転生したらゴブリンだった件
深夜、自宅でゲームをしていたはずの俺は、いつの間にか真っ暗な空間にいた。視界も曖昧で、頭はぼんやりとしている。寝落ちでもしたのかと思った瞬間、目の前にゆらりと“なにか”が立ち現れた。輪郭は人間に見えないが、声だけははっきりと届く。
「汝に新たな命を与えよう。運命の糸が絡まり、今ここに紡がれる」
聞いたことのない響きの声は、どこかしら神聖で、同時に不気味だった。けれど、思考が追いつかない。まるで夢を見ているような、不思議な感覚。気づけば視界が急激に白んでゆき、やがて何もかもが真っ白に――
次に目を覚ましたとき、まず感じたのは強い湿り気と、鼻をつく獣臭だった。重苦しい身体を起こそうとするが、なぜか手足が短い。周囲を見回すと、洞窟のような場所にいる。そして目の前には、緑色の肌をした小柄な生き物。はっきり言って、醜悪な顔立ちだ。しかも、そいつは俺に驚いたような顔をしながらギャアギャアと声を上げている。
「な、なんだこれ……?」
自分でも声を出してみると、かすれたような、高く尖った声。まさか、自分の身体を確認するため、慌てて両手を見下ろす。そこには、まさに緑色の細い指。肌はしわっぽく、まるで雑魚モンスターのような見た目だった。
「嘘だろ、ゴブリン……? もしかして、俺、転生したらゴブリンになったのか……?」
自分のことながら、あまりの衝撃に頭が真っ白になる。あのときの不思議な声は「新たな命を与える」とか言っていたが、それがまさかゴブリンだとは……。
洞窟の奥に連れられ、最初にわかったことは、どうやらここはゴブリンの巣らしいということだ。テントの代わりのように、何枚もの獣の毛皮や葉が吊るされたスペースがある。ほかにも何体かゴブリンがいて、ガラクタのような武器や布切れを身にまとっている。口々にゴブリン語らしきものを話しているが、正直何を言っているのかさっぱりわからない。
同胞(?)のゴブリンは、どうも俺を新人扱いしているようだ。ひょっとすると、ゴブリンは小さく弱い種族だから、数を頼りに生きるのかもしれない。とにかく、状況を把握するまで、彼らと敵対はしないほうがいいだろう。こうして俺は“ゴブリンの群れ”で生きることになった。
一日目:言葉の壁
まず驚いたのは、言葉がわからないということ。日本語どころか、普通の“人間の言語”を話すゴブリンは皆無。しかし不思議なことに、相手の感情の動きや大まかな意味がなんとなく“感じ取れる”ような気がする。ゴブリン独特のテレパシー的なものが働いているのかもしれない。
それでも詳細まではつかめず、不便なことこの上ない。伝えたいことが伝えられないのは相当ストレスが溜まる。とりあえず、目の前のゴブリンが何か指示を出してきたのはわかったので、あいまいにうなずいて付いていくことにした。
二日目:食料調達の洗礼
ゴブリンの生活は単純で、そして過酷だった。洞窟を抜けて森へ出れば、すぐに食料集めを命じられる。主な獲物は小動物や木の実、果実など。魔物と呼べるほど大きな存在にはまず手を出さず、いかに手堅く食料を確保するかが重要らしい。
とはいえ、ゴブリンとしての身体能力はかなり低い。走るのも遅いし、力もそれほど強くない。けれど、鼻がやたらと効くのには驚いた。腐りかけの肉でも場所を突き止められるし、新鮮な果物の匂いにも敏感だ。下等生物のイメージが強いゴブリンだが、こうして身体を動かしていると、意外に生存に適した感覚を持っているのだとわかる。
しかし食事はひどい。生肉をそのままかじるし、飲み水を探すのも一苦労。日本の衛生概念など通じるはずもなく、最初は吐き気をこらえて食べていたが、徐々に慣れてきてしまっている自分が怖い。自分はもう人間じゃないんだ――そんな諦念が少しずつ心をむしばんでいく。
