんとうに声、出なくなりますよ」
やさしい口調に紛れていたのは、はっきりとした距離だった。
「このままでは、歌えない」
——そう言われたも同然だった。
紹介状を胸に抱えたまま、彼女は大病院の受付に並び、
番号を呼ばれ、名前を言わず、鼻から管を通された。
冷たいスコープの先端が喉奥をなぞり、
咳をこらえる間に、モニターに映し出された自分の声帯の裏側。
そこに、「影」があった。
小さな、濡れた赤黒い塊。
呼吸のたびに震え、血のような色に濁っていた。
「声帯結節ができてます。少し出血も見えますね。……増殖、始まってますね」
医者の声は静かだった。
静かで、温度がなかった。
「これ以上声を使い続けると、結節が固くなって、
クリアな声には戻らない可能性が高いです。……手術しても、ね」
それは、診断ではなく、宣告だった。
彼女の身体のどこかが破れたのではなく、
「声」という唯一の出口が、塞がれてしまった——
そんな感覚だった。
彼女は、黙って診断書を受け取った。
何も言えなかった。
何も訊けなかった。
ただ、紙を持つ手に力を込め、
それが壊れやすい硝子細工であるかのように、大事に抱えながら診察室を出た。
病院の外は、眩しいほど晴れていた。
吐いた息が喉奥を刺し、思わず咳がこぼれた。
道の向こうから、焙煎した豆の香りが風に乗ってきた。
その香りすら、彼女の鼻腔に突き刺さるように鋭かった。
彼女は、歩道の縁に立ち、
風で揺れる自分の影を、黙って見下ろした。
そして——
唇が震える。
笑いそうになった。
でも、笑えなかった。
「……ああ、終わったんだな、って……」
声は、痛みで途切れた。
けれど、心の奥にあった何かは、
それまでで一番、はっきりと「響いて」いた。
---
その夜、彼女は家に帰らなかった。
手術の説明も、通院計画も、書かれた紙も、
すべて鞄の奥にしまい込んで、
彼女はいつもと同じように、駅前の柱のそばへ向かった。
ギターを背負い、
冷たい風にコートの裾を揺らしながら、
何もなかったかのように、そこに「在る」ことを選んだ。
ただ、マイクには触れなかった。
アンプも電源を入れなかった。
延長コードは、手つかずのまま、足元に巻かれていた。
彼女は座った。
柱にもたれ、ギターを胸に抱えたまま、膝を引き寄せる。
風が吹くたび、前髪が頬を打ち、冷えた空気が喉を撫でた。
首筋に入り込んだ風が、声の通り道を空しく洗っていく。
それでも、彼女は歌わなかった。
身体は覚えていた。
今なら、どの曲のどの音程も再現できる。
けれど、出す必要がなかった。
それは、「歌わないこと」そのものが、彼女の意思だったから。
ギターの木肌は、夜気を吸ってしっとりと冷たく、
指先が触れるたびに、湿った石のような感触を返してくる。
世界は、騒がしかった。
靴音、スマホのシャッター音、地下鉄の吐き出す風。
それらすべての中で、彼女だけが静止していた。
まるで、世界が時間を刻み続ける中、
ただ一人、自分だけが「止まる」ことを選んだような——
そんな、逆転した存在の重さがあった。
誰も気づかない。
誰も立ち止まらない。
今夜も、世界は彼女を見過ごしていった。
でも、彼女は立ち止まっていた。
世界のなかで、たった一人だけ。
音も光も、空気すら通り過ぎるなかで、
彼女の中にだけ、時間が「留まって」いた。
目を閉じれば、耳の奥で微かに鳴る。
それは、かつて歌ったメロディたち。
サビの高音、指先のリズム、呼吸と共に滑り落ちた言葉たち。
それらが、彼女の鼓膜の内側で、幽かに響いていた。
——この空間には、まだ「残響」がある。
誰も聴こえなくても、自分には確かに残っている。
彼女は、それを抱きしめるように、ギターを強く抱えた。
涙は、出なかった。
その代わり、全身が、泣いていた。
喉は熱く、背中は冷え、指先はかじかんで、
まるで自分の身体が、「存在」のすべてで泣いているかのようだった。
誰にも気づかれず、声も、触れるものもなく、
それでも、彼女はそこにいた。
まるで、
この世界からそっと抜け落ちるための、
「予行練習」のように——
---
翌夜、彼女は再びそこにいた。
同じコート、同じギター。
ただ、マフラーを一枚多く巻いていた。
今夜は、昨夜よりも冷えていた。
風のなかに、排気の油と地下鉄の湿気が混じっていた。
