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最終話 後日談その二・彼女が家出した理由【後編】

 なんだろう、このご婦人が何かいうたび、わたしの胸の中がモヤモヤする。

 消化不良のひどいのを起こしているみたいな気分だ。


 だって、初対面のこの人に、あんなひどいことを言われるような失礼な態度を取った覚えはないもの。


 う~ん、だめだ。反論したいけど、驚きがすぎて頭が回らない。


 だが、わたしの隣に立つ獣医さんは、冷静だった。さすがは言葉の通じない患畜とその飼い主への対応に慣れていらっしゃる獣医さんというべきか、わたしとは違い、即座に応答された。


「何か事情があるのでしたら、僕の方から猫の保護活動をしている団体に連絡しましょうか? 子猫を保護して、里親を探してもらうこともできますよ」

「あら、やだ、どうして私がそんな面倒なことをしなければいけないんですか」


 ご婦人はすごく困惑したふうに微笑で応じた。


「子猫は私には関係ありませんよね。私は自分の猫を里子に出すような可哀想なことはしませんよ。さっきからお二人はひどいことばかりおっしゃいますね」


――ひどいこと?……って、なにが?


 わたしと獣医さんはご婦人の言いたいことがわからなくて、いつしか首を傾げていた。


 ご婦人は、自分の言い分が正しいからわたしたちが何も反論できなくなったのだと勘違いしたらしく、勢いづいてしゃべり始めた。


「でも、許してあげますよ。初対面でこれだけ失礼なことをする人たちに怒ってもキリがありませんしね。私も猫が好きですから、いつかはベンガルの雌猫に良い子猫を産ませたいんです。だからきれいなベンガルの雌猫が欲しかったんですよ。でもね、無関係な雑種なんか押しつけられては迷惑です。それくらいはあなた方でもわかっていただけますよね? さきほどから二人がかりで私を攻撃されていますが、私に不要な猫を押しつけようとしているのはそちらじゃないですか。一方的に私が責められるのは筋違いですよね。私は最初から自分の猫だけを引き取りに来たんですよ。悪いのはどっちですか、とこちらが聞きたいくらいです」


 いや、変だよ、それ。ご婦人の慇懃無礼(いんぎんぶれい)は、この際横においといて。


 わざと話の流れを歪めていますよね。自分に都合の良いように、話し合いを進めようとしてますよね。

 よくもまあ、会話を微妙に噛み合わないように切り返せますよねー。


 ほとんど天才的じゃないですかねー。


 ご婦人の言い分では、わたしと獣医さんは、なんの値打ちもない雑種の子猫を、ご婦人にむりやり飼わせようとしているひどい人間ということですね。事実はどうあれ、あなたにはそれが正しい現実なんですか。

 わたしの頭の回転速度じゃ即座に適切な反論をまとめられないけど、それくらいはわかりますよ。

 でも……――。わたしが相手の都合を考えずに『母猫と子猫を一緒に飼ってください』と頼んでしまったのは事実だ。


 確かにそう言ったもの。


 それを押しつけだと言われれば、たしかにそうだわ。

 しかし、獣医さんはちがう。子猫を里子に出す選択肢もあると説明してくださった。なのにご婦人は、獣医さんまで馬鹿にして、わたしたちが二人がかりでご婦人のことを攻撃していると決めつけている。

 そんな攻撃、最初からしてないけどさ……。


 かわいい猫の親子を、もう少しだけ、一緒にいさせてあげたいと思っただけなのよ。


 猫キャリアの中では、ティーがうずくまっていた。

 もう震えていないけど……。

 かすかに猫のおしっこの臭いがした。


 猫キャリアの側面の覗き窓から見える床が、濡れている。

 恐怖のあまり、おしっこを漏らしたんだ。


 あ、子猫たちもおしっこまみれに……。


 いやいや、わたしよ、いまはそれよりこの現実を見て戦いなさいって!


 おしっこを漏らすくらい怖がるなんて。もともとの飼い主のくせに、この状態をなんとも思わないなんて、そっちの方がおかしいんじゃないの?

 ここで本当の飼い主さんが、心を込めて優しく本当の名前を呼んであげれば、少しは飼い主さんのことを思い出して安心するんじゃないの……?