三日目:敵対種族との遭遇
今日も森で木の実を探していると、遠くに人影――いや、獣影らしきものを見つけた。耳の長い、身軽そうな存在。エルフか? と一瞬思ったが、相手はコボルドだった。人型の犬のような姿をした魔物。ゴブリンと同じで、いわゆる下級モンスターのイメージが強い存在だが、この世界ではゴブリンとコボルドは縄張り争いをしているらしい。
しかも、そのコボルドは弓を構えてこちらを威嚇している。危険を感じた俺は思わず後ずさったが、少し遅かった。ヒュッと鋭い風を切る音がして、矢が飛んでくる。幸いかすった程度だったが、痛みと共に生々しい恐怖が走った。
ゴブリン仲間の数体が吠えるような声を上げて威嚇する。すると、コボルド側もさらに仲間を呼ぶ声を上げ、あっという間に小さな戦闘が勃発した。こちらのゴブリンたちは木の棒や短い剣のような武器を持ち、手当たり次第に突撃していく。俺も自分の身を守るため、拾った石を投げつけて必死に戦った。
結果は、なんとか追い払えた形だが、仲間のゴブリン数体がけがを負った。血を流し、うめく仲間を見ていると、ここではこうした争いが日常なのだと実感させられた。ゴブリンとして生きることは、いつでも死と隣り合わせなのだと――。
四日目:進化の兆し?
今日は朝から妙に身体が熱い。熱が出ているわけでもないのに、内側から力が湧き出るような感覚がある。さらに洞窟の奥で休んでいると、頭の中に不思議な声が響いた。
「――スキル獲得:闇視(Night Vision)」
まるでゲームのログのようだ。前世でプレイしていたファンタジーRPGを思い出す。そういえばゴブリンにも“進化”があるという話を聞いたことがある。一定の条件を満たすと、ゴブリン・ソルジャーやゴブリン・シャーマンなど、上位種へと成長するらしい。もしかして、俺は何らかの条件を満たして、特殊なスキルを得たのだろうか?
洞窟の薄暗い場所を見やると、前よりはっきりと見える気がする。これが“闇視”の力? 確かに昨夜はあまりに暗くて苦労していたが、今日はほとんどストレスなく奥まで見渡せる。これなら夜の狩りにも役立つだろう。
五日目:思い始める「これから」
ゴブリンの生活に少し慣れ、俺の中の抵抗感が薄れつつある。洞窟では彼ら同士が助け合いながら生きているし、仲間意識は意外に強い。生まれつき知能は高くないが、生き抜く術を必死に身につけている姿は、決してただのモンスターとは呼べない。
しかし、いつまでもこんな狭い洞窟にこもっていては何も始まらない。いつか、もっと自由な場所へ行きたい。ゴブリンとして転生したとしても、自分の意思で生き方を選んでみたい。
そのためには、言葉の問題をなんとかしなければならないし、敵対種族との戦いにも備えなければならないだろう。ひょっとすると、人間の街へ行くことだってできるかもしれない――いや、どうだろう。人間からすればゴブリンは敵対視される立場だ。捕まれば、容赦なく倒されるかもしれない。それでも、俺は恐れず前に進みたい。
「転生したらゴブリンだった、か。まあ、やるしかないよな」
今はまだ弱く、できることも少ない。けれど、手探りで少しずつでも進んでいけば、いずれは何かを変えられるかもしれない。自分の命運を握るのは、俺自身の意思と行動だ。小さな灯火のような決意が、俺の胸の奥で静かに燃えはじめた。
六日目:突然の侵入者
五日目の夜、目を閉じながらこれからのことを考えていた俺は、洞窟の奥から奇妙な物音を聞いた。ガラガラ……ゴトン、と石が崩れるような音とともに、ゴブリンたちのざわめきが広がる。まだうとうとしていた頭を無理やり覚醒させ、急いで音のする方向へ向かうと、そこには人間……に見える影が立っていた。
