おまけ:その後の顛末
「そうだ、聞きましたか、先月末に隣の市であった、多頭飼育崩壊した家の話!」
開口一番、ご近所さんは回覧板を渡すまえにそう言った。
この方も猫好きだ。三匹の猫を飼っていらっしゃる。先月はそこに保護犬二匹を引き取られたとも。
このご町内はペットのいる家が多い。
この方は猫の保護団体〈ミナネコ保護会〉の正式メンバーでこそないが、いろいろと協力されている、りっぱな方である。回覧板を渡し忘れるとか、人間の用を忘れるのはご愛敬だ。
「多頭飼育崩壊といえば、ときどきニュースでも耳にする、アレですね」
わたしはテレビで見たニュースを思い起こした。最近もあったっけ。ここから遠くない所だったような……。
「そう、アレなんですよ。それも、かなりひどい事件だったそうなの!」
たとえば、かわいい犬や猫に子どもをたくさん産ませ、お金に換えるのだけが目的の悪質な繁殖家の話。犬猫たちは可愛がられることはなく、ろくに世話さえしてもらえずに、ただただ子どもを産ませられる。
飼育施設は劣悪で、たいがい狭い場所に数十匹が、ひどいときには百匹以上が押し込められ、体を壊して産めなくなるか、死ぬまで休み無く子どもを産ませ続けられるのだ。
まともな感覚の人間からしたら悪夢かホラーでしかない話だ。
または、ペットの見た目をかわいいと思うだけで世話する能力がないのに何匹も飼い、避妊などの管理をせず、ペットたちが際限なく子どもを生むのを放置して、飼育環境も経済的にも破綻するケース。
多頭飼育崩壊と聞けば、こういったニュースを連想するが……。
「なんでもね、ブリーダーのフリをして、血統書の付いた子猫を譲り受けて、子猫を産ませて売ろうとしていたそうですけどね。じつは、動物販売業の認可証もなーんにも、持っていなかったそうですよ」
動物の販売には第一種動物取扱業者の免許がいる。また販売しなくても、譲渡や飼育を生業とするならば、第二種動物取扱業者の免許が必要だ。
猫の保護団体の〈ミナネコ保護会〉だって、中心となって活動する人たちは、元は普通の主婦だったが第二種動物取扱業者の勉強をして資格を取った人がいるのだ。
「それで、その飼育施設の建物が、ものすごいゴミ屋敷だったんですって!」
おお、でた、パワーワード〈ゴミ屋敷〉!
最近、よく聞くなあ。なんか、聞いたら背筋が伸びる、きっついパワーワードだわ……。
その自称:ブリーダーの女性は、動物虐待の容疑ですでに逮捕されたという。
過去には迷惑環境と猫への虐待の疑いで、市役所へもたびたび通報されていた。だが、職員が勧告しに行っても、家主の女性に罵られて追い返され、埒があかない。
今回の通報は、すぐお隣の敷地に面した庭のちょうど境界線のところで、ものすごく汚い痩せこけた状態の小さな猫の死体を発見したのがきっかけだったそうだ。あきらかに問題の女性の飼い猫で、このひどい状態は虐待の証拠だとご町内の人々は確信した。
そんでもって、この市で猫の保護活動をしているのも、うちの町内で活動している猫の保護団体〈ミナネコ保護会〉だった。
じつはミナネコ保護会は、何年か前からこの自称:ブリーダー女性の飼育施設がえげつない状態にあるという情報を把握していた。
そして件の女性の元へ何度か飼育協力と保護の申し入れにいき、口汚く罵られて追い返されていた実績があったのだ。
何度かの訪問で、敷地内に漂うものすごい悪臭は知っているし、裏手の道路から見える飼育施設がひどい状態であることもわかっていた。
手をこまねいていれば猫たちの状態は悪くなる一方である。ひどい状態で死ぬ猫が、とうとう敷地の外にまで溢れ出したのだ。
ミナネコ保護会は事態を憂慮したが、まだ警察が踏み込めるだけの証拠が無い。
そこで警察にしかるべき相談をしてから、顔を知られていないボランティアメンバーが猫を購入したい人のフリをして、女性宅を訪れることにした。
「あなたはすばらしい猫たちを飼育しておられるベテランブリーダーだと伺っております。わたしも良い血統の猫を購入したいと考えていますので、ぜひ、猫を見せてください」
と、丁寧に申し入れたら、お客として客間に通された。
さすがに崩壊している飼育施設には案内されなかった。客に見せてはまずいという、最低限の理性は残っていたのだろう。
自称:ブリーダーの女性宅は、親から相続したという広い敷地の大きな家であった。
猫を買いに来る客を通す表の家は、古いけれど掃除もされていて、通された客間は、少し獣臭はしたが、家具もそこそこきれいだったそうである。
見せてもらった猫は、血統書付きというふれこみの、生後三ヶ月くらいの子猫。
それも、どうみてもごくふつうのキジトラ猫で、それが百五十万円と言われて仰天したが、検討する時間が欲しいと言って早々に帰ってきたそうだ。
そのときの女性の様子は普通に見えたが、どことなく異様な雰囲気があって怖かったという。
ふと、わたしの脳裏をティーの元飼い主のことがかすめた。
いま聞いた事件の犯人って、あの人のことじゃないよね?