 めまぐるしく考えていたわたしは、ハッと我に返った。


 たっぷり五分くらいは考えていた気分だったが、獣医さんもご婦人も喋っていない。おそらく二秒と経ってない。

 現実逃避するほど集中したからだろうか、わたしは冷静になれた。


 どうにも心の中がモヤモヤして、不可解な気分にさせられていた謎の答えが、やっと解けたのだ。

 最初に挨拶したときから、この女性に感じていた違和感。その正体がわかった。


 猫の名前だ。


 わたしが名付けたティーではない。わたしの所へ来る前に、このご婦人が呼んでいた元の名前があるはずなんだ。


 なのにこの人はまだ、ティーを見てから一度たりとも、『自分の猫の名前』を呼んでいない。

 やっと見つかった大切な愛猫の名前を、その子を前にして一度も呼びかけてあげないなんて、そんな飼い主がいるだろうか。


 わたしは確信を持った。


 このわけのわからない不気味な妖怪めいた雰囲気のご婦人は、まちがいなくティーの元の飼い主なんだ。

 ティーは、このご婦人が獣医さんよりも怖いことを知っているんだ。


 だから気配を感じただけで震え出したんだ。子猫を産んだのは家出した後だろう。だって子猫はのんきに遊んでる。怖い人のことを知らないからだ。

 このご婦人は、ティーのことが好きなんじゃない。もしティーが本当の逃げ出した自分の猫でなくても、自分の欲しい条件に合う毛色の猫なら、持ち帰ろうとしているんだ。


 わたしはあまりの(いきどお)りに腹の底がゾクッとして、頭の中が怒りでカッと燃えるようにざわついた。

 本当に猫が好きな人は、猫の毛色や柄模様で、高級だの低級品だのと、物のような差別はしないんだから!


 わたしはご婦人をまっすぐ見据えた。


「あなたはこの子の飼い主じゃないんですね」


 自分でも驚くほど低くて固い声が出た。


「はあ? いきなり何を言うんですか。私が飼っていたのはそのベンガルの雌猫ですよ。でも子猫たちはどう見ても雑種ですね。だから私の猫ではありません。あなたにもやっとおわかりいただけましたぁ?」


 このご婦人の目的は、ベンガル猫に見える母猫ティーだけを連れ帰ること。


 自分の猫が生んだ子猫でも、気に入らない雑種の柄模様の子猫はいらない。引き取るかどうかの取り決めをはっきりさせないうちに母猫の本当の飼い主だと認めてしまったら、母猫に帰属する子猫も、一応は自分の責任の範疇になるから、引き取らざるを得なくなる――と思っている。

 飼えない事情があるなら猫の保護団体に相談して里親を探してもらうことだってできるのに、このご婦人はその選択肢が視野に入らない――というより、面倒なんだろうな。


 こんな人と納得するまで話し合いなんてできるだろうか。


 もし、猫たちを引き取ってもらえても、あとで子猫だけ捨てるか、保健所へ連れていくんじゃないかな。

 わたしの勝手な偏見だけど、里子へ出すような真面目な努力はしない気がする。


 獣医さんの方を伺うと、獣医さんもご婦人の態度に不信感があるらしく、わたしへ目くばせしてきた。


――どうします? このまま話し合いを続けますか?


 わたしは小さく首を横にふった。


――もうけっこうです。あの人にはこの子達を渡したくありません!

――同感です。じゃ、そういうことで!


 獣医さんは、エヘン、と咳払いをした。


「いやあ、本当にそうですねえ。まったくこちらの不手際で申し訳ないことをいたしました!」


 若い獣医さんに、陽気な大声でとつぜん謝られたご婦人は、小さく「え?」と驚き、初めて戸惑いをみせた。


「え、ええ、わかっていただければ、いいんですよ。じゃあ、わたしはこの雌猫を連れて帰ってもい……」

「いえ、それは違います!」


 獣医さんは鋭くさえぎった。


「おっしゃるとおり、この子達は野良の雑種です。こちらの母猫も、よく見たら写真の猫ちゃんとは微妙に特徴が違いますね。完全にこちらのミスです。まあ、似た猫なんて世の中には(あふ)れていますから、こればかりは仕方がありません。ご足労をおかけして、誠に申し訳ございませんでした! あとのことはすべてこちらで処理しますので、どうぞ、お帰りください」


