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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

君の声は、まだ響いている

作者: syubi02

はじめまして、読んでくださってありがとうございます。

この物語は、駅前で毎晩歌い続けたひとりの女性と、その「声」を聴いていた誰かの記憶です。

声が届くということ、誰かに覚えてもらえるということが、こんなにも尊いのだと——

そんな想いを込めて書きました。

少しでも何か、心に残るものがありますように。

彼女の名前を覚えている人は、きっといない。


けれど、駅前の地下道を抜けた先——

あの灰色の支柱の下に立ち、ギターを抱えた女の子の姿を、見たことがある人は多いはずだ。


いつも同じ、色褪せたカーキのコート。

その下に、毛玉のついた黒いセーター。

背中には、ステッカーで埋め尽くされた木製のギター。

隣には、くたびれたアンプと巻かれた延長コード。


彼女は、通りすがる人々に小さく会釈して、

ゆっくりと電源を繋ぎ、マイクの高さを直し、咳払いをして——

そして、歌いはじめる。


誰も、本当に足を止めない。

彼女の歌に、立ち止まって耳を傾ける人は、いない。


それでも、彼女は歌う。


高音のサビを目指して声を伸ばすたびに、

視界の端で、通り過ぎる誰かの背中が揺れる。

笑い声、イヤホンから漏れるビート、タバコの煙。

そのすべての隙間を、彼女の声が擦るように滑っていく。


——それで、いいのだと、彼女は思っている。


なぜなら、彼女には「これ」しかないからだ。

上手く話せない、誰かと繋がる方法も知らない、可愛い写真もない。

ただ、声だけが——歌っているときだけが、

自分という形を、この世界に刻める唯一の瞬間だった。


誰かに届かなくてもいい。

拍手も、言葉も、視線すらいらない。

それでも、今日も、彼女はマイクを握る。


もしも、歌うことすらできなくなったら——

そのときこそ、本当に「自分」がいなくなる気がした。


* * *

最初の違和感は、サビの高音に差しかかったときだった。


いつものように、息を吸い、顔を上げ、目を閉じて——

声を天井に向かって放とうとした、その瞬間。

音が、出なかった。


破綻でもなく、ミスでもなく。

ただ、なにも——本当に、なにも出なかった。


空気だけが抜けていく。

喉の奥のどこかで、スイッチが切れたように。


彼女は一瞬凍りついたが、すぐに歌い直した。

今度は音が出た。けれど、それは…

ひどく掠れていて、異物のような雑音を伴っていた。


そして、痛み。

今までに感じたことのない、喉の中の鋭い痛み。

乾燥でも、疲労でもない。

もっと、こう——何かが擦れて、引き裂かれて、炎症を起こしているような。


それでも、彼女は最後まで歌いきった。

誰も気づかなかった。誰も、聴いていなかった。


翌朝、彼女は診療所に向かった。

医者は症状を聞き、数分で紹介状を書いた。


「こういうのはね、大きな病院で内視鏡、ちゃんと見てもらったほうがいいですよ」


——それは、曖昧なやさしさの形をした、

とてもはっきりとした「境界線」だった。


彼女は素直に従った。

列に並び、番号を受け取り、診察室で管を鼻から通された。

モニターの中、震える声帯の裏に、

確かに、影があった。


「声帯結節と、少し出血も見えますね。もう、増殖が始まってます」


医者の声は、淡々としていた。

ただの事実を述べているだけ、そんな声だった。


「このまま声を使い続けると、どんどん悪化しますよ。

手術しても、元のクリアな声には戻らない可能性が高いです」


——それは、宣告だった。

それも、彼女が一番聞きたくなかった言葉のかたちをした、残酷な現実だった。


彼女は、黙って診断書を受け取った。

何も聞かず、何も言わず。

ただ、両手でそれを握りしめ、

まるで、壊れやすい何かを持っているかのように診察室を出た。


外は、やけに晴れていた。

病院の玄関横から、焙煎した豆の匂いが漂ってくる。

道ゆく人々は、何も知らないまま、日常を歩いていた。


彼女は、道路脇に立ち、

風でシワになった自分の影を見つめた。

そして——笑いそうになった。


「そうか、そうなんだ……これで、終わるんだね」


声は痛みによって震え、言葉にならなかった。

でも、心のなかの声は、これまでで一番、大きかった。


* * *

その夜、彼女は家に帰らなかった。


いつもと同じように、

駅前の柱のそばに立ち、

ギターを抱えたまま、

ただ——黙って、座っていた。


風が通り過ぎるたびに、髪が舞った。

延長コードは巻かれたまま。

アンプも電源を入れず、マイクにも触れなかった。


彼女は、歌わなかった。