柱の横に立ち、延長コードを伸ばし、アンプの電源を入れる。
マイクを調整する手が、震えていた。
それは寒さではない。恐怖だった。
彼女には、わかっていた。
今夜の声は、あと何回出せるかわからないことを。
一曲ごとに、喉が削れていく。
今夜の声は、「代償」で成り立っている。
だから——歌った。
最初の曲は、高校時代に何度も練習した一曲。
イントロが流れた瞬間、身体が条件反射のように旋律をなぞる。
声は出た。
驚くほど、クリアだった。
けれど、喉の裏では、ナイフのような痛みが走っていた。
透明な声の下で、肉が擦れて裂ける音がした気がした。
それでも、歌い切った。
二曲目。
高音が割れる。
かすれが滲み、声がざらつく。
彼女は旋律を変えて低音に逃がす。
でも、それが限界だとわかっていた。
三曲目。
音程が、制御できなくなる。
出した声が、耳の中で「ズレて」聞こえる。
音が音でなくなり、言葉が意味を失い始めた。
四曲目——
声は裂け、喉が悲鳴を上げ、
呼吸のリズムが崩れ、身体の芯が熱く軋んだ。
まるで、叫ぶたびに自分の存在がひと塊ずつ剥がれ落ちていくような——
そんな感覚だった。
そのときだった。
誰かの視線を、感じた。
一人。二人。三人。
通りすがる人々が、立ち止まり、振り返っている。
見間違いではなかった。
女性がスマホを取り出す。
男子高校生が、友人に何かを囁く。
スーツ姿の男性が、足を止め、眉をひそめながらこちらを見ている。
彼女の声は、悲鳴のようになっていた。
それでも、彼女は思った。
——やっと、届いたんだ。
わたしの声、届いたんだ。
今まで誰も見なかった。
誰も聴こうとしなかった。
でも今、誰かが耳を傾けている。
この、壊れかけた声を。
涙が、溢れた。
声を出すたび、喉が裂けるように痛い。
でも、その痛みすら、愛おしく思えた。
彼女は、笑った。
涙をこぼしながら、笑った。
もっと、強く歌おうと思った。
息を吸い、痛みを押し込め、
音程をねじ上げ、声を押し出す。
その瞬間——
彼女は、自分の人生で初めて「ステージに立った」気がした。
それがたとえ勘違いでも。
その視線が、単なる驚きや困惑でも。
彼女にとって、確かにそこに「聴衆」がいた。
それだけで、世界の色が変わった。
五曲目、六曲目……いったい何曲目だったか、もうわからなかった。
開口するたびに、喉の奥が裂けていく感覚。
声は、すでに「音楽」ではなかった。
それでも、彼女は歌い続けた。
なぜなら、歌えば——誰かが、振り返ってくれるから。
足音が止まり、視線が交差し、
誰かの目が、確かに彼女を見ていた。
その実感だけが、声を押し出す燃料になっていた。
七曲目。
歌の途中で、突然、音が途切れた。
口を開いても、音は出なかった。
声が、空気すら震わせない。
風の音。車のクラクション。誰かの靴音。
そのすべての中に、彼女の声は、なかった。
慌ててマイクを調整する。
咳払いをする。深く息を吸う。
でも、音は出なかった。
「……まだ、歌ってるのに……なんで……」
彼女の視線が、ゆっくりと前方を探る。
さっきまで視線を向けていたはずの観客たち。
女子高生が、顔をしかめている。
男が、スマホを見ながら一歩引く。
そして——
一人の年配の女性が、明確に彼女のほうを見て、
ゆっくりと首を振った。
「……ダメだわ……」という口の動きが見える。
それだけを残して、彼女の方を一瞥し、背を向けて去っていく。
その後に続くように、ほかの視線も次々と離れていく。
まるで、彼女がそこに存在しないかのように。
さっきまで確かに向けられていた視線が、
蜘蛛の糸のように、ぷつりと全て、切れた。
彼女は、地面に膝をついた。
ギターはまだ背中にある。
マイクを握る指が、震えている。
息が、上手く吸えない。
それでも、彼女は、歌おうとした。
曲は、まだ流れている。
サビのタイミングも、完璧に覚えている。
だから、彼女は——歌った。
口を開け、言葉の形を作り、
胸の奥に残った旋律を、吐き出すように。
けれど、音はなかった。
世界は、ただの風の中だった。
誰にも聴こえず、自分にも届かない。
それでも、彼女は歌っていた。
音のない「歌」を。
誰もいないステージで、誰もいない観客に向けて。
それは、絶望ではなかった。
もっと深くて、もっと冷たい、音のない叫びだった。