まさか……。たしかに、ちょっとふつうの会話をするのが難しい人ではあったけど、一応通じていたとは思うし……。
それとも、わたしと獣医さんにやりこめられたことが原因で、精神の破綻がいっきに進み、ついに崩壊しちゃったなんて事は……。
名前、なんだっけ。聞いた気もするけど、早く忘れたくて本当に忘れちゃったなあ。
「それでね、その客間の掃き出し窓からは、問題の中庭と飼育施設が丸見えだったの」
ご近所さんは興奮気味に語り続けた。
そのメンバーは警察との連携の上で、カバンに隠しカメラを仕込んでいったのである。
ガラス窓越しに撮影された荒れ放題の中庭や、ゴミが積み上げられた廃屋みたいな飼育施設を出入りする汚く哀れな猫たちの様子は、多頭飼育崩壊と猫への虐待を証明するのに十分な証拠となった。
翌日、警察が踏み込んだ。
容疑は動物愛護管理法違反、愛護するべき動物すなわち猫への虐待である。
警察につづいて市役所の人と一緒に飼育施設へ踏み込んだミナネコ保護会のメンバーは、絶句したそうだ。
そこにはさまざまな種類の猫がいた。
まだ元気な猫たちは、壊れた窓や壁の穴から出入りしていた。高い柵で囲まれた庭から出るのは難しかったが、運動神経の良い猫は柵を乗り越えたり隙間を見つけたりして、敷地の外へ自由に出ていた。
そうではない猫たちは、飼育施設の中にいた。毎日の餌やりはされていたようだ。しかし猫の数に比べると、餌の量は足りないか、日によっては多すぎた。
いつ掃除したかわからないほど汚い床には食べ残された餌が回収されずに放置され、腐敗していた。
猫用トイレは複数設置されていたが、その周辺には長年にわたり排泄された糞尿がうず高く山となり、風の強い日や雨の日にはとんでもない悪臭が敷地の外まで漂いだす始末だった。
ミナネコ保護会で数々の多頭飼育崩壊現場に踏み込んだ経験あるベテランボランティアさえ、それまで目にした中でも一、二を争う最悪の現場だと思ったそうだ。
現場へ最初に踏みこんだボランティアメンバーの一人は耐えられずに逃げ出して、外で嘔吐したそうである。
ゴミの中に猫の死体があり、うっかり踏んでしまったそうだ。
その日は大急ぎで生きている猫を保護して、撤収した。
数日経ってから皆で、地獄があるならあんな風景じゃないだろうかと、語り合ったそうである……。
「えげつな……」
「それでね、ここからは一般には公表されていないんだけど、その女性は警察に連れて行かれて尋問されたら、言うことがあまりに支離滅裂なので、警察は親族を探して話を聞いて、けっきょく精神鑑定を受けさせたんですって。そうしたら責任能力が無いとして、行政が保護するそうですよ」
あー、なるほど。人間も保護されたんだ。
猫たちはミナネコ保護会に保護された。治療が必要な子はきちんと獣医さんに診てもらえた。女性の親戚は後見人になることを拒否したので現場の片付けは行政の指導となり、いまも行われているそうだ。
まあ、……――良かったよね。これで万事、解決で……。
「でもね、困ったことに、いきなり百匹近くの保護猫が増えちゃったので、保護施設は定員オーバーのてんてこ舞いになっちゃってるのよ。それで現在、一匹でもいいからすぐに引き取ってくれる、身元の確かな里親を大急ぎで探しているの」
あれ? なんだか話の雲行きが怪しくなったような気が……。
「それでね、お宅なら! 猫チャン五匹いるし、あと一匹くらい、引き取れますよねー。ね!」
「え?……あ、そ、それは……」
わたしは即答できなかった。
えーとね、飼えないことはないと思うんだけど……。じつは、一度に一匹以上の猫を飼った経験が無いのだ。
むぎちゃを保護する前に飼ってた猫も一匹だけだった。ティーと子猫三匹が急に増えたけど、これが初めての多頭飼い初心者スタートなのである。
「むにゃ」
「に!」
む、下の方から、会話に参加する声が。
むぎちゃとティーだ。この二匹、ご近所さんが来たときから、わたしの右横でいっしょに玄関にたたずんでいたな。
「え……と?」
二匹はわたしを見上げている。
めっちゃ見ている。
目力がすごい。
おやつを欲しいときより強いやん……。
あかん、負ける……。
なんでそんなに強いのよ?
わたしは完全に負ける前に、視線をはずした。
「むー」
「うにゃ」
下ではまだなんか言ってる。
「ねー、ほら、この子達も、賛成してくれてるじゃない! これなら絶対だいじょうぶよ、よかったわねー!」
「そ……、そうですねえ……。あと一匹、くらいなら」
「だいじょうぶ! 五匹飼えるなら、六匹が七匹になってもお世話するのは変わらないって! あー、良かった、あなたならそう言ってくれると思って、いまうちで二匹待っててもらってるのよ! すぐ来てもらうわね!」
ご近所さんは回覧板を持ったまま、我が家の玄関から走り出ていった。
〈了〉