Noto.3 翔太の選択
Note3 翔太の選択
四国の実家から帰りどの位経ったであろうか。萌美と彩夏はもう普段の生活に戻っていた。彩夏は来年母と一緒にアメリカに留学しようと決めて、萌美は仕事が忙しく毎日遅くなるので寿司三昧の大将の店で働いていた。一人で家にいると心が自然と暗くなる。だから活気ある忙しい大将の店は彩夏の気分転換には打ってつけだった。
「彩夏ちゃん茶碗蒸しまだかなあ」
客の声が聞こえる。
「今行きます。ちょっと待って下さい」
彩夏は寿司三昧の看板娘に何時しかなっていた。そんな彩夏の姿を心配そうに眺めながら目を細めている大将だった。女将さんは忙しいのに彩夏の後姿を目で追いながら見守っている。
萌美が仕事から帰り彩夏が必死になって働いている姿を見て頼もしく思ったりした。
「大将、彩夏お荷物になってない?いつでも邪魔になったら云ってくださいね」
「先生大丈夫ですよ。今の彩夏ちゃんの姿を見てくださいよ。もう店の看板娘ですよ。すっかり立ち直って生き生きして頼もしいです」
大将が笑いながらそういうと同時に店員の一人が
「彩夏ちゃんが来てくれてから売り上げが目茶苦茶上がっていますよ。ねえ、大将」
そう店員の一人が愛想を崩しながら云った言葉を聞いて萌美は声を立てて笑った。大将と女将さんは彩夏が大のお気に入りだし彩夏も大将を自分の父親のように慕って育ってきたこともあるのだろうか、この店に彩夏はぴったりと決まっている。大将夫婦は子供がいないので彩夏に店を譲ってもいいとまで云ってくれている。みんな家族的な包容を有難いと萌美は思った。
一日の仕事が終わって二人はリビングでワインを飲みながら話し込んでいた。
「ママ、パパのこと色々教えて・・・・・・」
「そうね、知っておく権利はあるよね。でも何を聞きたいの?あんなにきついこと四国で云ったのに。あの時ママは本当にどうなるのか心配だった。彼も大人だから我慢してくれたけど彩夏は云い出したら後には引かないから怖かったわ」
萌美は彩夏にどうしてあんな言葉を投げつけたのか聞いたが彩夏自身よく分からなく感情に任せて思い切り吐き出してしまったと云った。それを聞いて萌美は今まで誰にも話さなかったことを彩夏に話し始めた。それは学生時代一緒に住んでいた生活のことだった。
彩夏が云った。
「あの男の好きな色や好きな食べ物って知っている?私それだけは避けたいから知っておきたいのよ」
「そうね。好きな色はオレンジとかグリーンとかホワイトじゃなかったかな。花は百日草であとワインやコーヒーは好きだったね。食べ物は麺類で特にスパゲティは自分で作るほど得意だった。ただワインやコーヒーは二人とも拘りがあったからうるさいよ」
そう云って萌美は笑った。
「どうして百日草の花が好きなのだろう」
萌美は誠が百日草の花が好きな理由を教えてやった。
まだ誠が小さい頃といっても中学生の頃の時分で母親と一緒に百日草の種を庭に播いたそうだ。いつしか梅雨が明け初夏を迎えた頃にオレンジの花が咲いた。学校から帰ると母親は百日草の花が咲いたことを誠に話した。そこで誠がドアを開けるとそこにはオレンジ色に庭の畑一面に綺麗に咲いた百日草が飛び込んできた。まるでそこは後光が射しているような感じで何とも言えない風景だった。母親との思い出は沢山あるけどこの花の思い出が一番印象に残っていると云っていた。初夏から晩秋まで百日も長く咲くから百日草っていうのだと教えられ、それから好きな色はオレンジで花は百日草が好きということになったのだと彩夏に話してあげた。
「マザコンなのだね。子供の頃の印象が強かったのだ」
そう云って彩夏は笑った。
誠は岐阜の東部でどちらかと云うと新興団地に住んでいた。元々はかなり田舎に住んでいたそうだが父親の代に今の住居を構え永年住んできたとのことだった。団地も一回り三十年で今や岐阜市で一番古い団地となり介護やバリヤフリーとか老人団地とかでなく表現の仕方がもう少し気の利いたものがあるのではないかと思うのだがそう言う環境の中で育ったそうだと萌美は彩夏に話した。百日草はその庭での話だった。
「ねえ、彩夏もう少しパパのこと知った以上は優しくしてあげて。もう会うことも無いと思うけどそう思わないと寂しいでしょ」
「ママ、それだけは勘弁して。あの男は私にとっては疫病神なのよ。それはママも知っているでしょ。だから私は一生会わないしパパなんて絶対呼ばない。今まで通りママだけでいいの」
そう云って彩夏は長い髪を右手で掻き上げて萌美に抱きついてきた。萌美は彩夏が確かに翔太を失い今まで知らなかった自分の父親を知って心が乱れている気がした。その時萌美の携帯に着信音が鳴った。
「えっ・・・・・・」
そう云って萌美は絶句した。
「じゃあ、今から行きます」
萌美は大きく息を吸って彩夏に云った。
「彩夏、驚かないでね・・・・・・」
「何?何かあったの?」
「翔太君が自殺をした・・・・・・」
「えっ・・・・・・自殺?」
彩夏はその場に崩れるように座ってしまった。そして大きな声で叫び絞り出すような泣き声を出した。頭の髪を掻きむしり声にならない嗚咽を絞り出すようにテーブルを叩きながら泣きじゃくった。ワイングラスは倒れ絨毯に零れ落ちた。そして白いマットはワインで真っ赤な色に染まり、それはあたかも翔太の血のような感じだった。
「彩夏、亡くなったとは限らない。状況がよく分からないからタクシーで行こう」
そう云って二人は身支度をして慌ててタクシーに乗り込んだ。あまり目立たない普段着で行くことにして萌美は少し地味なグレー系のワンピースで、彩夏はジーパンにポロシャツを着てタクシーに乗り込んだ。タクシーの中から見る街並みの風景はネオンがやけに静かで止まっているように見えた。普段は黄色やオレンジ、赤色などのネオンがキラキラ輝いているのに今夜は翔太のことで頭が一杯だったせいか自棄に静かに見える。どうか助かって欲しいと彩夏は両手を自分の前で組んだ。
「原因は私のことだろうなあ」
ぽつりと彩夏が言った。四国で別れてからちょうど一か月ほどでのことだった。どうして死を選んだろうか。それだけ自分を愛してくれていたのかと思うと彩夏は涙が流れたが拭くことを忘れるほど茫然としていた。萌美は彩夏の横顔を見た時タクシーは勢いよく病院の正面玄関に横付けにした。
萌美は車から降りるとすぐ受付に走った。もう病院は外来の客もいなく、深夜に近い状況だったので裏口から入り足音だけが大きくホールに響いた。そこに誠が頭を項垂れて廊下を歩いてきた。萌美は誠に走り寄った。
「翔太君どうなの?」
誠は何も言わず首を横に振った。彩夏はわっと大声で泣き崩れた。
「翔太、翔太・・・・・・」
何度も翔太の名前を呼んで床を手で叩いた。そこに瑞菜がゆっくり歩いてきた。
「彩夏ちゃん翔太は死んだわ。手首を切って二時間前に自分の部屋で亡くなった。全部あなたの責任よ。どうしてくれるの・・・・・・。翔太を返せ!」
瑞菜はそう云って思いっきり平手で彩夏の顔を叩いた。その弾みで彩夏は床に大きな音を立て叩きつけられた。それを見た萌美は怒った。
「何で叩くのよ。どういう積り?」
彩夏を抱きしめた萌美は瑞菜を睨みつけた。
「自分の子供ならしっかり管理位しなよ。翔太が云っていたけどいつも家にいなくて習い事とか電話ばかりしているって云っていた。最低の母親だわ。私を叩いたことどうしてくれるの。傷害事件で警察に被害届出してもいい」
「彩夏ちゃんもその辺にしておいてくれないか」
「誰も分かってくれない・・・・・・」
瑞菜はそう吐き捨てるように云って壁に凭れ泣き崩れた。萌美は何も声を掛ける事は出来なく、久しぶりに二十年振りに瑞菜と再会したらこんなことになるとは夢にも思わなかった。放心状態で廊下をふらふら歩きながら呟いていたが聞き取ることは出来ない。
深夜の病院のホールは人気がなく静まり返っている。彩夏が小さい声で泣く声だけがホールに響いた。萌美は翔太に会えるかと尋ねた。誠は今会わない方がいいと思う、少し瑞菜も気分的に落ち着いてから会った方がいいのではないかと云った。
その時、彩夏は瑞菜が病室に入るのを見届けると脇目も振らずにその病室に走った。
「彩夏、彩夏待ちなさい」
萌美は必死で声を出して病院の廊下に声が響いた。そして彩夏を追うように萌美も走り結局誠もその後に続いた。
寒々とした病室の中でベッドに翔太が顔に白い布を覆って安置されていた。大きな蝋燭と線香の香るその傍らに瑞菜がぼんやりと立っている。外は少し風が出てきたのか彩夏の心の動揺を表すように木立の音がサワサワとしていた。彩夏は入口の壁に力なく凭れて
