トビウサギ
立ち並ぶ木々、彼方此方から生える植物達。メグは前の世界の草木を思い浮かべて、目の前に広がる光景にそのどれもが存在していないのを確認する。
森歩きに関して前の世界の知識が役に立つことがないのを実感して少し落ち込む。
例えば足元に生えている植物…。大きく広い葉を持つ植物が密集して生えている。それだけ聞けば普通の光景なのだが、その葉に広がる葉脈が着色したかのような鮮やかな青色なのである。
一目見て体に悪そうなそれは、まさかの傷薬の材料になる薬草であると言うのだから驚きである。
いつしかメグは自分の常識をどこかに置いておくのを決心した。
「案外いないわねぇ」
「そ、そうですね」
呑気に植物を観察していたメグをよそに、サーラはしっかりと今回の対象を探していたらしい。
実は今回の依頼というのは、メグにとって初めての討伐依頼となる。意識を改めなければ、と首を横に振りキリッと前を向いた。
しかし本当に見つからない。森の中においてトビウサギの白い毛皮はかなり目立つのだがそれでも見つからないのだ。
ふと、メグは右手に持つ弓に視線を落とした。この世界で初めて目が覚めた場所で入手した弓であるのだが、引こうとしてもぴくりともしない。
では何故持っているのかというと、街で売られているどんな剣よりも硬く丈夫であるため鈍器として使えてしまうのだ。
自分の前を歩くサーラの姿をチラリと見る。彼女は身の丈よりも長い柄までもが金属でできた巨大なハンマーを背負っている。
常軌を逸した彼女の力を以てしてもこの弓を引けないことから、何か魔法のような力が働いているのだと予想している。
意識を改めるという考えはどこへ行ったのか、またしても考えに耽っていたメグはサーラが立ち止まったのに気付いた。
「いるわ」
サーラが指差す方向。木々の隙間から見える少し開けた場所に白いウサギの姿が確かに見えた。
ちゃんと前を向いていたらメグでも見つけられたはずだ。
メグはサーラに促され、発見したトビウサギに向けて先行し始める。自然と弓を握る手に力が籠るのを感じた。
ウサギの耳というのはただ飾りのために大きいわけではない。それほど近付いていない上に、音を立てないよう気を付けて歩いていたにも関わらずトビウサギはこちらに体の方向を変えた。
気付かれているならいつ戦闘になってもおかしくない。メグは弓を両手で握った。
メグとトビウサギの間に張り詰めた緊張感が走る。
メグの首筋にピリッとした感覚が走った。刹那、トビウサギの姿は目の前にまで迫っていた。
ガッ
木々を跳び越える程の脚力から放たれた体当たりによって、弓から手に凄まじい衝撃が伝わり体のバランスが崩れる。
「獲物から絶対に目を離さないこと」とはサーラの言葉である。崩れた姿勢を整えるために腰を落としながらも目立つその白い姿は視界に入れている。
寒期のトビウサギは餌が少なく獰猛になると聞く。メグが初めて出会ったのは暖期であったためここまで攻撃的ではなかった。トビウサギは雑食であるため、もし寒期に出会っていたとすればその場に餌となっていただろう。
チラリとフラッシュバックした記憶を払い、じっくりと観察する。
すぐに飛び掛かってくると思っていたが、何やら体がふらついている。
チャンスだとメグは駆け出し、最低限の動きで弓を振りかぶった。
再び首筋に刺すような感覚が走る。野球のスイングのように振られた弓、そしてふらついたままの体で地面を強く蹴り跳び出すトビウサギ。その両者が衝突した。
鈍い音がした。衝撃に耐えられずメグの体は仰け反り尻餅をついた。
視線が外れてしまった、と慌ててトビウサギの姿を探すと、前方で痙攣して倒れるその姿が見えた。
恐る恐る近付くも反応がない。よく見ると首の骨が折れて身動きが取れなくなっているようであった。
いくら獰猛で、いくら魔物であると言っても見た目だけであれば可愛いウサギだ。その場で力無く倒れるトビウサギの姿を見てメグは口元を押さえ座り込んだ。
生き物を殺す。初めての経験であった。そう意識した途端、先程腕に走った凄まじい衝撃が命を奪う感触であるように思えてしまう。
邪魔をしないよう木陰に姿を隠していたサーラがそんなメグの様子を見て駆け寄る。
「だ、大丈夫かしら?」
そう言って顔を覗き込みハッとした顔をする。そしてサーラはメグの背中をゆっくりと優しく撫で始めた。
「初めてだったのね…?」
そう問われてメグは頷く。魚を釣って捌く経験は何度もあるが、動物を殺すという行為は初めてであった。
普段食べている肉だってこうやって確保されている。それは分かっているし前の世界でだって理解した上で食べていたつもりであった。
しかし自らの手で命を奪うとなると話が変わってくる。
自分の中で入り乱れる感情に振り回されるその間、サーラは黙ってメグの背中を撫で続けた。
◆◆◆
「落ち着いたかしら」
かなりの時間そうしていた気がする。まだなんとも言えない気分ではあるが少しマシになった気がする。
「後の処理は私がするから休んでてもいいわよ」
サーラは立ち上がり、未だ命を落とせないまま痙攣するトビウサギの方へ歩き始めた。
「あ…せめて私も見ます…」
あんな姿にしたのは自分だ。見たくないからと目を逸らすのはあまりに無責任がすぎるだろう。
「大丈夫なの?」
「…はい」
心配そうな顔をするサーラに大きく頷くと、暫く何かを考えるような仕草をするサーラだったが、やがて頷いた。
「しんどくなったら目を逸らすのよ」
メグは頷いた。