ただ、その姿はかなり汚れており、衣服はボロボロ。男性なのか女性なのかすらわからない。人間らしき人物がここまで来るとは、普通では考えられないことだ。ゴブリンたちは一斉に威嚇の声を上げ、武器を構え始める。
その人影は息も絶え絶えの様子で、洞窟の壁を支えに必死に立っている。その姿を見て、俺はとっさに思った。「もしかして、遭難でもしてここに迷い込んだのか?」と。普通の冒険者なら、仲間を連れてゴブリンの巣に踏み込むだろうし、ましてや装備が破れているというのは異常だ。襲撃目的で来たのではないようにも見える。
しかし、ゴブリンたちがそうした事情を察するわけもない。彼らは「敵だ」と判断すれば容赦なく襲いかかる。俺もここ数日でそれを痛感してきた。このままではまずい、と直感的に感じた俺は、すぐそばにいたゴブリン仲間を制止しようとした。だが、言葉が通じない。必死に肩を叩いたり、唸り声のようなもので「待て、待て!」と呼びかけるが、そのゴブリンは仲間を呼ぶように声を上げ、槍を構えるではないか。
このままでは、弱りきった人間をゴブリンたちが文字通り“袋叩き”にしてしまう。思わず俺は人間とゴブリンの間に立ちふさがった。何を考えているんだ、俺は。ゴブリンとしての立場なら、人間に近づく行為は危険すぎる。しかし、かといってこのまま黙って見過ごすわけにもいかない。かつては“人間”だった俺だからこそ、ここで見殺しにするのはどうしても受け入れられなかったのだ。
ゴブリンが槍を振り上げる。俺はとっさにその槍を両手で押さえ込み、必死に押し返した。ゴブリンは仲間相手に攻撃するつもりはなかったのか、少しだけ力を緩めた。その隙に、俺はうなり声で何とか「こいつは敵ではない」と伝えようとする。すると、ゴブリン仲間のひとりが奥に向かって「ギャアッ、ギュア!」と声を張り上げた。やがて、洞窟の奥から一際大きいゴブリン――リーダー格だろう――が姿を現し、状況を見極めるようにゆっくりと近づいてくる。
俺はそのリーダーに向けて必死のジェスチャーを繰り返した。攻撃をやめろ、殺す必要はない、と。しかし、リーダーは険しい表情(に見える、ゴブリン独特の顔つき)で人間を見つめている。ゴブリンの縄張りに他種族が迷い込むなど前代未聞だろうから、警戒を解かないのも当然だ。
そんな膠着状態がしばらく続いた後、リーダーゴブリンは「……ギュゥ」と低く唸り、槍を下ろすよう合図をした。どうやら“しばらく様子を見ろ”ということらしい。俺はホッと胸をなで下ろし、倒れかけている人間に近づいて肩を支えた。相手はか細い声で「……た、助けて……」と言ったきり、力尽きたように気を失ってしまった。
こうして、俺たちゴブリンの巣に、ひとりの人間が転がり込んできたのだった。
七日目:不思議な共存
リーダーから特別に許可を得て、人間を洞窟の隅に寝かせ、最低限の手当をすることになった。といっても、まともな薬や布があるわけではない。せいぜい傷口を流水で洗い、ゴブリンが集めていた山草の汁を塗るぐらいだ。衛生面を考えれば怖いが、今はできることが限られている。
ゴブリン仲間の中には好奇心を抱く者もいた。怪しげに人間の髪や肌を触り、匂いを嗅いでいる。まるで珍しい獲物か何かを見るようだ。相手が起きたときにビビらないか心配になるが、それでも今は攻撃の意思はなさそうだ。リーダーの睨みがきいているのだろう。
