絶望、そして
緊張か、はたまた前日口にした魚に覚醒効果でもあったのか僅かな時間で目を覚ましメグは辺りを警戒しつつ夜を明かした。
本日の天気は曇り。どんよりとした雲が空を覆い日差しがない分気温もやや低く肌を撫でる風が冷たい。
隙間なくローブで身を包めば肌寒さは一気に軽減される。よほど良い生地でも使っているのだろう。
川の水で顔を洗い再び下流を目指す。昨日見た大木にうさぎの姿は既になく胸を撫で下ろしながら歩みを進めた。
斧を持たない左手を持ち上げ手のひらを見れば火起こしによってまたマメができていた。もう一度同じことをすれば痛い目を見るのは明白だった。
メグは空を見上げた。今にも雨が降りそうだ。こんな日には何か悪いことが起きるのだ。思えば仕事で失敗する、階段で転ぶ、財布をなくす…何かが起きる時は決まってこんな空だったように思う。
不安だなぁ。
黒い鳥の群れが視界を横切った。カラスといえば不吉の象徴でもある。あの鳥がカラスであるかは不明だがこんな天気の日に見たい生き物ではない。
無意識のうちに自然と斧を持つ手に力が籠った。
◆◆◆
悪い予感というのは想像以上に当たるものである。
時間帯は分からないが恐らく昼過ぎであろう頃、マメが潰れズキズキと痛む手のひらに顔を顰めつつ焚き火に土をかけ消火した。
やや疲れは感じるが歩みを止めるわけにはいかない。今日こそは、今日こそはと考え進むしかなかった。
歩けど歩けど景色は変わらず自分が本当に前に進めているのか、なんて考え始めた頃。ふと、首筋にピリッと痛みにも似た感覚が走った。
虫にでも噛まれたかな?と呑気に指先でうなじ辺りをぽりぽりと掻いていたその時だ。ソレは姿を現した。
のそり。森の中から出て来たその生物はあのウサギですら容易に噛み殺せるであろう凶悪な顎を持っている。灰色の毛並みは整っているとまでは行かずともとても綺麗なもので、この森において圧倒的な強者であり、狩られる側の存在などでは決してないことを物語っていた。オオカミだ。その存在は巨大なオオカミであった。
今にも飛び掛かって来そうなそのオオカミはグルル…と低い唸り声を上げ口から唾液がダラリと垂らしている。
メグが今まで見た生き物はウサギや鳥、虫などであったため正直に言うと油断し切っていた。歩いていれば自然と人里に着く。肉食獣になどそうそう出会わないだろうと、そう思っていたのだ。
焼けるように首筋が疼く。まるで体が危険を察知しているようだ。相手を刺激しないようゆっくりと腰を落とし斧を両手で握り構える。
抵抗しなければ死ぬ。
そう思った途端に背中からブワッと汗が出るのを感じた。
姿勢を変えた。足元の石が音を立て転がった。それがきっかけとなった。
コンマ数秒。瞬きもできないほんの刹那の時間でオオカミの大きく開かれた口が目の前に迫っていた。
反応できたのは奇跡だった。いや、反応はできていなかったのかもしれない。オオカミが音をきっかけに飛び掛かったように、同時にメグも斧を横に振っていたのだ。
バキッ
何か硬いものを殴ったような衝撃。それに耐えられずメグは横に吹っ飛んでいた。
キャイン!とオオカミは鳴く。まさか反撃されるなんて思わなかったのだろう。急ぎ立ち上がったメグの目に映ったのは体を曲げ横腹の辺りを舐めるオオカミの姿だった。見た限りでは出血など見られない。しかし石の塊で殴られれば痛みは相当のものであろう。
ふと右手に握る斧の重さが心許ないものに変わっているのに気付く。丈夫だと思っていた斧の柄は見事にへし折れ、オオカミの傍にその残りが落ちていた。
生物としての格が明らかに違う。
未だ毛繕いをするオオカミを見て、メグは使い物にならなくなった柄を投げ捨て下流へ向け走り始めた。
アオォォォォオオオオオオオオオン!!!!
やや遅れて後方から空気を震わす程の遠吠えが背中を叩いたが振り返る訳にはいかない。
森の彼方此方から遠吠えが続くように響き始める。オオカミとは元来群れて生きるものだ。
間違いなく仲間がこの場所にやって来る。
先程まであった首筋の疼きはない。背後から足音も聴こえていない。この肉体になって足が速いなとぼんやり思っていたがまさかオオカミから逃げ切れる程の速度で走れるのだろうか。
変わらず続く森からオオカミが出て来ないか警戒し走っていると、後方から頭を掠め何かが前方へと飛んだ。一瞬何が起きたのかは分からなかった。しかしその飛翔物が前方の木に当たった瞬間に轟音と共に爆ぜ炎を撒き散らしたことで理解した。
物語の世界ではよく見る非現実的な現象、魔法であると直感で分かってしまった。
咄嗟の判断である。メグは森へと入り込む。川を見失わないよう、視界の隅に常に入れておく。
木にぶつからないよう避けて走るため速度はかなり落ちているが後方からの攻撃は防げるはずだ。
首筋が疼いた。前方の茂みからオオカミが飛び掛かってきた。が、ヤバそうだと感じたメグは茂みに近付こうとせず横へと進路を逸らし辛うじてそれを避ける。
走る。とにかく走った。
ふと頬に冷たい物が当たる。確認せずともわかった。雨が降り始めた。
しかしそれでも走り続ける。流石に息が切れ始める。むしろよくここまで全力疾走を保てたものだ。
雨はすぐ本格的に降り出す。じきに川の水位が上がるだろう。もし濁流となった川に飲み込まれれば命はない。川の方向だけ覚え森の奥へ、奥へと走る。
再び遠くから聴こえた遠吠えにメグは体を跳ねさせた。体が強張ったせいでぬかるみ始めた地面に足を取られ思い切り転倒した。
全身泥まみれになったことなど気にせず立ち上がるも左足に痛みが走る。どうやら足を挫いてしまったようだ。オオカミに追われている中でこれは致命的である。
しかし逃げなければ死ぬ。あの顎であっという間に噛み殺される。想像すると体に震えが走る。
逃げなければ。逃げなければ。
足を引き摺りながらとにかく進む。
急に開けた場所に出た。目に映るのは明らかに自然のものではない木製の壁のようなもの。
人が立っているのが見えた。門と思われる場所に立つその男性を見てメグの心に光が差したように感じた。手を伸ばしずりずりと重い足でそちらへ向かう。相手はこちらに気付きギョッとした顔で駆け寄ってきた。
「おい!大丈夫か!?何があった!」
「ぁ……た、助けてくださ…い」
目の前までやって来た男性へもたれ掛かるように倒れ、メグの意識はそこで途切れた。