「翔太・・・・・・」
と消え入るような声で呟いた。そして我慢していた気持ちを抑えきれなくなったのかベッドに倒れ込むように駆け寄り翔太の体を大きく揺すった。
「翔太・・・・・・、翔太・・・・・・。どうしてこんなことになったのよ。どうして云ってくれなかったの」
誠は翔太の白い布をそっと両手で取って
「綺麗な顔をしているだろ」
と云って涙を流した。翔太の顔は青白く少し笑みを浮かべているようにも見えた。彩夏は翔太の顔を両手で挟んでじっと見つめながら涙を流し翔太の頬に顔を埋め、そして翔太の唇に彩夏は唇を重ねた。萌美は黙って様子を見ていたがそっと彩夏の背中を抱えた。しかし、彩夏は何を云っても受け付けなく一気に泣きじゃくり静寂の病室の中でひと際泣き声だけが響き渡った。
「彩夏ちゃん、責任は取ってもらうよ」
突然静寂の中で瑞菜は彩夏に言葉を投げつけた。
「責任って?どういう意味ですか?」
「翔太はあなたと異母姉弟と云うことで悩んでいたわ。結婚できないということで手首を切ったのよ」
「それって私に死ねと云っているの?こんな原因を作ったのは誰よ、私たちは被害者じゃないの。誰が加害者よ、私の方こそ責任を取って欲しいわ」
「彩夏、今回のことはそんな簡単な問題ではないのよ。だからまた日を改めて話をしましょう。今は翔太君のご冥福を祈ってあげるしかないと思うの」
「そんなこと分かっている。警察の現場検証が終われば話をするわ。今日はもう帰ってくれる?今夜は翔太と二人で過ごしたいから」
確かにその瑞菜の気持ちは理解が出来る。萌美は彩夏の肩を抱いて廊下に出た。誠が二人の後に続いて歩いて玄関まで見送りに来た。
「お忙しいところありがとうございました。瑞菜も気が動転しているので彩夏ちゃんに失礼なことを云ってごめんね」
誠は顔を引きつらせて頭を下げた。
彩夏はセーターの袖で涙を思い切り拭いた。
彩夏は帰りのタクシーの中で四国の瑞応寺で会った時のことを萌美に少しずつ話した。
あの日は凄くいいお天気だった。桜の花が咲き春爛漫という感じで普段であれば楽しい日に違いがなかった。しかし、あの時二人は姉弟と言うことで気持ちが重かった。翔太は姉弟でも構わないから結婚したいと云った。彩夏も正直心が動いたそうだが、自分の周りの人に迷惑を掛けて将来も同じように心配を掛ける事は姉弟としてはやはりまずいのではないかと考えた。上手く二人が今後も距離を置いて付き合える方法はないかと彩夏は模索していた。しかし、翔太は一緒になることが飽くまで前提だった。彩夏はそんな中で母親と二人で母子家庭として育ったことが辛く、世間に対して何か背を向けて生きてきたような気がしていた。仮に翔太と一緒になっても黙っていれば分からないかもしれないが心の深い傷として一生背負って生きていくことが生い立ちに重なる気がした。だから別れる決心をしたのだと萌美に云った。翔太はそれが納得出来ないようだったと彩夏は車の中で涙を流しながら話をした。
自宅に帰った萌美は彩夏と黙ってテーブルに座っていた。
「彩夏ワイン飲み直そうか。弔い酒だよ」
「うん、飲みたい」
そう云って萌美はガスを付けて簡単な料理を作りだした。彩夏はワインセラーから翔太が持って来たワインを取りだしてコルクを抜いた。静寂の中をコルクが抜ける独特の音が部屋に響き渡った。そしてチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番変ロ短調作品23のボリュームを少し大きく上げてイタリアワインを飲んだ。翔太はどちらかと言うとフランスよりもイタリアの方を好み、アフリカやスペインのように少し重い濃い目のワインを何時も飲んだ。だからフランスよりイタリアの方が合っていたのかもしれなかった。
萌美は手際よくアスパラとベーコンの卵炒め、チーズのスライスを作った。
「翔太君のために飲んで慰めてあげようよ」
「うん、どうして相談してくれなかったのだろう。話すことさえ無意味だと選択したんのだろうか。過去は選択できなくても未来には選択肢はいくらでもあったのに」
彩夏は大事な時にしか使わないバカラのワイングラスをテーブルに三人分並べてみた。翔太の分もテーブルに置いてやりたいと彩夏が云うのでその通りにした。グラスにワインを注ぐと彩夏が体を震わせながら声を出して泣きだした。
「ワインの色を見ていると翔太の血の色のような気がする。どうして死んだのだよ。あの馬鹿野郎・・・・・・」
彩夏はテーブルに顔を埋めて嗚咽を漏らした。萌美はリビングに掛けている「ワインと檸檬」の油絵を見つめた。この部屋で翔太と色々話をしたことが思い起こされ萌美も言葉に詰まった。この絵だけが二人を見つめていたのだ。
あの絵は自分が誠を罵り雨の中を誠が部屋を出て行ったことを知っている。萌美はすぐに帰ってくると思ってはいたが一向に帰らず一日が経ち、一週間経ちそして一か月が経った。あの時萌美は誠に謝ろうとしたが、誠はそれ以降自分の前から姿を消し電話も繋がらなかった。酷いことを云ったのだから自分が悪いと思い我慢をしたがそれでも帰って来て欲しいと思った。毎晩一人で彩夏をお腹に抱えワインをがぶ飲みした。あの時のワインの色は将に真っ赤に熟れた葡萄の熟成した色で何とも言えない寂しい色だった。今彩夏は同じような事を考えているかもしれないと萌美は思った。
[彩夏飲まないの?彼の分まで飲んであげなくちゃ]
「ママが先に飲むよ、いい?」
そう云うと萌美は翔太のグラスのワインを口にした。
「ママ、全部飲まないで。私も飲むから・・・・・・」
そう云って彩夏は萌美からグラスをもらうと残りのワインを一気に飲み干した。
「一応お姉さんだからね」
そう云って彩夏は小さく笑った。この姉弟が現実なのだから仕方がないがもっと早い時期に知っていればこんなことにはならなかったかもしれないと萌美は思った。
「瑞応寺で彼は姉とは思えないし姉弟とも認めないと云った。でも私たちがその垣根をすでに通り越しているのだから元に戻るのは非常に難しいことだったけどそこに戻ってはいけないと考えたの。みんなに迷惑をかけてどうして戻れるの。戻るって簡単だわ、あの時翔太は私を以前のように求めてきた。今までなら応じていたと思うけど私は拒否したの。そのことが翔太には酷く辛かったみたい。私はすぐに翔太の気持ちが分かったけど翔太の手を握って泣いていたの。翔太が死ぬのなら一緒になればよかった」
彩夏はそういって夜の街を窓から見た。血の繋がった姉弟ということが分かり自分が一歳でも年上の姉であることが辛かった。しかし、そうするしか方法がなかったしもう会わない方がいいと思い別れ話をしたのだと彩夏は肩を震わせた。
「ママは彩夏の行動は正しいと思うわ。翔太君は確かに弟で仮に異母姉弟でも戸籍は違うのだから結婚は出来たでしょう。でもそれは正しい選択なのかそれともしてはいけないのかという選択になると思うの。結婚する選択もあればしない選択もある。未来は過去を覆い隠すことが出来る。でもできれば自然にそうなったのなら仕方がないけど知ったうえで一緒になるというのは問題だと思う。二択でどちらか選択と言う考え方は民主主義的ではないわ。人それぞれに考え方が違うのだからそれはそれでいいと云う方も見えるかもしれない。不器用な選択も選択肢の一つには違いない。でもママは彩夏がとった行動は彩夏自身が決めたことなのだから結果的に翔太君が自殺ということになったけれど、理解してもらえなかったことは致し方ないと思う。ママが彩夏の立場であっても同じような行動をしていたと思うわ」
静かに夜は更けていった。萌美と彩夏はもう泣かなかった。それにしてもどうして悲しい思いを二人はしなくてはいけないのか、彩夏が産まれるまでは誠とうまくいっていたのが何時しかこういった流れになってしまった。
「ママ、寝ようか」
「そうね、シャワーを浴びて寝よう」
そう言った会話をして二人はベッドに入った。ベッドに入って彩夏は萌美にほの暗いライトの中で抱きついてきた。
「ママ、彩夏を抱いて。怖いの」
萌美は彩夏を抱擁し軽くキスを頬にした。彼女は萌美の胸に力を入れて体を震わせながらまた嗚咽を漏らした。萌美も涙が止まらずその夜は何時しか気が付くと朝の光がカーテンから射していた。