何も始めず、何も終えず、ただそこにいた。

抱えたギターの木肌が、冷えた空気を吸って沈黙する。


人々は、気にも留めなかった。

今夜も、誰も立ち止まらなかった。


でも——彼女は、立ち止まっていた。

世界の中で、ただひとりだけ。


そして、その沈黙が、

これまででいちばん重たくて、いちばん優しかった。


目を閉じると、耳の奥で微かに響くのは、

過去に歌ったメロディたち。

音が消えたはずの空間に、まだ残っていた残響。


——それだけを、ぎゅっと抱きしめるようにして、

彼女は、ギターを抱えていた。


涙は、出なかった。

そのかわりに、全身が泣いていた。


誰にも気づかれず、

声も、視線も、触れるものさえなく、

それでも、彼女はそこにいた。


まるで、

この世界からそっと抜け落ちるための

「予行練習」のように——。

* * *


次の夜、彼女は、やはりそこにいた。


いつもと同じ、色褪せたコート。

その中に、一枚余分にマフラーを巻いて。

外はいつもより冷えていた。

風のなかに排気と地下鉄の湿気が混じっていた。


彼女は、柱の横に立ち、ギターを背負い、

延長コードを引き出して、アンプの電源を入れた。

マイクを調整する手が震えている。寒さでは、ない。


彼女には、わかっていた。

今夜の声は、あと何回出せるか、わからないことを。

一曲歌うたびに、確実に「声」は減っていく。

今夜の声は、すべて「代償」で成り立っているのだ。


だから——彼女は、歌う。


最初の曲は、高校時代に繰り返し練習した、あの一曲。

イントロが流れた瞬間、身体が覚えているように、

喉が、旋律をなぞりはじめる。


クリアで、まるで何もなかったかのような声。

けれど、その裏では、

喉の奥でナイフを滑らせているような痛みが走っていた。


それでも、彼女は歌いきった。


二曲目になると、声がざらつきはじめる。

高音が割れ、サビが崩れる。

彼女はメロディラインを変え、低音に切り替えてごまかす。


でも、彼女には、わかっていた。

もう、声が「壊れはじめている」ことを。


三曲目。

音がコントロールできなくなる。

自分の出している音が、自分の中でズレていく。

音が音でなくなり、ただの「声の残骸」になっていく。


四曲目。

声は裂け、息は乱れ、言葉は途中でちぎれ、

彼女の耳に届くのは、

まるで「泣いている」かのような、自分の声だった。


——そのときだった。


誰かが、こちらを見ていた。

視線を感じた。

一人。二人。三人……

通りすがりの誰かが、立ち止まり、振り返り、何かを囁いている。


彼女は、驚いた。


初めてだった。

本当に、初めて——誰かが、彼女の歌を「見た」瞬間だった。


彼女の目に、涙が溜まった。


——やっと、届いたんだ。


わたしの声、届いたんだ。

誰かが、聴いてくれた。見てくれた。

こんなにも、嬉しいことがあるなんて。


彼女は、笑った。

涙を流しながら、笑った。


そして、もっと強く歌おうとした。


痛みを押し込み、息を深く吸い、

震える音程を、押し上げるようにして。


彼女は、自分の人生で初めて「ステージに立った」気がした。


それが——

勘違いだったとしても。

たとえ、その視線の意味が——

「異常」だと気づかないままでも。


* * *

彼女は、まだ歌っていた。


五曲目、六曲目……いったい何曲目だったか、もう覚えていない。

ただ、わかるのは——

開口するたびに、音が「壊れていく」こと。


もはや「歌」ではなかった。

音程も、リズムも、発音すら失われて。

喉の奥で何かが裂け、燃えていた。

それでも、彼女は歌い続けた。


なぜなら、

歌えば——誰かが、振り返ってくれるから。


一人、また一人。

彼女が歌うたびに、誰かの足が止まる。

視線が交差し、誰かが耳を傾ける。

それが、嬉しかった。


これが、夢に見た「ライブ」なんだと、思った。


大きなホールでも、ネットの配信でもない。

この街、この広場。

何度も何度も通ったこの場所で、

やっと、自分の声が誰かに届いた。


それだけで、十分だった。


声が、悲鳴に近くなっていた。

でも彼女には、それが「音楽」に聞こえた。


身体が熱く、喉が裂けるようで、

それでも、胸の奥が溢れるように満たされていた。


もう少し、あと一曲だけ。


そう思って、彼女は息を吸い込んだ。


——そのとき。


音が、消えた。


何も、出なかった。


口を開けた。声を出そうとした。

でも、空気すら震えなかった。


風の音。人の靴音。車のエンジン音。

そのすべての中に、彼女の「声」は、なかった。


彼女は、慌ててマイクを調整した。

咳払いをした。深く呼吸をした。


でも、音は出なかった。


彼女の目が、大きく見開かれる。


