絶望的な一歩目
「おいザック、何ボーッとしてるんだ。これだから営業成績が伸びないんだ。」
なんで僕がこんなことを言われなければならないのだろう。まず営業成績なんてそう簡単に伸びるものでもないし。
「はい、以後気をつけます。」
窓の外を覗いていた僕は、書類の積み上げられた机に手を付き、重い体を起こした。周りを見渡す。およそ二百人だろうか、僕と同じ営業部の社員がせっせと働いている。今日は珍しいな。全ての席が社員で埋まっている。他の部においてはありえない話ではないかもしれない。しかし営業部の特性上、この早朝の時間帯はおよそ半分が出払っている。この状況に疑念を感じながら、僕は同僚のもとへ向かった。幸い同僚の席はすぐ近くであったため、上司に見つからぬよう話しかける事ができた。
「なんでこの時間にこんなに人がいるんだろう。」
「さあ、書類の処理で忙しいんじゃないか。」
同僚のジョンが動揺して答える。疑念は晴れなかったが、確かに近頃は会社全体が慌ただしい気がする。
「じゃ、また昼休憩に。」
そう僕は言って立ち上がった。周りを確認する。上司は居ない。今だ。そう思い僕は一歩目を踏み出した。絶望的な一歩目だった。僕は華麗に滑り、大きな音を立て尻餅をついた。
「うっ︙」
その途端、何事かと上司がオフィスから飛び出てくる。上司は僕を見た途端に血相を変え、怒鳴った。
「こらっ、ちゃんと仕事をせんか。さっき言ったことをもう忘れたのか。」
僕は恥ずかしさと後悔を顔に隠しきれずに答えた。
「はい…」
ジョンはこちらを見て腹を抱えている。果たして笑いすぎて体勢を崩したのだろうか、彼もまた華麗な宙返りをして椅子から落ちた。
「おい、そこの馬鹿同期二人、罰として今日はずっと営業だ。今すぐ行って来い。」
僕とジョンは顔を見合わせた。これは好機だ。営業は社外で行うため上司の目をかいくぐる事ができる。僕は同じことを考えていることをジョンの悪巧みにまみれた顔を見て確信した。
「はい、今すぐに行ってきます。」
僕とジョンはその場から立ち上がり、それぞれのデスクから荷物を取り、エレベーターに真っ直ぐ向かった。
「ジョン、ラッキーだったな。」
「うん、残業とかだったらもう人生諦めてたよ。」
そんなことを話していると僕たちはいつの間にかエレベーターの前に立っていた。横に設置されているタッチパネルを操作し、三つあるエレベーターの内一つを四階から一階で予約する。
「今日は多いな。」
僕は名前で溢れた予約状況を見ながらそうつぶやいた。
「本当、最近は忙しいよな。」
ジョンが返した。なぜ僕以外の全員が急に忙しくなったのだろう。僕には仕事が増えたような実感はなかった。
「なんで僕だけ仕事を振ってもらえないんだろう。」
少し間を開けて、納得したようなジョンは口を開いた。
「そりゃ上司にあれだけ嫌われてたら仕事も振ってもらえないさ。」
僕は少し苛立ちを感じ、ニヤッとしてジョンに言った。
「じゃあお前は一日中暇だな。」
電子音が響き、エレベーターの扉がゆっくりと開く。中には十数人がすでに乗っている。全員一階に向かっているのだろう。エレベーターの周りを見渡すと、高校からの友人、ジャックが居た。僕とジョンはさり気なくジャックの近くに立つ。
「どした、ジャック?」
僕は静かな声でジャックに聞く。
「ああ、上司にサボってるところが見つかって営業に向かう途中。なんで営業部でもないのに俺が…」
ジョンはくすっと笑い、ジャックに話す。
「実は僕たちもふざけすぎて、罰で営業なんだ。」
僕は笑顔でジャックに言った。
「勿論、考えてることは同じだよな。」
「勿論。」
ジャックは小声で答え、ポケットに手を入れ小型複合現実ヘッドセットを取り出した。
「え、それ最新の?」
ジョンが驚いた口調で質問する。ジャックが手にしていたのは、二○四七年型の端末であった。
「まあ、一応発売されたのは去年だけどね。」
ジャックがヘッドセットをつけ、何かを操作した。僕のヘッドセットから電子音が聞こえる。画面の右上に通知が来ていた。
「開いてみて。」
ジャックが囁く。彼はノートを共有したのだ。ノートには今日の予定がびっしりと詰まっていた。メモの内容に目を通し、感心しているうちにエレベーターが一階についた。なんでこの会社は垂直・平行移動エレベーターを導入したのだろう。垂直移動だけでも十分なのに。そんなことを思いながら、僕はゆっくりと光の差し込むエレベーターのドアを見ていた。
「じゃ、今日も楽しむか。」
僕はそう言って、エレベーターから我先にと飛び出した。蒸し暑い風が髪をふわっと持ち上げ、まるで飛んでいるような気分だった。僕は鞄を脇に抱え、ヘッドセットを外し、広場の木陰に向かって走っていった。
「ザック、ちょっと待ってくれよ。」
追いついたジョンが言う。僕は七年間陸上部で四百メートル走を専門に部活動に励んでいた。対してジョンはチェス部、ジャックは情報工学部と文化系の部活に所属していた。更に後ろで汗を流しながら走るジャックが叫ぶ。
「おい、ちょっとまってくれよ。」
「少しダイエットしたらどうだ?」
ジョンが後ろ向きに走りながら返す。少し経ち、三人で木陰に集まると、予定の確認をした。