 獣医さんはサッと右手を伸ばし、診察室の出入り口を指した。

 うわ、露骨にシビアっすね。


さっきまで自信満々だったご婦人は、初めてたじろいだ。


「え? そうなんですか? でも、さっきはうちの猫と特徴が合うって……?」


 急いでティーへ未練がましい視線をおくり、子猫をじろじろ見てから、最後にわたしを、親の敵か地獄の悪鬼を見るならばかくもあらんという(けわ)しい目つきで睨んできた。

 ご婦人の思い通りにことが運ばないのは、わたしが悪いのだ、と言わんばかりに。


 まあ、おおむねその通りだけどね。


「でも先生! この大きい方の猫は雌猫ですよね。やっぱりうちのベンガルだと思うんですよ。だからこの子だけは連れて帰ります。それなら文句は無いでしょ?」


 ご婦人が診察台に置かれたキャリアへ手を伸ばしかけたのを、わたしはさっと前に立ってさえぎった。


「いえ、もうけっこうです!」


 獣医さんが、わたしが何か言うよりも早く制止をかけた。


「この子は外で暮らしていた野良猫なんですよ。見た目はベンガルに似ていても、本物である保証はありません。もしあなたにお渡しして、あとでこの猫はベンガルではなかったと気づかれて、偽物の猫を押しつけられたとクレームを付けられたり、訴えられたら困るんです」


 獣医さんもご婦人の言い方と態度には納得がいかないのだろう、もはや不機嫌を隠さなかった。


「そんな、訴えるなんて……」


 ご婦人はくちごもった。ん? つまりやりかねないのね、あなたは。獣医さん、当たってますよ。


「それか、愛猫のDNAのご登録でもされているんですか? なんならこの猫たちの血液を採取してDNA鑑定でもしますか? たとえ登録していなくても、遺伝的特徴なら調べることができますよ。ただし、ベンガルはもともと近世において品種改良されたイエネコと野生のベンガル猫の交配種です。(さかのぼ)れても数世代前の母猫の系統樹くらいですし、あとは親子兄弟の関係証明とかになりますね。その場合、比較できる血族の猫のDNAを複数提供していただくことになります。かなり特殊な検査になりますので、それ相当の費用もかかりますし、それであなたの猫だという証明ができるわけではありません。そんな証拠はどこにもないんです。そこはご理解していただきたい」


 立て板に水のように、クールかつ専門用語をごちゃ混ぜた獣医さんの説明には、さしものご婦人も反論は出せないようだった。


「あ、あのー、それは……どっちにしろ、私は子どもが産めるベンガルの雌猫なら引き取ってもかまいませんから。雑種の子猫はいらないので、ここで捨てていきますよ。それなら問題ありませんよね?」

「この子猫はこの野良猫の子どもです。では、あなたはこの猫達とは無関係なんですね」


 獣医さんが断言した。


「なんで無関係だと決めつけるんですか。このベンガルの雌猫は私の猫ですし、子猫を生んだのもこの子なんですよね。権利は私にあるんじゃないですか?」


 ご婦人はいきなり怒鳴った。

 なんなの、この人。自分がさんざんひねくりまわした話し合いを、また最初から混ぜっ返すのか。


 わたしのどこかで堪忍袋(かんにんぶくろ)()がブチッと音を立ててぶっちぎれた。


「ご心配なく! この子たちはわたしが責任を持って育てますので! たいせつなお時間を割いていただき、ありがとうございました! これで失礼します!」


 わたしは最高の笑顔を作り、唖然としているご婦人へサッと頭を下げ、獣医さんに軽く挨拶してから、そそくさと診察室を出た。

 最後に目が合った獣医さんも『猫たちを早く連れて帰ってあげて』と言いたげに力強く頷いてくれていたし。


 後日あらためて、大きな菓子折でも持ってお礼に来よう。


 いまは一刻も早く家に帰り、留守番してくれてるむぎちゃ猫に会いたい!


 そして、この狭くておしっこだらけの猫キャリアからティーと子猫を出して、お風呂できれいに洗ってあげたい!


 子猫たちは初めてのお風呂だし、大騒ぎになるだろうなー。

 それでもって、わたしはすごく苦労して、今日の嫌な出来事を忘れちゃうくらい、楽しく疲れるんだから。


 わたしは自転車の荷台に猫キャリアーをしっかりくくりつけ、なるべく揺れないように気をつけながら、全力で自転車をこいで家路についたのであった。


                                  〈了〉


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