警察の現場検証が終わりお通夜となりその翌日葬儀となった。萌美と彩夏は葬儀場に顔を出した。その日は暖かい初夏というより夏のような汗ばむ天気だった。葬儀場は瑞菜の父親の建築会社佐々木組が取り仕切りあちこちに佐々木組のテントが見える。喪服を着た萌美は香典袋を渡して参列の中に入って入った。中央に翔太の大きな笑っている写真が祭壇にあった。写真の周りは白い菊で覆われその前に棺が横たわっている。彩夏はあの時の写真だとすぐに分かった。サークルで二人が出会って動物園に遊びに行った時の写真だった。彩夏は動物が好きだったし翔太も好きだということもあって二人は動物園でデイトをしようと云って初めて遊びに行った時の写真で彩夏が写した写真だった。
思いを起こし写真を見ると余計悲しさが胸を打つ様子が萌美には分かった。住職の読経が終わり順次焼香をしている時、彩夏が焼香をしようとすると瑞菜が突然言った。
「あなたには焼香はしてもらいたくない。帰って!」
「瑞菜、何云っているのだ」
誠はそう云って瑞菜の言葉を止めたが彩夏は瑞菜の声を無視して焼香をして唇を噛みしめながら正面の翔太の写真をぼんやりと見つめた。
「翔太、さようなら・・・・・・」
「ママ、帰ろう」
そう静かに云って二人は葬儀場を後にした。不思議と彩夏はもう涙が出なかった。萌美も疲労感はあるがもう翔太のことは忘れようと思った。
それから一週間後萌美に誠から連絡があった。
翔太の葬儀の後、一週間ほどして誠は瑞菜の父親から呼び出されたとのことだった。
佐々木組の本部は誠の会社の近くにあったが何となく嫌な予感がした。大きなロビーに入ると受付の女性が待ち構えていたように早口で云った。
「社長がお部屋でお待ちです。今から連絡を入れますから社長室に行ってください」
と受話器を取りながら笑顔を見せた。
社長室は展望のいい三階にある。大きなソファーに腰をゆったりと下ろし誠を待っていた。型通りの挨拶をしてソファーに座った。佐々木謙三は一代でこの会社を立ち上げて中部地方ではかなり顔が利いていた。
「君は葬儀の時に来ていた彩夏という女性を自分の子供だと認めているのか?」
「はい、申し訳ありませんが学生時代に結婚を約束していた女性がいましたが別れたのです。その時女性は彩夏と云う女性を身籠っていたということなのです。その後瑞菜と結婚しましたので翔太とは姉弟ということになるのです」
「理由は分かった。しかし、結果翔太はもう帰ってはこない。これは事実なのだ。瑞菜は君と別れたいと云ってきたがどうする?今まで子会社で君を役員まで引き上げたが別れると云うならば勝手な都合だが会社も止めてもらうことになるがよく瑞菜と話をしてくれないか。あいつもかなり気が動転して我が儘なのでこちらも頭が痛いよ」
佐々木謙三はそう云ってソファーから立ちあがり窓の外を眺めた。誠は後姿を見ながらもうここに来ることはないだろうと思った。
「お話は概ね理解いたしました。では、社長これで失礼します」
誠は外に出るともう梅雨前ではあるが空梅雨なのか蒸し暑い日差しが容赦なく照りつけて、彩夏や翔太の怒りが太陽の光の欠片になって突き刺すような気がした。
翔太の葬儀も無事に終わりやっと自由な生活に戻ってはきたが瑞菜は実家から帰っては来なかった。父親が云っていたように離婚をするというのだろうか。誠はそれならそれでもいいと思ったが理由が分からなかった。あるとすれば翔太と彩夏が自分の子供であったということぐらいだった。
その一連の話を萌美にすると
「別れた方がいいよ」
と返事が返ってきた。別れることは問題ではなく今までの経緯がドラマのように明確な筋書きが描かれた脚本の様な気がした。萌美はもう瑞菜に振り回されるのは勘弁して欲しいし、確かに誠にしても今回の筋書きは読めなかったけども翔太の犠牲が何か取り残されたような一抹の寂しさを感じる。瑞菜は大学時代から誠をマークし自分の父親の会社に入れる計画を立てていたに違いない。そうすることで誠を経済的に自由にして繋ぎ留めておくことが出来ると思ったのではないかと萌美は思った。
その翌日一通の期日指定の手紙が届いた。差出人は翔太で彩夏への手紙だった。萌美は慌てて彩夏に連絡を取った。急いで帰ってきた彩夏は不思議そうにその水色の封書を手にした。封筒を開けると水色の便箋に見慣れた文字が飛び込んできた。
彩夏へ
こんな結末を選択した俺を許してくれ。
本当は彩夏と一緒になって一生一緒に暮らしたかった。この手紙は期日指定にした。この手紙を彩夏が読んでいる頃もう俺はこの世にはいない。今俺は自分の部屋でワインを飲みながら思い出に慕っている。
何といっても彩夏は俺のお姉さん?そんな馬鹿な話はない酷い話だ。仮に同じ血を引いていても一緒になりたかった。そう云う選択肢は俺にはあったが彩夏にはなかった。あの四国の瑞応寺で彩夏は俺に別れようと云った。あれでもう俺は別れる決心をするしかなかった。でもあの時彩夏が一緒になる選択をしてくれればと思ったが駄目だった。好きだったから傷付けたくなかったし素直に引いたのだよ。俺たちって不器用な者同志だったのだと思う。
これから先どんな生き方をするか分からないが俺はずっと彩夏を見守っている。何時の日か会える可能性があるのならいいが俺はこういう選択をするしかなかった。勝手な振る舞いで呆れたと思うかもしれないけど俺は真剣だった。いつまでも彩夏の幸せを祈っている。これまでの楽しい思い出はあの世にもっていくよ。さようなら。
青山 翔太
彩夏は大粒の涙を手紙の便箋にぽたぽたと落とした。そして何を思ったのか窓を開け岐阜城の方角に向かって大きな声で翔太の名を叫んだ。
「翔太!」
「翔太!・・・・・・馬鹿野郎!」
ベランダの手摺に凭れ彩夏は泣き崩れた。
「何で死んだのだよ・・・・・」
床に落ちた翔太の手紙を萌美は読んだ。何とも言えない気持ちでただ彩夏を抱きしめるしかなかった。それは母親のような母性愛ではなく友人のような仲間の愛だった。
「ごめんね、彩夏。私たちが悪いのよ」
萌美はそう云うのが精一杯だった。封書は期日指定で差出日は死ぬ前日だということが分かった。何という皮肉な話だ。誠と不自然な理由で別れそして今また娘の彩夏と翔太がこういう別れを選択した。経緯はどうあれ死をもって清算するという考え方は誰が責めることが出来ようか。翔太は翔太で精一杯考えたうえでのことだろう。ただ彩夏とのことを誰にも相談が出来なかったことが死を選択させた原因かもしれない。萌美はベランダの手摺に凭れてぐったりしている彩夏を部屋にゆっくり連れ戻した。その時突然に彩夏はテーブルの上に置いてあった翔太の手紙を一気に破り捨てた。何度も何度も破り小さな紙屑のように千切っては床に落とした。
「彩夏、最後の手紙そんなことしていいいの?」
「私だって残しておきたいけどもう過去は捨てる。過去にどんな意味があるの。生きるって価値があるけど自殺は自分のプライドだけよ」
そうではないと萌美は言いたかったが何故か口に出しては云えなかった。
梅雨が終わり夏になった七月の下旬のことだった。萌美と誠はレストランで食事をしていた。そこは長良河畔の近くの展望台がよく見えるラウンジの一室だった。それにしても萌美は今まで苦労をして彩夏と二人で頑張って来たがそのことは何だったのだろうかと思った。誠はただ今までの経緯に憤慨して一気に喋った。
家に帰ると瑞菜が帰ってきていた。緑色のワンピースを着てソファーに座っている。おもむろに誠の前でバックからファイルに入れた書類を取り出し印鑑を押した離婚届を差し出した。誠は予測していたがいざ直面するとやはり不安だった。瑞菜はただ項垂れて泣いていた。
「どういうことなのだ?」
「別れたいと思います。別れてください。あなたには萌美が似合っている」
しかし、この後瑞菜はぞっとするような告白をした。それを聞いた誠は立ち上がってテーブルに座っている瑞菜に向かって両手をぶるぶる震わせ怒りをぶちまけた。事実を聞いた時、誠は殺意さえ覚えた。
実は翔太は自分の子供ではあるが誠の子供ではないというのだ。誠が海外に一年間出張して帰る直前に浮気をして妊娠したのだという。だから翔太と彩夏は血の繋がりなど全く関係はなかったのだと云った。
誠は父親の名前は誰だと問い詰めた。
「高橋剛です」
瑞菜は消え入るような小さい声で白状をした。それにしてもどうして今まで黙っていたのだろうか。誠はそのことが不思議だった。
「確かに私は学生時代あなたのことが好きでした。でもあなたの心は萌美にあったし私はあなたと萌美の中に剛を使って別れさせようとした。彼は競馬で多額の借金があったのでその埋め合わせをしてあげる条件で萌美に近づきあなたたちを引き裂こうとしたが、決定的な証拠がないものだから私は彼と相談し写真を撮らせたの。誠が瑞菜の行為が作為的であることを疑っているようだと剛から連絡はあった。そして剛は翔太が自分の子供だということを知っている。だからこの前の葬儀の時も顔を出していたのよ」