「……まだ、歌ってるのに。……なんで、誰も、見ないの……?」


視線が、去っていく。

誰も彼女を見ていない。

さっきまでの反応が、すべて幻だったかのように。


彼女は、地面に膝をついた。

ギターはまだ背中にある。

マイクを握る指が震えている。

息が、早くなる。


曲は、まだ流れている。

彼女は、サビのタイミングを覚えている。


だから、歌った。


口を動かし、心でメロディをなぞり、

歌詞を、正確に、吐き出すように。


けれど、音はなかった。


世界は、ただの風の中だった。


彼女は、もっと強く歌おうとした。

喉を酷使し、声を捻り出そうとした。


でも、出なかった。


出ないのに、歌っているつもりだった。


口の形は正確だった。

目には涙が滲み、足元が揺れていた。


それでも、彼女は、歌っていた。


誰にも聴こえない、

自分にすら聴こえないその「歌」を——


彼女は、全力で叫び続けた。


誰も、何を歌っているのか、わからなかった。

けれど、誰もが「彼女が壊れた」ことだけは、わかった。


彼女は、駅前の広場で膝をつき、

笑いながら、泣きながら、

声の出ない喉を震わせ続けた。


そして、倒れた。


地面に、静かに横たわり、

目を開いたまま、口を動かしていた。


まるで、最後のサビを、まだ歌っているかのように。


* * *



俺は、このビルの警備員だ。

夜勤専門で、もう四年になる。

この駅前の出口の景色は、目をつぶってても思い出せる。


毎晩、あの子が来ていた。

最初は、たまに目に入る程度だった。

でも、そのうち気づいた——

雨でも風でも、あの子は、必ずいた。


笑うことは少なかった。

歌も、うるさくなかった。

声は、綺麗だった。

時々、警備室の窓を開けて、コーヒーを飲みながら聞いていた。


小銭でも入れようかと思ったことはあるけど、

持ち場を離れられないから、結局いつも聴くだけだった。


ある日、彼女の声が変わった。

掠れていて、どこか無理してるように感じた。

風邪かな、と思っていた。

でも、日が経つにつれ、声はどんどん荒れていった。


最初は破裂音、次は悲鳴のようなサビ、

そして、ついには……聞いていられないような、音になっていた。


その晩——

彼女が最後に来た晩、俺は窓の外を見ていた。


彼女は、全力で歌っていた。

喉を削るように、身体を燃やすように。

声は正直、もう音楽じゃなかった。

でも、彼女の顔は、嬉しそうだった。

まるで、やっと誰かに届いたような、そんな顔だった。


立ち止まる人もいた。

視線を向ける人もいた。

でも、すぐにみんな去っていった。

彼女は、その背中を見なかった。

見ようとしなかった。

ただ、自分の声だけを信じていた。


やがて、口は動いているのに、音が聞こえなくなった。


俺には、わかった。

ああ、もう——声が、出ていないんだなって。


それでも、彼女は歌っていた。

声のない歌を、風の中で、夜の中で。


膝をつき、崩れ落ちて、

それでもなお、口を動かしていた。


倒れたときも、目は開いていた。

唇は微かに震え、

まるで、まだ最後のサビを歌っているようだった。


……怖いとは思わなかった。

ただ、悲しかった。

どこか、とても遠くに行ってしまうようで。


通報するつもりはなかった。

この街には、いろんな壊れ方をした人がいるから。

でも、その夜だけは、どうしても、電話をかけた。


119に繋がったとき、うまく言葉にできなかった。

結局こう伝えた。


「駅前に、女の子が倒れてるんです。……歌ってたんですけど、……声が、出なくなって……」


駆けつけたとき、彼女はもう動いていなかった。

ギターを背負ったまま、静かに横たわっていた。


鼻の下に手を当てても、何も感じなかった。

胸も動いていなかった。


眠ってるみたいだった。

ライブを終えて、ただ、疲れて眠っただけのように。


救急車はすぐ来たけど、もう、遅かった。


あとで、記者に聞かれた。

「何を見たのか」「何を聞いたのか」


俺は、多くを語らなかった。

ただ一つだけ、伝えた。


「……あの子の声、俺、本当に、よく聞いてたんです」


そして、最後に。


「……最後の声は、何も聞こえなかった。

でも、あの子は、まだ——歌ってましたよ」

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

「誰にも届かない声」なんて、きっと本当は存在しないのかもしれません。

たとえ世界が無反応でも、その声が誰か一人の記憶に刻まれたなら——

それは、きっと届いていたのだと思います。


あなたの中にも、まだ響いていたなら、とても嬉しいです。

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