ただし、一部のゴブリンは露骨に嫌悪感を示し、あからさまに威嚇してくる。ゴブリンと人間は、基本的には敵対関係だ。長らく冒険者に仲間を狩られてきた恨みもあるのかもしれない。いつこの細い休戦が崩れてもおかしくない状況だ。
そんな中、俺は妙な違和感を抱いていた。転生して以来、ゴブリン同士であればざっくりとした意思疎通はなんとなく感じ取れていたが、人間相手だとまるで言葉がわからない。ただ、言葉として理解はできないものの、「この人間は何か必死だ」という“感情”の気配みたいなものは感じる。これもまた、ゴブリンが持つ特殊な感覚なのか。だとしたら、いつか言葉を超えてコミュニケーションできる可能性があるのでは……と、淡い期待も生まれてくる。
八日目:人間の目覚め
翌日の昼過ぎ、見張りをしていたゴブリン仲間が何やら騒ぎ始めた。人間が意識を取り戻したらしい。慌ててそちらに駆け寄ると、相手は体を起こしてキョロキョロと周囲を見回していた。相当驚いているようだ。目に映るのはゴブリンだらけの光景なのだから、当然だろう。
人間は混乱混じりに「ここは……? なんだお前ら……?」と小声で呟く。声の震えから、恐怖が伝わってくる。俺は何とか安心させようと、攻撃の意思はないことを示すように両手を広げて身振りで示してみる。けれど、相手の警戒心はそう簡単には解けない。
リーダーと目が合うと、彼は低い声で「グァ……」と何か言い、俺を顎で促した。どうやら「お前が面倒を見ろ」ということらしい。俺はこくりとうなずき、人間に手を差し出してみる。相手は怯えながらも、その手を取って起き上がった。すると、今度は俺の顔をじっと見つめ、思い切ったようにこう尋ねた。
「お、お前……もしかして……言葉はわかるのか?」
残念ながら、ゴブリンの口から人間の言葉は出てこない。何か返そうとしても、喉から漏れるのはガァガァとした唸り声だけだ。もどかしいが仕方ない。だが、その様子を見て人間も「あぁ、ダメか……」とがっくりうなだれる。そして次の瞬間、わずかに目を伏せたまま「助けてくれたのか……?」と呟いた。俺は力強くうなずき返す。それだけで、相手の瞳にほんの少しだけ安堵の色が浮かんだ。
九日目:危うい均衡
人間はアレクと名乗った(らしい)。“アレク”という単語だけは、俺にもどういうわけか頭にスッと入ってくる。よほど強く意識して発した名前だからかもしれない。ともあれ、ここでは便宜上アレクと呼ぶことにする。
アレクは一週間ほど前に冒険者パーティーとともに森に入ったが、魔獣の襲撃を受けてパーティーはバラバラになり、自分だけ逃げ延びたものの深手を負って行き倒れそうになっていた、という。食糧も尽き、最後は崖から滑落して偶然この洞窟の裏口近くまで転げ落ちてきたらしい。
もともと冒険者としてゴブリンを狩る立場だったのか? そのあたりはまだ詳しく話せていないが、状況からして可能性は高い。洞窟内のゴブリンたちも、アレクの存在に対して落ち着かないようで、いつ襲撃してくるかと警戒する者は少なくない。一方、リーダーは何を考えているのか、アレクを排除するでもなく、かといって積極的に受け入れるでもなく、ただ見守っているようだ。
俺はというと、アレクが少しでも安心できるよう洞窟内の生活を簡単に教えてやりたかったが、言葉が通じない以上はジェスチャーしかない。狩りに出るときはアレクを洞窟に残すしかないし、その間に他のゴブリンに襲われやしないかと気が気でない。アレク自身も思うところはあるだろうが、どうすることもできないのが現状だ。
そして何より気になるのは、このままアレクが回復したらどうするのか、ということだ。人間の街へ帰るなら、ゴブリンにとっては厄介な情報を持ち帰ることにもなる。逆に、ここで殺してしまえばゴブリンの安全は保たれるが、さすがにそんなことはしたくない。俺自身、理性ではわかっている。ゴブリンと人間は簡単に共存できない。でも、できることならこのまま争いがない形で終わってほしいと願ってしまう自分がいた。