そこまで云うと瑞菜は泣き崩れた。
高橋は瑞菜を脅迫し、彼女はある日別れたいと思い高橋に云った。
「もうお金はこれで最後にして。私もお金はそんなに持っていないから、お願い」
高橋はホテルの一室で瑞菜の哀願に煙草を吸いながら他人事のように聞いていた。
「俺にあいつたちの人生を狂わせるようなことをさせて置いてお前は平気なのか?俺は一生お前に付き纏ってやるよ。俺の人生も瑞菜、お前が狂わせたのだよ。金で何でも云うことを聞くと思ってやがる。こっちに来い」
高橋の言葉に瑞菜はよろよろと躓くようにベッドに倒れた。高橋は瑞菜の体を貪るように夢中で抱いた。瑞菜は涙を流しながら何とも出来ぬもどかしさと悲しさで成るようにしかならないのかと後悔した。誠に申し訳ない、反面この高橋がいなければとさえ思ったが彼をどうすることもできなかった。会うたびに金を強要され体を求められ拒否をすると誠や翔太に話をすると脅迫するのだ。確かに瑞菜は誠を愛していた。それだけに生活を壊されたくはなかった。自分が高橋の犠牲になればそれで丸く収まる。そう思うと瑞菜は高橋に体を弄ばれる道しか選ぶことができなかったと告白をした。
瑞菜は誠に大筋で過去のことを話した。誠は二十年も家庭を築いてきたのに一瞬にて壊されることの怖さを知った。瑞菜は項垂れただ泣き伏すだけだった。
「それじゃあ翔太の死は何だったのだ。死ぬ必要はなかったじゃないか。瑞菜が彩夏ちゃんを病院で殴ったり、焼香をするなと云ったりあれは何だったのだ。萌美に対する嫉妬心以外の何者でもないじゃないか。無駄死をした翔太が可哀想だ。翔太を殺したのは瑞菜、お前じゃないか」
瑞菜はワッと声を出してテーブルに頭を抱え
「許して下さい・・・・・・」
誠はどうしてこんな馬鹿なことをしたのか想像もつかなかった。二十年間もそれも学生時代からずっと利用され金を強要され体を弄ばれ子供まで作られて今まで騙してきたことの償いはどうしてくれるのかと瑞菜を責めた。
それにしても誠は不思議だった。どうして自分と結婚して浮気をしたのだろうかと思った。あの時瑞菜の父親は将来佐々木組の社長にしたいので大学を出て早々だけど海外に一年間出張させたいと云ったのだ。その会社は佐々木組の実質子会社で広告宣伝部を一手に引き受けていた。
「当初は私も一緒に海外に行くつもりだったがそれを高橋は許さなかった。その分あなたは日本に報告を兼ねて帰って来てくれた。あれは私が父親に頼んで帰るようにしてもらったの。さすがに誠が日本にいる時高橋は近寄らなかった。だが海外に行くとまた近寄ってきた。結果翔太が産まれてきたのよ。妊娠した時から誠の子供ではないと私には分かっていた。それは誠が海外から帰る少し前だった。父にしたら初孫だったし中絶することもできず早産だとして誠の子供にしなくてはならない状況だった。私はあなたたちが羨ましかった。お金はあっても人の心までは買えない。打算的な人はいるかもしれないが打算だけで人はついては来ないし、打算や愛情にはリスクはついて来る。破滅、憎悪、幻滅、裏切りみんなリスクがある」
瑞菜は寂しそうに話した。彩夏との異母姉弟という事実は最初から何もなかったのだ。だとすれば彼が自殺して自分を清算するようなことは何もなかったはずだ。
「翔太はあなたが云うように私が殺したようなものです。姉弟と違うということは最初から知っていた。だけど云えばあなたと別れなくてはいけない。そう思うと云えなかった」
確かにあの時二人は姉弟だということを否定してくれれば何も翔太は死を選択する必要はなかったし彩夏も悲しむことはなかった。ただ瑞菜は高橋との不倫を告白できなかったということだろう。
「今も高橋とは続いているのか・・・・・・」
瑞菜は黙っていたが、今も続いていることなのだなと誠は吐き捨てるように云った。
「高橋を今ここに呼んでくれ」
「来ないと思う」
「では父親の社長を呼んでくれないか。どうしても今ここで話を決着させたい」
瑞菜はリビングを出て父親に泣きながら電話をしていた。そして事の重大を感じた父親は今から即来るといった。誠は萌美のことが頭に浮かんだが一応黙っていようと思った。
それから一時間後父親は慌てて社有車で来た。その間長い時間の様なもどかしさを感じたが内容は凡そ瑞菜が電話で喋ったようで理解していた。スーツに身を固めた父親は先日の社長室のイメージとは程遠くどこか酷くやつれて見えた。
「この度は瑞菜が取り返しのつかないことをして本当に申し訳ない。この通りだ」
そう云ってテーブルの傍で土下座をして頭を下げ両手をついた。誠はソファーに座ってもらい今後のことを話した。瑞菜は父親の傍で小さくなっていたがただ泣きじゃくっていた。父親は翔太が成人し一人前になるまで誠に社長をしてもらいその後翔太に会社を継がしてやりたいと思い、そのためには誠に海外で勉強してもらう必要があったのだがそれが裏目になったと嘆いた。
「なんで今まで隠していたのだ」
父親は翔太の男親と二十年も不倫をしていたということかと瑞菜にきつく問い詰めた。彼女は小さく頷くままで父親の顔すらまともに見ることは出来なかった。
「この馬鹿たれが!」
父親は平手で思い切り瑞菜の顔を叩いた。彼女はソファーから転げ落ちたがすぐに正座をして頬に手を当てた。
「誠君、今回のことは瑞菜にすべて責任がある。今まで君を誤解していた。悪いのは瑞菜だ。後で弁護士を立てるから悪いが離婚に応じてやってくれ。金銭的なことや精神的なこと諸々は全て君の言う通りでいい」
父親はそう云って頭を下げまた会社に戻っていった。部屋は再び瑞菜と二人に戻り暫くの沈黙があった。
どのくらいの静寂な時間が経過しただろうか。
「高橋と瑞菜に損害賠償をする。弁護士を立てるようだからこちらも立てることにする。それにしても脅されたと云いながらよくも二十年も騙し続けたな。反吐が出るわ」
誠は吐き捨てるように言葉を瑞菜に投げつけた。
「この家も土地もすべて処分して思い出は全部捨てる。だからといって俺は萌美の処にも帰れない。みんなお前と高橋のせいだ。家庭の崩壊だ。萌美と俺との家庭を壊し、また今度は自分たちの家族を壊しさぞ高橋も喜んでいるだろう。もう二度と俺の前に現れないでくれ」
誠はそう云って部屋を出た。この家に帰って来るのは整理をする時ぐらいだろうと思った。外はもう暗く誠は当てのない街を一人で歩いた。
誠は萌美にことの経緯を話した。
離婚用紙を手渡した瑞菜から弁護士を通じ連絡があったが本人は来ないようだった。誠は残暑が厳しい中弁護士の扉を開けた。面倒なのでこちらも弁護士を立てようかと思ったが取りあえず話を聞いてからにしようと思った。
弁護士は太田弁護士で誠も日頃からお世話になっている方で、会社ではいつもお願いしている弁護士ということで気心は知れているのでその点は安心した。弁護士事務所に入ると受付のいつもの事務員がいた。
「あれ、部長今日は何です?」
「いやあ、今日はプライベートで先生とお話があるのだけど見えますか?予約というか指定時間が書いてあったので取り次いでください」
誠は応接室に通され太田弁護士を待った。部屋は本棚にぎっしり六法全書や裁判関連の本が処狭ましと並んでいた。お世辞にもきれいに整頓されているとは言えなかったが非常に重量感が漂っている。
「やあ、部長お久しぶりです。この度は大変でしたね。私は両方共にお世話になっていますので出来るだけのことは致します」
誠は金銭的なことよりも早く縁を切りたいからできるだけ早期に解決をして欲しいと伝えた。事務所では一方的にこちらの都合を一時間ほど話して会社に戻り、かねてより退職する予定だったので社長に退職届を出した。
「部長も今回は災難だったね。こんな馬鹿な話はないよな。此処の会社は佐々木組の子会社だからあまり云える立場ではないけど本来ならぶん殴ってやりたいぐらいだ。本当に君には同情をするよ。子会社と云えども悔しいね」
社長はそう云って同情してくれたがこれも仕方ないことだと誠は思った。そういえばこの会社での立場は瑞菜の父親の威光で出世をしていたのかと思うと惨めな思いをした。取り立てて自分の功績で立派なことをした実績などないような気がした。
「君がいなくなると仕事がきついなあ」
社長はそう話して元気で頑張れよと励ましてくれた。そして自分の力では何ともならないと謝ってくれた。誠はいい社長と一緒に仕事が出来て有り難かったとお礼を述べた。
