床の間の憂鬱
サラサラサラサラ。
チッチッチッチッ。
今日ものどかだなぁ。
川のせせらぎ、鳥の囀りが聞こえる。
私は地方のとある旧家の座敷の床の間に鎮座する黒茶碗。
今は亡き先代の主人から数えて数十年の歳月をここで過ごしている。
骨董に精通していた先代が、ある若い陶芸家に金を貸し、借金の形
に出来上がって間もない私を譲り受けた。
先代は殊更私を気に入り、床の間の中央に置いて愛でていた。
後にその陶芸家が人間国宝になった時、彼は自分の炯眼ぶりを誇ら
しげに周囲に語っていた。
しかし、先代の息子である今の主人は骨董にはあまり興味がなかっ
たので、先代の死後、コレクションの大部分を処分した。
私は人間国宝の作という名目で辛うじて、この家に留まることがで
きた。
私の後ろにいる山水画の掛け軸の山さんもそうだ。
「ああ、本当に先代が懐かしいなぁ。黒さんもそう思わねぇか?」
山さんがため息をついた。
私たちは互いを山さん、黒さんと呼んでいる。
「そうだね。先代は芸術の解る粋な紳士だった。なのに、その息
子ときたら」
「ただの俗物のメタボ親父。今頃ハワイでグルメ三昧か」
先代の妻が亡くなり、二人の息子が巣立った後、妻と二人きりにな
った主人は悠々自適な生活を送っている。
最近主人が定年退職したので、夫婦二人で国内外をいろいろ旅しよ
うと計画を立てている。
今現在は常夏の島ハワイに滞在中。
「俺たちは先代に可愛がられていて、よく話しかけられていたよな
ぁ、黒さん?」
「家族には不気味がられていたけどね」
私たちは在りし日の先代の姿を思い浮かべた。
彼は上等な着物を着て、目を細め、よく私たち骨董品に話しかけな
がら、眺めていた。
皆私の大切な宝物、いつまでも輝いていてくれ、と。
「ちょっと、あなたたち何感傷に浸っているのよ」
床の間の隅にいるフランス製のガラスの花瓶がイライラした様子で
言った。
主人が定年退職する際に骨董好きの社長から贈られた花瓶である。
薔薇が描かれているので、私たちは彼女のことをローズさんと呼ん
でいる。
「そんなの俺たちの勝手だ。あんたには関係ねぇだろ」
山さんがぶっきらぼうに答えた。
「鬱陶しいのよ! ただでさえ暗い部屋が余計暗くなるわ」
「何だと! アール・ヌーヴォー様式か何か知らないが、最近この
家に来たばかりのくせに偉そうに」
「まあまあ、山さんもローズさんも落ち着いて」
私は激昂する彼らを宥めた。
「……私だって、私だってパリが恋しいわ。元々の主人はフランス
貴族だったけれど、没落して私を手放した。そして、私はずっとパ
リの骨董屋で売られていた。パリにずっといたかったのに、日本人
に買われて連れてこられたのよ!」
ローズさんが嗚咽した。
「フランスからこんなに遠く離れた国に来るなんて。もう二度とパ
リの街並みを見ることができないなんて……」
「そんなに帰りたければ帰れよ。日本が嫌ならとっととフランスに
帰れよ」
「山さん!」
「帰れるものなら、とっくに帰っているわよ!」
ローズさんが更に嗚咽した。
私はローズさんを慰めようとしたが、何て言えばいいのかわからな
かった。
プライドの高いローズさんだが、ある日突然遠い異国に連れてこら
れて、どんなに不安だっただろうか、どんなに寂しかっただろうか。
それを思うと、尚更言葉が見つからなかった。
山さんも困惑していた。
気まずい沈黙が続いていた。
その時、ピアノの音色が聞こえてきた。
パランポロンパランポロン。
パランポロンパランポロン。
なんだか癒されて幸せな気分になる。
この曲は確か――。
「……この曲、『ケ・セラ・セラ』だわ。パリにいた頃よく聞いた
わ」
ローズさんが母国を懐かしむように言った。
ケ・セラ・セラ――なるようになるさ、か。
「多分、弾いているのは近所の元ピアノ教師のお婆さんだぜ。ここ
最近、病気で入院していたらしいけれど、元気になって、またピア
ノを弾いているんだろう」
山さんがうっとりと聞き入りながら言った。
「……私たち骨董品の運命は、悲しいかな、人の手に委ねられてい
る。山さんと私が人間国宝の作であろうと、ローズさんが著名なフ
ランスのガラス工芸作家の作であろうと、先のことは分からない。
でも、縁があって、私たちは出会った。だからこそ、この出会いを
大切にしたい。……皆と仲よくしたいと思う」
音楽の力がそうさせるのか、私は自分の気持ちを吐露した。
「そうだな、黒さんの言う通りだ。今の状況を憂いてばかりいても
しょうがねぇし、いがみ合っていてもしょうがねぇ。なるようにし
かならないんだからな」
山さんが賛同した。
「ローズさん、さっきは言い過ぎて悪かったよ」
「ううん、私の方こそ。ごめんなさい、山さん、黒さん」
「ローズさん、私はフランスがどんな国かよく知らないけれど、日
本も結構いい国だと思う。住めば都だよ」
私は日本を愛している。
山さんだって同じだろう。
だからこそ、ローズさんにも愛してほしいと思う。
「……そうね。フランス貴族だったご主人様も言っていたけれど、
私を生んだガラス工芸作家は日本美術の影響も受けているって。構
図とか。元々日本とは縁があったみたいね」
ローズさんが納得したかのように言った。
「じゃあ、ここにいる限り、友好的な関係でいよう。今の主人はあ
まり骨董に興味がないけれど、奥さんが手入れしてくれる。訪ねて
くる客人が褒めてくれる。いいこともあるよ」
「花より団子だもんな、今の主人は。見るからに俗物のメタボ親父
なのに、客が来れば黒さんと俺を人間国宝の作と自慢する。先代の
コレクションなのに調子いいんだから」
山さんが笑いだした。
「私なんて、この前訪ねてきたお客さんに説明を求められた時に、
アール・ヌーヴォー様式なのにアールグレイと言い間違えられたわ。
紅茶じゃないのに」
ローズさんも笑いだした。
「後で奥さんに訂正されて、ばつが悪そうにしていたね。まったく
骨董音痴なんだから、今の主人は」
私も笑った。
「少しは勉強しろっつーの」
「そうよね」
「そうだね」
山さんの言葉に納得し、ローズさんも私も更に笑った。
私たちの間に連帯感が生まれたような気がした。
パラランポロローンパラランポロローン。
パラランポロローンパラランポロローン。
ピアノの音色は流れ続けていた。
今度、聞こえてきた曲は『ラ・ビアン・ローズ』。
ラ・ビアン・ローズ――バラ色の人生、か。
人にも一生があるように骨董品にも一生がある。
バラ色になるかどうかは分からない。
でも、憂鬱を吹き飛ばすぐらいの強さを持てたらいいと思う。
私たちはしばらくの間美しいピアノの音色に聞き入っていた。