目には涙がにじみ、口元は微かに震えていた。
けれど、彼女の中では、まだサビが鳴っていた。
——最後のサビを、
まだ、歌っていた。
彼女は、立ち上がれなかった。
膝をつき、息を乱し、
喉の奥を震わせながら、口だけが動いていた。
音は出ていない。
声帯は、もう燃え尽きていた。
それでも、彼女はまだ歌っていた。
「歌っているつもり」で、最後のサビをなぞっていた。
誰も、立ち止まっていなかった。
さっきの視線はすべて、どこかに消えていた。
彼女は、笑った。
声のない笑いだった。
喉が痛み、胸が締めつけられて、それでも、笑った。
そのまま、静かに倒れた。
地面の冷たさが、身体を包む。
手はギターの裏板を握りしめたまま、離れない。
唇は、かすかに動いていた。
まるで、まだ最後の音を探しているかのように。
* * *
俺は、このビルの警備員だ。
夜勤専門で、ここに勤めて、もう四年になる。
駅前の出口——
あの灰色の柱と、地下鉄の噴出口と、
あの子がいつも立っていた場所。
全部、目をつぶってても思い出せる。
最初は、ただ通り過ぎるだけだった。
けれど、ある夜気づいたんだ。
雨の日も、風の日も、
彼女は必ず、そこにいた。
笑うことは少なかった。
声も大きくなかった。
それでも、耳に残る声だった。
時々、警備室の小さな窓を開けて、
コーヒーを飲みながら、彼女の歌を聴いた。
何度も思ったよ。
小銭を入れてやれたらなって。
でも、持ち場を離れるわけにもいかなくて、
結局いつも、聴くだけだった。
ある日、彼女の声が変わった。
掠れて、細くて、どこか無理しているように聞こえた。
最初は、風邪かなと思った。
でも——違った。
日が経つにつれて、声はどんどん壊れていった。
悲鳴のようなサビ、破裂音、呼吸すら引き裂くような音。
あの晩、彼女が最後に来た夜。
俺は、窓の外を見ていた。
彼女は、全力で歌っていた。
もう音楽じゃなかった。
音階も、リズムも、意味もなかった。
けれど、その顔は——
まるで、やっと誰かに届いたような、そんな顔だった。
観客はいた。
視線も、あった。
でも、すぐにみんな去っていった。
彼女は、それを見なかった。
いや——見ようとしなかった。
彼女は、自分の声だけを、信じていた。
やがて、声は聞こえなくなった。
口は動いていた。
でも、音はなかった。
俺には、わかった。
——ああ、もう、声が出てないんだって。
それでも、彼女は歌っていた。
風の中で。
夜の中で。
世界から音を失いながら、それでも、歌っていた。
膝をつき、倒れ、
それでも、唇は動き続けていた。
倒れたまま、目は開いていた。
それは、眠るような顔だった。
でも、確かに、何かを——
「まだ歌っていた」んだ。
俺は、怖くなかった。
ただ、悲しかった。
どうしても、このまま見過ごすことができなかった。
俺は、電話を取った。
119番。手が震えてた。
なんて言っていいかわからなかった。
けど——こう言った。
「駅前に、女の子が倒れてます。……歌ってたんですけど、……声が、出なくなって……」
救急車は、すぐに来た。
でも、もう遅かった。
ギターを背負ったまま、
彼女は静かに、横たわっていた。
胸も、動いていなかった。
鼻先に手を当てても、何も感じなかった。
まるで、ライブを終えて、ただ眠っただけのように。
後日、記者に聞かれた。
「何を見たのか」「何を聞いたのか」
俺は、多くを語らなかった。
ただ、一つだけ伝えた。
「……あの子の声、俺、本当に、よく聴いてたんです」
そして、最後にこう言った。
「……最後の声は、何も聞こえなかった。
でも、あの子は、まだ——歌ってましたよ」
本作は、「誰にも届かない声」がテーマの短編として構想されました。
声を失うことは、音を失うことではなく、自分という存在の「出口」が閉ざされることだと、私は考えています。
彼女が最後まで歌い続けたのは、「誰かに届きたかった」からではなく、
「自分がここにいた」という痕跡を、この世界に刻むためだったのかもしれません。
最後に、彼女の声を「聴いていた」警備員の存在は、私たち読者自身の立場でもあります。
見えなかった人、気づけなかった人、そして——
ほんの少しだけ、立ち止まってしまった人へ。
この作品が、あなたの記憶のどこかに、
小さな残響として残ってくれたら、それだけで、十分です。