社長には佐々木組の社長に宜しく伝えてくださいといって部屋を出た。事務所の窓から外を見ると行き交う人は何か絵の中を動いているようで人混みというよりか一つの風景を見ている感じだった。
「実は訳があって今日限りで会社を辞めることになった。今からはこういった情報関係は益々厳しくなると思うがそれだけに遣り甲斐もあるから体に気を付けて頑張って欲しい」
誠はそこまで喋ると今までのことの苦労を思い出したのか感極まり声が少し震えたがそれでもこれからのことをしっかりと伝えてお世話になった同僚や幹部と握手して別れた。
誰かが急遽花束を買ってきたのか事務員が手渡してくれた。誠は静かに頭を下げて
「ありがとう・・・・・・、さようなら」
そう別れの話をして花束を抱え部屋を後にした。
それから三日経った。
太田弁護士から話があるので来て欲しいということで誠は事務所を訪ねた。そこにはグレーの洋服を着た瑞菜が来ていた。誠はぎょっとして少したじろいだが応接室で久し振りに向かい合った。弁護士は今から書類を作成するので時間を少々くださいと頭を下げた。誠は話があるから来いというから来たのだが瑞菜と会うのであれば来るのではなかったと思った。どうも最初から瑞菜と合わす時間を太田弁護士は演出したように感じた。
瑞菜は弁護士を待っている間誠に高橋とのやり取りを話した。翔太の死後彼女は高橋と別れようと決心したと云う。別れることで全てが上手くいくのであれば一番いい方法だと思い瑞菜は別れを切り出した日のことを誠に話した。
「剛、今まで二十年もの間あなたとどんな理由があるにせよ付き合ってきたことは事実だよね。でも今日で終わりにしたいの。あなたとの翔太も亡くなったしもう縁が切れたわ。お願いだからもう私を自由にして」
「何を云っているお前は、誰が勝手に別れるなんて云った。俺はお前とは別れない。あの二十年前のことを知っているのは俺だけだからな。あの日のことは誰にも言えない。一生お前を食い物にしてやる。あの時俺が段取りしなければお前の今の生活はなかった。瑞菜は俺の胸の中で泣きながら今後も付き合うから何とかして欲しいと云ったではないか。正直俺は嫉妬したが恋愛と結婚は別で一緒になる気はお互いになかったから引き受けたんのじゃないか。だから感謝されてもお前の方から別れるということは有り得ない話さ」
高橋は一気に喋った。瑞菜はホテルのソファーに凭れながら泣いていた。
「でも、もう別れたい。何もかも厭!」
「何ふざけたこと云っているのだ。俺は別れる気なんか少しもない」
高橋はそう吐き捨てるように云うと瑞菜は急に立ち上がり
「もう厭!別れてくれないのなら今ここで私は死ぬ」
そう云ってバッグから折りたたみナイフを取り出した。そして両手で握ったナイフを高橋に向けた。薄暗いホテルの青白いスポットライトの光にナイフは異様な光を放つ。
「殺してやる。あんたは悪魔よ。みんなの人生を目茶苦茶にしたのはみんなあんたよ。あんたを刺し殺して私も死ぬ」
そう云ってナイフで切り付ける身構えをし、瑞菜はナイフを両手で握って高橋の胸を目掛けて突進して左右にナイフを振り回し刺そうとした。慌てた高橋はベッドから飛び降り思い切り瑞菜の顔を殴りナイフを取り上げた。その揉み合った瞬間高橋の腕がナイフで切れ赤い鮮血が床に落ちた。腕から流れる鮮血を瑞菜は見て気後れしたのか壁に身を屈めると、大きく一息入れた高橋は平手で瑞菜を何度か叩いた。ベッドに倒れた瑞菜は大きな声で嗚咽を漏らし、悔しいと云ってシーツを手で握り締め顔を埋めた。高橋はナイフをしまってから瑞菜を仰向けにして馬乗りになって何度か彼女の頰を叩いた。瑞菜は最初酷く抵抗をしたが洋服を引き裂かれて結局高橋の云いなりになり、いつもと同じことが繰り返された。いつしか瑞菜は高橋を力一杯抱きしめながらこの男から逃げ出すことはもうできないのだろうと蝶が舞うように気持ちと心が変化をしていた。
瑞菜は誠の目の前で心から申し訳なかったと思ったが今後どうしたらいいのか分からない。ただこれからも高橋には悪魔の様に付きまとわれ金をせびられるのだろう。誠は黙って聞いているだけで答えなかったが、翔太のことで納骨の問題があったことを思い出し確認をした。
「翔太のお骨はどうするのだ?」
「翔太はいくら私が不倫をして出来たにしても私の子供には間違いないから佐々木家のお墓に入れようと思います。ごめんなさい」
瑞菜はそう云った。
弁護士が部屋をノックして入ってきた。離婚の書類は全て出来たということで後は財産をどうするかということになった。誠は家屋敷すべて処分をして金銭的な預貯金は折半ということにした。慰謝料については今まで一緒に暮らしてきたのだからいらないが、二度と目の前に現れないということで書面に合意をした。瑞菜にもともと異論がある筈はなくすんなりと話は終わった。
誠は萌美に太田弁護士との離婚の経緯について丁寧に話をした。
「やっと解決したのね。その内食事でもしましょう」
そう云ったものの萌美は解決したことの喜びよりも失った時間の方が大きく二十年の年月の流れが悔しかった。あの時は若かったからという仮定は成り立たない、事実であったのだしあまりにも不器用な不自然な別れだった。今はただほっとした安堵感だけが漂ったがその代償は二人にはあまりにも大きかった。
過去という事実は未来を輝かしいものにするとは限らない。酷い結末を待っているかもしれない。だが過去は未来の前提であってその上に歴史は塗り替えられる。あの時萌美が誠を許していたならこういうことにはならなかっただろうが、そんなことを二十年も経ってから話したとしても何の意味もない。子供たちに大きな犠牲を払わせ自分達だけが幸せになるという構図は余りにも虫が良すぎる。彩夏が怒るのも無理はないことだ。
「滅茶苦茶な話だね。結局私たちはあの二人に人生を弄ばれたのよ」
あの時告白をするのであれば最初に云ってくれれば翔太は死を選ぶ必要はなかった。告白を瑞菜がすることで家庭が壊れると考えたのだろう。そう云えば翔太が四国にいると云うことで迎えに行く時、一緒に行こうと云ったのに瑞菜は何故か翔太を迎えに行こうとはしなかった。あの時気持ちの中で迎えに行きたいが行くに行けない心情が瑞菜の気持ちの中で葛藤をしていたのだろう。誠の話を聞きながら頭が何かに殴られたような鈍痛を感じた。あの頃から二十年は何だったのだろうか、女子大学生といえど華やかな生活から一転時計の針が反対に巻き戻していくような気がした。萌美は誠の話を聞いて彩夏にどう話せばいいのかと一瞬脳裏に閃光が走った。
暑い夏も過ぎそれでも残暑がまだ刺すような日々の中、応援に駆け付けた県職員でアメリカ帰りの同僚が美術館の壁画を作成するため位置の確認を見上げながら写真を撮ったりメジャーで測ったりしていた。作成するについて足場を組み立てなくては出来ない。いくら立派なものでも安全な体制で制作する必要があるわけでそう云う意味では足場を固める位置の問題が非常に出来栄えに左右をする筈だった。足場の上部には滑車をつけ床には水を入れたドラム缶を置こうと考えた。多分バケツに水を入れて紐で引くのにスタッフなしでやるのだからそれ位の下準備が必要かなと思った。足元には青い養生シートが何枚か敷き水が零れても場所を汚さないようにした。廊下の壁に枠を取り付けてそこに絵を描いていく関係上、美術館に入場した客に迷惑を掛けてはいけない。その為に養生シートの外側にバリケードが職員の手で立てられた。そしてジーパンに長袖のポロシャツを着、青い帽子を被って仕事をしている萌美のイメージが段々画家という雰囲気になってきた。
萌美の頭には壮大なイメージが既に出来上がっている。下地の額は壁にはめ込みになっていて油彩は縦1.8メートル横1.8メートルの正方形であった。天井は高いので少し見上げる感じに角度を設定し構図を考えた。岐阜の街を一望にできるイメージは美濃和紙で傘をモチーフにしたものだ。長良川の橋の北側の傍に湊町というところがある。鵜飼の屋形船が並んで泊めている鵜飼乗船場があって宿場町の風景をしている。昔馴染みの雰囲気を残したところで岐阜の街のパンフレットには必ず出てくる処だ。萌美は長良川が流れるこの町と美濃傘を一緒にした壮大な絵を書いてみたいと考えていた。何処のイベントに呼ばれてトークショーをするにしても必ず聞かれるのは最近の作品のテーマについてだ。萌美はアメリカから帰国したがそれはこの壁画が目的であってテーマは家族であり命ある人との宿命、歴史的に楽市楽座の信長公の時代からの繋がりはこの岐阜にとっては非常に興味深いものだった。それは歴史的に血で塗られた歴史でもある。そのことをいつも絵のテーマとして考えていた。勿論彩夏を一人にしているということもあって、それも心配で半年で日本に帰って来たのだった。
