Ⅰ
ラピルスでは三年間を過ごすこととなる。
国内にラピスは一つしかないが、ラピルスは北と南に一つずつある。スイとレイが明日から通うのは北ラピルスである。
どうしてラピルスなんかに行くの。父と母はそう叫んでスイに詰め寄った。スイは「レイと一緒にいたいから」と本当の気持ちを話したのだが、誰も信じてはいなかった。
母の理想と父の理想。この二つはいつでも同じカタチをしていた。スイにとっての幸福は、その二つといつでも似たカタチをしていた。だから、スイが自分が好きな選択をすれば、それは両親の理想を叶えることとイコールだった。
両親の理想はスイが賢いことだった。スイの幸福はレイに褒められることだった。だから、スイがレイのために勉強すれば、父も母も喜んだ。
両親の理想はスイが優しいことだった。スイの幸福はレイが楽しいことだった。だから、スイがレイのことを手助けすれば、父も母も喜んだ。
しかし、今回だけは違った。二人の理想とスイの幸福は噛み合わなかった。けれどスイは、自分の選択を曲げるつもりは毛頭ない。
ここひと月は両親の説得しかしていなかったな、と過去に呆れる。
可愛い娘の願いならと、父は渋々うなずいてくれた。母は「いつもスイに戻って」と毎日のように泣いてこちらを罵った。戻るも何も、スイは少しも変わっていないのに。
そうこうすること一ヶ月、母はついに諦めた。たった一度の反抗では、これまで積み上げてきた愛は衰えなかった。「愛しているわ」と母はスイにキスをした。
レイは無言で、笑いも泣きもしないけれど。
「この部屋とももうお別れかぁ」
愛着がある壁の傷を撫でながら、スイは静かに妄想に浸った。
もしも世界に魔法ができて、この家ごとラピルス近くまで運んでいけるなら。きっと力強い翼を持った鳥がやってきて、「ちょっと揺れますよー」となんてことないように鳥使いの魔女が言って、ぐっと目をつむれば家がぐらりと持ち上がって、我が家は遠い地へと運ばれていくのだ。レイもきっと楽しそうに笑っている。
母は大好きだ。父のことだって、本当に好き。二人とも、かけがえのないスイの家族。祖母も祖父も、伯母も叔父も、従兄弟や再従姉妹のみんなも、大切な家族。
でも、その中でもレイは格別だった。
同じところに生まれた。同じところで育った。誰よりも愛しい、双子の姉。
そんな彼女と一緒に学ぶ。その幸福と比べたら、両親の理想なんてちっぽけなもののように感じた。
母が買ってくれたお洒落なトランクの中に、選りすぐりのお気に入りを追加していく。幼い頃から大事にしていた猫のぬいぐるみを入れて、想像をかき立てるデザインの懐中時計を入れて、最後にあの花の図鑑を入れた。
スイはトランクを手に立ち上がると、右を軸足にくるりと一回転し、自分の部屋を見渡した。
古めかしい本、大きな鉱石、科学の授業でしか見ないような実験道具。スイの愛するものたちが、無造作に、だがどこか美しいバランスで置かれている。地下なので灰色の岩壁だが、スイがそれに不満を抱いたことはない。ぼんやりと火の色を放つランプや、カチカチと規則正しい音をたてる振り子時計も、部屋の雰囲気をより一層幻想的にしていた。
レイの屋根裏部屋も秘密めいた雰囲気で大好きだけれど、この部屋も我ながら綺麗だと思う。
「なんか不気味ね。物語に出てくる魔道具屋みたいで気味が悪いわ」
昔、スイは自分の部屋を母に見せた。しかし母はそう言って、スイの愛するものたちを一蹴にした。馬鹿みたいだと鼻で笑い、この美しさとそれを引き立てる妖しさを、気味が悪いと表現した。
魔道具屋みたいだと言ってもらえたのは嬉しかった。小説の挿絵にあった、黒いマントを羽織る魔女が店主の、怪しげなものを売る店が大好きだったから。
スイは脳内で物語を創り出すのが何よりの楽しみだった。川辺の小石を見ればそれが辿ってきた厳しい道のりを想像し、蝸牛の殻を見ればそれの持ち主の人生を妄想した。この部屋は、そんなスイの感性を刺激し続ける、最高の部屋だったのだ。