十日目:新たな試み
このまま同じ状況が続くのはまずいと感じた俺は、ある試みに挑戦することにした。すなわち、“言葉の習得”だ。今までゴブリン語と言われるようなものを厳密に学んだことはないが、何となく周囲の気配から意味を感じ取ってきただけだ。けれど、思えばこの世界で生活を続けるなら、ゴブリン内のコミュニケーション手段ももっと正確に把握すべきだし、アレクとの意思疎通も試みたい。
まずは洞窟のゴブリン仲間を巻き込んで、簡単な物の名前を確認してみる。指さしながら「ガブ」「グゥ」など、ゴブリン語ともつかない音を発し、相手の反応を観察する。すると、ぼんやりとしていた仲間が「ギャグ」とか「ゲッ」とか返してくる。正直、どれが正しい発音なのかわからないが、少なくとも互いに共通の物を指してやりとりしているらしいことは確認できた。
一方、アレクにも同じように試してみる。石を指さして、「ストーン」と言われる。布を指さして、「クロス」と言われる。水を指さして、「ウォーター」と言われる――。いや、日本語じゃないな。アレクは人間の共通語を喋っているようだが、俺の脳が勝手に日本語へ翻訳しているわけでもなさそうだ。それでも、その音の響きを繰り返し真似していると、なんとなく舌がその形を覚えてくる。こうして少しずつ、お互いの音を交換し合うように試行錯誤していった。
もちろん、一朝一夕に言語を習得できるわけはない。だが、ゴブリンになってからも感じていた、“相手の感情をある程度察する”という能力が手助けになっているのを実感する。相手の発した言葉に込められたイメージがふっと頭に浮かぶのだ。これはゴブリン特有のテレパシーの一種なのか、それともこの世界特有の魔力の作用なのか……今は定かではない。
十一日目:試される絆
アレクが洞窟で過ごすようになってから、周囲のゴブリンも少しずつ慣れてきたように思えた。近くで寝起きをすることに大きな抵抗を示す者は減り、アレクにちょっかいを出すゴブリンも増えている。なかには興味津々でアレクの装備品を引っ張る者もいたが、アレクは苦笑いしながらやんわりと拒否していた。少なくとも、突発的に殴りかかるようなことは起きていない。
ただ、それは“ゴブリン側の事情”に過ぎない。問題は、森の外だ。森の入り口近くでは、冒険者が魔物討伐を進めているという噂があるらしい。ゴブリンの哨戒役をしている仲間が、森の外で人間の集団を見かけたと興奮気味に報告してきた。どうやら森全体が“危険地域”と認定され、冒険者パーティーや傭兵が続々と集まっているのだという。
ゴブリンたちは震え上がった。これまでコボルドや他の魔物とは互いに小競り合いはしていたが、人間の大規模な討伐隊が来れば、ひとたまりもないだろう。しかも、かつては仲間を殺されてきたという深い恨みがあり、なかには「人間が攻め込んできたら、アレクを人質にして交渉する」という物騒な意見を口にするゴブリンも出てきた。
アレク自身も、その話を聞いて動揺を隠せない。彼は一緒に迷い込んだ冒険者仲間を探したいだろうし、街へ帰りたいだろう。だが、そこに他のゴブリンや俺を裏切らないという保証はない。そのジレンマがアレクの表情に滲んでいた。
リーダーゴブリンはそんな状況でも静かに様子をうかがっている。俺に対しても「ギュア、グル」と落ち着いた声で何かを伝えてきた。それは「まだ動くな。今は時機を待て」というニュアンスに感じられた。外には外の事情があるが、我々には今やるべきこと――つまり、自衛と日々の食料確保――がある。下手に動けば被害を広げるだけだ、と言っているように思えた。