ある企業の講演会で絵画について講演をすることになった。萌美は「四国八十八ケ所と私の絵について」というタイトルで講演をしたことがある。
もともと萌美は愛媛の出身であっただけに四国の企業から呼ばれることは多かった。
八十八ケ所の中でも一番思い出の多いのは香川県に美術の非常勤講師で住んでいた頃よく行った八十五番札所の五剣山で八栗寺と言われる寺だった。毎月一日の日にはよく彩夏を連れて此処に行った。そして本堂から見上げる五剣山は壮大で有難い気がした。この山は現在宝永四年(一七〇七年)の地震で形を変え現在は四峰となっているが大師が修業をした摩崖仏がある。大師が八つの栗を埋めその後大きく育ったので八国寺から八栗寺と変えたそうだ。本堂に覆い被さるようにこの五剣山は存在し夏はお遍路さんが陽炎に揺れる四国路は寺の境内に入ると霊気が体のほてりを静めほっと一息つくところでもある。
八十八ケ所は四季折々の姿が見事で一番札所の霊山寺に始まって八十八番の大窪寺までの話を芸術的な話を踏まえて何ヵ所かの寺の話をした。最初は和歌山の弘法大師の入定の地、高野山奥の院に参らなくてはいけない。参道の両脇には多くの供養塔が建っておりその石塔の中には大師の遺骨や髪の毛が納められているという。ここで大師をお連れするのだ。金剛杖は弘法大師のかわりに持って参る。杖の上は地・水・火・風・空の五輪塔を模っている。宿では杖の先を洗い部屋に立てかけて置く。そして弘法大師の弟子として遍路に出るのであるから十善戒を守らなくてはいけない。不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貧、不縝恚、不邪見である。これを守れない場合は引き返すしかないのだと話した。それにしても遍路に出る目的は人それぞれだろうがどうしてだろうか。遍路もみんな時代と共に変化をしているがそれでもこの偉大な弘法大師の八十八ケ所巡りは実際金剛杖に鈴を付けてそれを鳴らしながら歩いていく同行二人の姿はあまり見なくなった。最近ではバスツアーや車で行ったりする方が多くただ兎に角八十八ケ所を巡ることに意義があるようだ。昔のように歩いていくお遍路の姿は最近ではめっきり少なくなった。遍路姿は死装束であり遍路は擬死再生の道でもある。自然の中に自分の身を置き弘法大師と対話しながら歩きもう一度生まれ変わるのだ。それがこの四国八十八ケ所の本位であって再生なくして何の遍路やということだった。そういった中で芸術をどう生かしていくのかということを萌美は熱く話した。
そんなことを思い起こしながら萌美はアトリエで壁画の模型を作成していた。
「この絵は何を描いているの?よくわからないわ」
彩夏はそこに入ってきて笑った。萌美は一つ一つ説明していた。まだはっきりしないのだけどこの壁画のタイトルは「MINOの旋律」っていうのだそうだがあまり気に入らないので彩夏に決めてよって言った。彩夏は黙って笑ったが何がMINOであるのかそして何が旋律なのかよく理解が出来なかったし、そんな大役務まらないよって笑った。萌美は彩夏が決めてくれたら文句は言わないというので、では考えておくねと云って模型に目を移した。よく見ると模型は箱庭の様にそれぞれが大まかに区画され作られている。
ここが金華山でその上に小さいのが岐阜城。右手に大きな輪があるのが美濃和紙。下に大きく横たわっているのが長良川。その下が岐阜の街並みでここには赤提灯があって楽市楽座があった。長良川からいくつもの小さい棒のような杭のようなものが縦横に無数に踊る。そこに鵜庄達の総絡みの鵜飼船が並ぶ。細かい杭のようなものは鮎が上流に登っている姿だという。金華山の上には夕闇の空に大きな花火が打ち上げられる。しかし、これではもう一つピリッと引き締まらないのだという。それは何が足りないのか「生命」という歴史ある人生が描き切れていないのであって本格的には未完成だと萌美は話した。何かが不足しているその絵画に新しい息吹を吹き込まないと意味がなく、それがテーマであることは分かっているが具体的にどう表現したらいいのかとなると限界を感じていた。
萌美は夕暮れの雑踏の中を歩いていた。季節の移り変わりが早く気がつけばブティックには秋物が並んでいた。部屋に帰って暫くしていると誠から電話が掛かってきた。いいワインが入ったから飲まないかと話してきた。
「行くことはいいけど彩夏に云っておかなくては」
萌美はそこが心配だった。誠とは二十年もの空白があっても感性は同じものをもともと持っていたので元に戻ることも早かった。
「じゃあ彩夏に誠の部屋に行くことは云いづらいから外で会いましょう」
そう云って誠と萌美は外で会うことにした。飛騨牛でも食べながらワインを飲もうかということになって食事を中心にすることにした。
誠と二人で向かい合ってゆっくり食事をするのは二十年振りのことだ。いつも萌美が料理を作り誠はのんびりテレビを見ていた。
そして二人は決まってワインを飲んだ。
「今日は私がご馳走してあげる」
「いいよ、俺が出すから」
「厭!瑞菜と離婚したのでしょ。私のところに帰ってきてくれたのだから・・・・・・」
萌美はそう云って少しはにかんだ。昔も今もあまり変わりがない。照れたり怒ったりする時は決まって頬を膨らますのは萌美の癖だった。
「彩夏ちゃんが認めてくれるまでは駄目だよ」
誠はそう云って小さく笑った。
イタリア料理が運ばれてきた。テーブルにワイングラスが並べられて前菜がテーブルに置かれた。ワインの格付けはDOCGで最高のものだ。前菜は肉の赤、チーズの黄、野菜の緑と決まっている。そして最初の料理はプリモ・ピアットでパスタ。イタリア料理は品目が少ないので炭水化物が早く出て来るのが特徴だ。この後セカンド・ピアットで肉か魚料理が出て来る。順を追っていえばこの後サラダが肉料理で体が酸性になった処をアルカリ性に戻すらしい。そしてチーズが出てきてデザート。最後はコーヒーでエスプレッソの苦みのあるのが一般的だ。誠と萌美は料理を堪能しながら別れた時のボタンの掛け違いの事実を話した。二十年も経った時に初めて二人の不自然な行動が話を重ねていくと浮き彫りにされ、そこに犠牲にされたのは翔太であり彩夏であり、そして萌美であり誠であったと云うことを確認した。
誠は食後自分のマンションに案内し、のんびりと萌美とコーヒーを飲みながらくつろいだ。少し狭いような気もするけどそのうち一緒に住むようになるまでだからこれでもいいかと萌美は勝手なことを云っていた。
「ああこの絵ね。問題の。確かに私のだけどどうしてあるのよ。私にも分からないわ」
萌美はそう云って笑った。
この絵は別れる時荷物を持ち出していたら傍にあった。それで思い出に下書きだと分かっていたから持ってきたのだと説明した。サインは青でMと書かれていた。
「悪い人ね」
「私この絵を随分探したのよ。友人に頼まれていたから探したわ。でも誠が持ち出したとは考えてもみなかった」
誠はその絵の傍に立ち上がって見つめた。初めて萌美の合掌村の建物を見た時の様にその絵の前で立ちすくんでいた。萌美が傍に来て後ろから抱きつき手を前で組んだ。そして誠は萌美が泣いているのが背中越しに分かった。
「萌美・・・・・・」
誠はそう云って萌美を抱きしめ唇を交わした。彼女は誠に顔を埋め泣いていた。
「男の人とは誰とも付き合わなかった。誠と再会できるとも思わなかったけどそれがあなたに対するお詫びだと思っていたの」
そう云ってその掛けられた絵の前で萌美は嗚咽を漏らした。
「抱いて・・・・・・」
その夜誠は萌美を抱いた。
二十年前の記憶が蘇ってきた。萌美は胸にシーツを抱え
「早い時期に彩夏に話をするから一緒に暮らそう。いいでしょ?」
「萌美は瑞菜と一緒になり裏切った俺を許してくれるのか。何か申し訳ないし罪を償いたいよ。これからは萌美と彩夏ちゃんのために生きていきたい。しかし、彼女許してくれるかなあ」
萌美は創作中の壁画がかなり重要なところになっているので時間的にも難しいから落ち着いて話をしたい。だからそれまでは萌美はゆっくり記憶を昔に戻したいと思った。何といっても二十年はお互いの環境を変えてしまっている。生活スタイルにしてもまた世間の環境も変わっている。そういう中で一気に彩夏が自分の子供だから、萌美とは昔結婚を約束して妊娠していたからというただそれだけで許されるものではないし、真実が一番の誠実な告白ではないかと誠は云った。