それなのに、両親はスイの部屋を見て、もっとこうするべきだ、ああするべきだと難色を示した。
それからスイは両親に自分の部屋を見せるのをやめた。買ったものも作ったものも姉のレイとだけ共有し、父と母には秘密にした。
所詮、父も母も家族という名の他人なのだ。二人のことは大好きだけど、それとこれとは別問題。ただスイを産んでくれただけ。ただスイを育ててくれただけ。産むことも育てることも難しくて素晴らしいことだとわかっている、でもそれを言い訳にして子供に口出しするのはどうかと思う。
だって、父も母も子供の人生に責任なんて取れないじゃないか。幸せを願って言っている? そうすれば絶対に失敗する? 余計なお世話だ。子供が幸せになっても失敗しても両親には関係ない。子供の人生は子供のものなのだ。
というのがスイの考え方なのだが、理解されないことも多い。別に理解してほしいとは思わないし、理解してほしいから話しているわけでもないのだが、そういう思いも誰にもわかってもらえない。
家族や級友から見れば、スイは変わった人間なのだろう。
スイはトランクを持って部屋を出ると、まっすぐにレイのもとへ向かった。
「レイー」
「何」
大きな袋を持ったレイが玄関に座り込んでいる。待たせたかと申し訳なくなり、スイは詫びの気持ちを込めて焼き菓子を差し出した。
今朝誰よりも早く起きて、朝ご飯にと作ったものだ。できた菓子を戸棚にしまってから二度寝して、起きてきたら焼き菓子に気づかず母が朝食を作っていたので、結局食べずじまいになっていた。
「レイにあげる」
「何よそれ……いらない。そんな田舎臭いもの」
田舎臭ければいらないのか。レイの言動はいつもいまいちわからない。
レイは玄関の敷居をなんの未練もなくまたぎ、振り返ってスイを見た。
「スイ」
今、レイはスイを見ている。レイの瞳は、スイだけのものになっている!
頬が紅潮し、腹の底がうずうずと落ち着きなく騒ぐ。何度も目を閉じたり開いたりして、これが夢でないことに感激する。簡単に言えば、スイはひどく興奮していた。
なのに、レイはスイから視線を逸らした。
「さっさと行くよ」
絞り出されたような、か細くて震えた声。――どうかしたの。なんでそんなに苦しそうなの。私にできることはないの。そう尋ねるより先に、父が苛立ったように口を出した。
「レイ、その態度はなんだ。せっかく貰ったものを受け取らないなんて、恥ずかしいと思わないのか? 顔を見ようとさえしないなんて」
レイが唾液を呑むのが見えた。細い睫毛をふるりと動かし、レイはスイに目線をずらす。また、レイの瞳がスイを捕らえる。先程までの感情はすべてかき消され、喜びが身体中を駆け巡った。
「ふふっ」
柔らかな吐息が口から漏れた。
レイがスイをまっすぐに見るのは、本当に久しい。いつだってレイはスイから目を逸らしてしまうから。
「………ごめんなさい」
レイは震えた声で父に謝罪する。それを横目に、母はスイを抱き寄せた。母は温かかった。
「スイ、気をつけるのよ。お手紙はちゃんと書いてね。あと、風邪引かないように」
「うん、わかってる。今までありがとう。向こうでも頑張るよ」
「お母さん、離れててもずっと応援してるから、だから、」
「わかってる。わかってるよ」
すすり泣き始めた母を、スイは優しくなだめ続けた。母に抱いている想いを、そのまま彼女にぶつけてみる。
「大好きだよ」
これが、私の本音で、お母さんの理想。
レイが顔を歪める。苦痛を堪えるように、暴れる感情を抑えるように。
トランクの中でがさりと音が鳴る。スイが好きなモノたちだ。けれど、モノはスイのことが好きだとは言ってくれない。だって、モノはコトバを持たないから。
レイを見る。スイが大好きなヒトだ。ヒトだから、スイのことが大好きだと言える。
言えるが、言ってくれたことはまだない。
「すぐに帰ってくるからね、お母さん、お父さん」
「……私も大好きよ、スイ。待ってるわ」
「スイ、元気でな」
両親の言葉を背に、二人は我が家を後にした。
明日からは寮で過ごすのだ。