十二日目:決断
だが、事態はゴブリンの都合だけでは進まない。このまま討伐隊の包囲が進めば、いずれ我々の巣が発見されるのは時間の問題だ。ゴブリンは弱い。数を集めても、装備も知能も人間には及ばない。一度見つかれば、全滅も十分あり得る。仲間たちの中にはすでに逃げ出そうとする者も出始めている。俺自身、この巣に長居していたところで、いつかは破滅しか待っていないんじゃないかと不安になってきた。
そんな俺の気配を察したのか、アレクがある晩、洞窟の奥で小声で話しかけてきた。人間の言葉はわからないのに、不思議と意味を感じ取れるようになってきたのだ。
「……一緒に、来ないか? オレは……(ごにょごにょ)……街へ……」
恐らく、「一緒に街へ来ないか?」という提案だろう。彼はこのまま森に留まっていれば危険が増す一方だし、なんとか仲間を探して、人間の街で治療を受けたいはずだ。その際に俺を同伴者とみなしてくれるのは、正直うれしい。だが、俺はゴブリンだ。例え“内面が元人間”とはいえ、見た目は醜いゴブリンに違いない。人間の街へ入ったら問答無用で追い払われるか、最悪処刑されるかもしれない。アレクだって、それをわかっていながら誘っているのだろうか?
迷いは大きい。ゴブリンの仲間たちを見捨てるような形になる可能性もある。リーダーや同胞の何人かは俺を慕ってくれる素振りを見せてくれている。彼らは弱く脆い存在だが、同時に生きるために必死な仲間でもあるのだ。
だけど、いつまでもゴブリンの巣に籠っていれば、何も変わらないまま全滅を待つだけかもしれない。人間とゴブリンの対立が続く今の世界で、もう少し大きな視点を持って何かを成し遂げたい。その思いも強くなってきている。
部屋の片隅で丸くなりながら悶々と考えていると、唐突に頭の中にあの時と同じ声が響いた。
「――新たな進化の条件が揃いました。『ゴブリン(Goblin)』より上位種への進化が可能です」
何だ、これは。突然、前に“闇視”のスキルを得た時と同じような感覚が走る。全身が熱に包まれるようだ。進化? このタイミングで? 進化をすれば、身体能力や知能が向上する可能性があるし、もしかすると人間の言葉を発することもできるようになるのかもしれない。そうすれば、アレクとのコミュニケーションがもっと容易になるかもしれないし、人間の街へ行ってもすぐには正体がばれないようになるかも……。
決断のときは近い。俺が本当は何をしたいのか。人間に戻りたいわけではない。ただ、ゴブリンとして終わるのも嫌だ。ならば、一歩を踏み出すしかない。
――ゴブリンとして、ただ必死に生きるだけでいいのか?
――元人間として、この世界で自分なりの道を切り拓いていきたい。
そんな思いがぐるぐると渦巻く中、俺は固く目を閉じ、心の中で決意を下した。
そして物語は、さらなる転機へ……。
ゴブリンのままでは背負わなければならない宿命がある。けれど、転生した元人間としての知恵や、仲間への想い、アレクの存在。それらを糧に、主人公は新たな一歩を踏み出そうとする。
――ゴブリンを超えた“進化”の先に何が待つのか。
――人間との和解への道は本当にあるのか。
――弱き者たちの行き場は、果たしてどこにあるのか。
弱いからこそ必死に生きるゴブリンたちと、傷ついた冒険者・アレクとの奇妙な共存。森の外へと広がる人間の脅威と、ゴブリンを取り巻く過酷な現実。その狭間で、主人公の選ぶ道が大きく世界を変えるかもしれない。
次回、新たな進化と、外の世界への挑戦が幕を上げる――。