季節は九月。
壁画はかなり出来上がって職員の方の協力もあって下地はほぼ完成に近かったが作成するにしても何か足りない。
「絵が死んでいる・・・・・・」
萌美はこんな時は暫く現場から離れてみようと思う。却って客観的に見つめた方がいいのかもしれないと考えた。それに体が悲鳴を上げているので少し休もうと思った。
最近、萌美は時々軽い目眩を感じる時がある。疲れと心労がそうさせているのだろうと考えていたが少し休めば元に戻るので仕事は普通通りこなしていた。萌美は一週間ほど実家に帰ろうと思った。両親もかなり高齢だし誠とのことも話しておきたかったので短いかもしれないが一週間程度帰ることを彩夏に伝えた。彩夏は大学もあるし寿司三昧のバイトもあるので留守をしているという。結局萌美は一人で実家に帰ることにした。故郷では久しぶりに萌美が帰ってくるということで高校の同窓会や県民だよりや市政だよりなど公共の機関からのインタビューの申込があった。しかし、今回は高校の同窓会と地元テレビでインタビューを受けるという位で他には特別の話は丁寧に断った。
両親は相変わらずのんびりと生活していた。都会で窮屈な生活するより田舎暮らしが天国だよって母親は云った。そういう言葉を聞くと一緒に岐阜で住もうとは云えなくなってしまう。家族とは一体何だろう。血の繋がりが軸となりその上に絆が出来て、基本的には年の順に亡くなっていく。昔寺の住職が一番幸せなことは何だと思いますかと云っていたがその時住職が言った言葉が忘れることは出来ない。
「人間にとって一番幸せなことは年の順に亡くなっていくことですよ」
住職がそういったことを幼い頃ながら覚えている。そういう意味ではまだまだ元気でいてくれる両親がありがたかった。
同窓会はもうみんな顔が変わったような気がする。胸に昔の写真付きの名札を付けているがそれぞれの苦労を過ごした物語があるように顔に歴史が滲み出ていた。最近はネットがあるので色々な情報が早く入る。萌美自身の知らないことまで知っている。
「噓でしょ?」
「そんなことないよ。ほらここに書いているでしょう。YouTubeだって見える」
そう云って検索をして見せてくれる。萌美の周りは人だかりが出来賑やかであった。幹事の人が場の盛り上がりが最高潮になってきたのでこの辺で一言挨拶してくれないかと云ってきた。自分のために開催してくれたのだから一言お礼を云おうと思った。萌美は立ち上がってマイクを握る。
「皆さんこんにちは、近藤萌美です。お久し振りです。私のためにわざわざ同窓会を開催して頂き有難うございました。また幹事さんはじめ、お世話をして頂いた皆さん本当にお忙しい中有難うございました。今日は久し振りに皆さんのお顔を拝見でき嬉しさでいっぱいです。私は新居浜市で生まれて高校時代は西条市で三年間過ごしそれから大学時代もたまには帰ってきてよく皆さんと遊びました。あれから二十年。私にも彩夏という子供が一人います。今年成人しまして一人放っておいて半年間アメリカに行っていましたがやはりアメリカはどうしてもしっくり来ない。日本のような繋がりというのでしょうかそういう古典的、伝統的なしっくりした処がないのです。だから自分の生まれた場所に帰るっていうと原点に戻るって感じで自分を外から客観的に見つめることができる。それが故郷のような気がします。今度はいつ帰って来るかわからないけどまた会いたいです。同級生って何時まで経っても変わらない純粋な学生時代の気持ちになれる。それが仲間の絆のような気がします。特に幼馴染っていいですね。私たちの青春時代を共に過ごし、時が二十年も経ったけれど青春時代に戻れる。今日は皆様に元気を頂きました。元気に頑張ってまた再会できることを楽しみにしています。今日は本当に有難うございました」
宴会は最高潮になっていた。カラオケで歌を歌う者も居れば写真を撮る者、お喋りに忙しい人やそれぞれの笑い声を聞きながら萌美はみんなと話に盛り上がっていた。
「萌美ちゃん一曲歌ってください。みんなのリクエストです」
「えっ、歌ですか?困ったなあ」
その事実を知った周りのものが拍手でリズムをとって煽り立てていく。カラオケはあまり得意ではなかった。
「では私の好きな歌で芹洋子さんの『坊がつる賛歌』を歌います」
萌美はこの最初の歌詞が好きだった。広島高等師範山岳部の歌だ。山が特別好きと云うわけではなかったがこの歌の歌詞が好きだった。春を知らないものが春を待つような気がするのだ。見知らぬ春は見知らぬが故に夢があり希望がある。
人みな花に酔う時も
残雪恋し
山にいり涙を流す山男
雪解けの水に春を知る
この一番の歌詞がお気に入りだった。緊張のあまり夢中で歌ったので気が付けばみんなが合唱してくれていることに気が付いた。笑顔を見せながら萌美は歌った。みんなから拍手や奇声があちこちから聞こえて来て幸せな気分になることができた。
実家では父母と話をして誠とのことを許してもらった。凡その話は全体的な流れを理解してはいるのだが翔太が自殺したことや翔太が誠の子供ではなかったということまでは知らない事実で驚いていた。
「苦労が多いなあ。もうみんなで帰って来いよ。田舎はいいぞ」
父親はそう云って自分の部屋に籠っていった。母と二人になって萌美は色んなことを話したその時だった。すっと空気が抜けたような意識と重りがどすんと胸に落ちるような衝撃を感じその場に倒れた。
「萌美・・・・・・萌美・・・・・・。大丈夫?救急車呼ぼうか?」
「大丈夫。少し横になっていれば治るから。最近時々こうなるのよ。早くあの絵を完成させなくちゃ何処にも行けないわ」
そして翌日医者に掛かって診てもらったが精密を要するから帰って大学病院か何処かで検査をした方がいいですねと云われた。原因は多分ストレスかもしれないです。医者はこういう時病名が分からないのでストレスって云うのです。明確に調べるには血液検査やその他の心臓の検査などした方がいいです。郷土の有名なお方ですから少ない時間内での現状では最善を尽くしましたがよく分からなくて申し訳ありません」
医者はそう云って頭を下げた。どちらにしても四国にいることはできないのだから早く帰って壁画を完成させなくてはいけないと思い翌朝早く岐阜まで帰った。
岐阜に帰って萌美は誠に病気の話をした。知り合いの医者が県の有名な病院に勤めているからと手を回してくれた。しかし、時間が経つほどに何か胸のつかえがきつくこの先大丈夫なのだろうかと少し不安になって来た。萌美は壁画を完成させることを最優先しているが、基本的にはこの夏までに完成させるつもりでいたが今は少し遅れている。そのことが非常に重荷になって余計ストレスを感じさせているのかもしれない。
萌美は誠と彩夏を会わそうとした。そして会う前に彩夏が驚いてはいけないから事前に話をしておこうと思った。
「彩夏、今日はボルドーのワインでいい?」
「いいよ、ママに任します」
そう云って二人は「ワインと檸檬」の油彩画が掛けられているリビングでワインを飲みながら今までのことを話した。
萌美は誠を許してあげたいと云った。今まで誰とも男性と付き合わず来たのは形はどうあれ誠に対する過ちを肯定するようなものなのだと話した。彩夏は黙ってワインを飲みながら萌美の話を聞いていた。
「彩夏、誠を許してあげて。お願い・・・・・・。私、彼とまた一緒に暮らしたい。彩夏が厭だと言えば仕方がないけど」
「ママ、それって私に対して脅迫みたいなものじゃない。私どうしてもあの男は好きになれない。ママが好きだというならそれはそれでママの幸せだから私が邪魔をする権利はない、どうしても好きになれないよ。だから悪いけどママ、パパとは呼ばないし一緒には住みたくはない。もしも結婚して一緒に住むのならそれはそれでいいけど私は家を出るよ」
萌美は泣いていた。それを見た彩夏が萌美に抱き着いてきた。
「ママ、どうして私たちを捨てた男がいいの?私は翔太の父親が自分の父親だとは到底考えることはできない。だから私は家を出るよ。寿司三昧の二階が空いているし明日からでもいいよ」
彩夏は萌美が幸せになるのならば自分が犠牲になってもいいので好きなようにすればいいと云うのだ。萌美は取りあえず三人で話をしてみようということにしたが、翔太が誠の子供ではないとはどうしても云えなかった。云えばどうなるか自信がなく、そのことはもう少し落ち着いて時機を見てから話をしようと思った。
そして一週間が経過した。
誠はきちんと紺のスーツを着ていた。萌美と彩夏はラフな格好をしていた。あえてそうしたのであってきちんとすれば何かお見合いのようで堅苦しい雰囲気になるだろうと思いラフな格好にしたのだ。場所は彩夏の希望で寿司三昧の二階の特別個室にした。大将に事情を話し用事が終わるまでは部屋を覗かないで欲しいと伝えてあった。もしも何かあったら彩夏のことお願いしますと萌美は頭を下げた。
萌美は美術館の壁画がある程度の目途がついてきたのだが最後の楔を打つところまではいってはいない。相変わらず何が不足しているのか分からなく模索を続けていた。
萌美が話を切り出した。
「彩夏、今までいろんなことがあったけども結局、三人は家族なのだからそれを認めて欲しいの。そして一緒に暮らそう。最近は私も体調が悪く医者の診断も原因不明でいつどうなるかわからない。だからという理由ではないけどただ云えることはあなたの父親は誠であることには間違いはないのよ。最初に知り合って一緒になった原点に帰るのが自然だと思うの。だから許してあげて欲しい、いや私たちを許して欲しいの」
萌美は精一杯話をした。誠はその間じっと黙って聞いていたが
「彩夏ちゃん、今までの流れは非常に酷な人生であったし僕も彼女も彩夏ちゃんも一人で悲しい人生を歩んできたと思う。だけどもともと一緒であったものはやはり同じだと思うのだよ。仮に他人同士が一緒になっても血の繋がりはない。でも僕と彩夏ちゃんは血の繋がりがある」
その言葉を聞いて彩夏は寿司三昧の階下に聞こえるかと思うほど大きな声で叫んだ。
「そこが厭なのだよ。お前と同じ血が私の体に流れているかと思うと悔しくてたまらないし、絶対に私は自分の父親とは認めない。小さい頃ママから父親は私が産まれる前に別れたので死んだのも同然だよと教えられたけどその気持ちは今も変わらない。私には父親はいらないの。ママだけでいいの。だからあなたがママと一緒になって住むというのならそれはそれでいいと思う。ママも幸せになる権利があるのだから。でもママの結婚と私があなたを父親として認めることは別の問題よ。翔太だってそうだった。最初から姉弟であると分かっていれば今頃楽しい日々を過ごしていただろうと思う。でも現実は私達には酷なことにナイフを喉元に突きつけたのよ。私はあなたより大将の方が父親のような優しさを感じる。今までずっと育ててもらったのだから家族みたいなものよ。あなたは途中でちょっと顔を出して父親面されたら叶わない。私はママが結婚することはいいけど父親と絶対に認めない。性的な結果と結果意識は別物だよ。私は性的な結果生まれただけ。そのことが喜ばれたのか喜べないのか分からないけど結果的には後者だと思っている」
彩夏はそう云って右手で涙を拭いた。
「彩夏、その翔太君のことで話があるの。実は翔太君は誠の子供ではなかったのよ」
「どういうこと?」
「翔太君のお母さんと学生時代の友達が不倫をした子供だったの。誠も全く知らなかったの。私たちは彼女たちの不機嫌な罠に嵌ったのよ」
「そんな馬鹿なことってあるの。私たちは一緒になるつもりで付き合ってきた。翔太は今も私の心の中に生きている。でもそれが事実であればだれが責任を取ってくれるのよ。私あの女に殴られたのよ、許せない。犬や猫の垂れ流しと一緒じゃないか。不潔だよ」
彩夏はそう云って座り込み頭を抱え嗚咽を漏らした。また過呼吸が再発したのかと思わせるように呼吸が激しくなった。暫くの静寂の中にJ-POPの音楽が流れてくる。場が少し落ち着いた頃誠が話し始めた。
誠は翔太の経緯を話した。瑞菜と学生時代の友人との子供で自分の子供ではないということが分かった。その事実は本人が離婚の時に泣きながら謝罪をして告白したことを説明した。どちらにせよ離婚したのはそういう意味もあったと誠は話した。
「それじゃ翔太と私は血の繋がりはなかったということなの?そうすると結婚は何も問題はなかったということになる。どうしてこんなことになるの」
彩夏はテーブルに向かって座っていたが急に立ち上がり体を震わせた。
「先生、障子開けますよ」
そう云って個室の障子が突然開いた。
「先生、美味しい魚が入ったので持ってきました。ヒラメ、真鯛にカツオのタタキです。どうぞごゆっくり食べてください」
大将はそう云って彩夏の顔を見た。くしゃくしゃになった顔は言葉に表現できない状況だった。場が膠着し重苦しい話が続いているのを大将は一瞬のうちに察知した。だから呼ぶまで入らないで欲しいと萌美が頼んだにも拘らず機転を利かし場の雰囲気を和ませたかった。彩夏は大将の顔を見ると飛びついて彼の胸に抱きついて声を出し大声で泣いた。
「彩夏ちゃん大丈夫か?今夜は家で泊まるか?女将さんも喜ぶだろうし。よかったら三人で飲みに行くか?」
彩夏は激しく泣いた。大将が部屋を出ようとした時彩夏は背中に抱き着き泣きじゃくって大将を離そうとはしなかった。大将は向き直りしっかりと彩夏を抱きしめ誠の顔を睨みつけた。女将さんが彩夏の肩を抱きしめた。
「今日はもう帰ろうと思う。彩夏ちゃん、お母さんと仮に結婚できなくても僕はいいのだよ。近くで見守っていくからそれでいい。一番悪いのは僕だから。だから彩夏ちゃんに認めてもらおうなんてことはおこがましいことだと分かったし僕も甘かった。萌美には悪いけどじっと二人を見守っていくのが僕の役目のような気がする。だから安心して・・・・・・。いつの日かゆっくりワインでも交わして話が出来たら嬉しいけどそんな日は来るかどうかわからない。でもいつの日かそうなることを願っているよ」
そう誠は云って寿司三昧の暖簾を潜って外に出た。
―ルポライターの視点NO.4―
萌美は誠と和解し一緒に二十年前に戻りたかったことは事実だったが、彩夏はその事実を認めながらも許す気持ちにはなれなかった。翔太を殺され萌美を自分から引き離そうとした誠を許すわけにはいかない。家族とは何だろうかと萌美は僕に問うたことがあった。
故郷での同窓会は楽しいものだった。僕も同じように出席していたが彼女の顔に張りが何となく以前のようなギラギラした輝きはなかった。病気の所為なのかもしれないが心の中で得体のしれない何かが襲って来始めていたのだ。残虐な裏切り、幻滅、絶望や後悔の中で小鳥のように脅えている萌美を僕は見た。それは幼い頃に両親が病弱な体を直すため護摩道で祈祷を上げてくれたことが根っこの部分にあったのかもしれない。住職が「南無大師遍照金剛」を唱えその傍らで萌美はその光景を眺めていた。焚かれた護摩木は赤い炎と共に天井近くまで登り住職や両親は両手に数珠を握り締めて汗をびっしり掻いていた。家族だからそう云ったことが出来るが、離れている場合そういうことは相似形になるのだろうか。不意に僕はそう思い萌美にもしも絵描きにならなかったら何をしているだろうかと聞くと意外な返事が返ってきた。
「私は絵描きになるために生まれてきたのだから絵描き以外にはなってはいないと思う。もしもそれ以外の職業ならば単なる主婦で終えたかもしれない。でもそうなるのならば私の生い立ちや家族、血筋をすべて切り裂かないと無理でしょうね。私の体には絵の具の赤い色が流れているのよ。絵描きに生まれてきたのだから意味がないの、ずっと不幸の星を掲げているわ。たった小さな幸せは小さいほど、それだけを心の拠り所にしている者には益々大きな輝きを持つのよ。だから絵描きで不幸を抱えた近藤萌美は二度と生まれては来ない。私は全てのことは娘の彩夏に伝えたから幸せになって欲しかった。でもあのような結果になってしまったからもう私たちは家族が崩壊寸前だったの」
僕はその萌美の言葉に思わず感情が込み上げ体が硬直し、手に握っているシャープペンシルがブルブルと震え彼女の顔を見つめた。萌美は笑いながら逆に僕を励ましてくれるのだが「逆じゃないか」と僕はそう云って笑顔にならない笑顔を無理に作った。
その後実家に帰り再度萌美は倒れることになり不安な健康状態で壁画を完成させるために岐阜に帰っていったが、病院のことは彼女から誰にも云わないでねと釘を刺された。その顔は張りのない顔以上に化粧で誤魔化してはいたが顔色が非常に悪かった。
萌美は「何故」そんな苦労をするのか、そこまで誠に義理立てするのか僕には理解できない。ある日萌美に「もう誠のことは忘れろよ」と云ったことがある。彼女は黙って笑っていたがその顔は今まで見たこともない冷めた笑顔だった。