その4
登っては止まり、止まっては登り、また登っては止まり、この頃には頭上に差し掛かった太陽が容赦なく照り付け、気温の上昇とともに体温も上がり、汗となって体力を奪っていく。
「なぁ。」
「どした?」
「富士山って、涼しいんじゃなかったっけ?」
「おお、暑いな。」
富士山頂の気温は、年間を通じて5度以下と聞いている。今まで観測してきた中で、15度以上を記録したことはないそうだ。それに、標高100mごとに0.6℃下がると言われている。5合目が23℃だったから、単純計算で15.6℃くらいになっているはずだったが、余裕で汗だくになるほど暑かった。
延々と続く坂道を、黙々と登り続けていく。もはや二人とも会話はなく、そんな元気も体力もなかった。五合目を出発した後の軽いジョークを言い合っていた頃が懐かしくさえ思う。いや、あの時も昼飯のラーメンが祟って苦しかったか。
前や上を見ると心が折れるため、私は何かで読んだ登山やハイキングで疲れた時の歩き方を思い出した。やや前傾になり、足元から前数メートルだけを見て進む。前傾になることで身体は前に出るし、足元を見るために先を見ずに済むので心への負担は少ないらしい。あとはひたすら進むのみである。頂上は逃げない。そして、わずか数十㎝でも、前に行けばゴールは近付くのだ。ようは、登山もマラソンも一緒、止まりさえしなければ、必ずゴールは近付いてくるのだ。
午前8時40分になって、8号5勺の山小屋に着いた。ここでようやく標高3,450mだそうだ。久しぶりに頭上を見上げると、先ほどの白い鳥居が、だいぶ近くに見えていた。後ろを振り返れば、宿泊した7号目の山小屋がどれかわからないくらいの高さを登っていたようだ。
「はぁ。しかし、眺めはいいけど見飽きたな。」
眼下に広がる風景は、3,000mも越えてくると、遥か彼方まで見渡せるため、上に登る分には大して変化がないのだ。最初は爽快な景色に感動していたが、美人は3日で飽きると言うように、この景色も変わらないものなので慣れてしまった。
「そうだな。そう言えば、あの色の違うエリアは何なんだ?」
直行が指差す。眼下は深緑の麓森林エリアが広がっているが、山中湖寄りの一帯が薄緑色とだいぶ広範囲に色違いになっている。この高さから見て相当広いと思うのだから、だいぶ広大なエリアだろうと思う。特に何か建造物があるわけでもなさそうだ。あの辺りは樹木の種類が違うのかもしれない。
と思ったが、休憩がてら携帯電話を取り出し地図アプリを起動する。わからないことは調べる。これいくつになっても大事。
「ほうほう。あの辺り、陸上自衛隊の演習場らしいよ。」
「へぇ。ずいぶん広いんだな。」
当然、演習場ということは武器の訓練もするのであろう。特殊車両の訓練もするだろうし、狭くてはそれもままならない。この辺りだと富士宮の演習場が有名だが、反対側にも演習場があることを初めて知った。
「はは。」
「どうした?」
直行が突然笑い出したので私は首をかしげた。
「日ごろ、訓練も何もしていない俺達が、よくもここまできたもんだな。」
「そうだな。」
「だいぶバテてるみたいだけど、頭が痛いとか、高山病は大丈夫か?」
そう言えば、あれだけ心配していた高山病の症状は全くなかった。まぁ、疲れ切っているので大丈夫とは言えないのだが。
「おかげさまで。ゆっくり来てるから大丈夫そうだ。問題は体力の無さだな。」
ペットボトルの中身を飲み干し、つぶしてリュックの中に入れる。もう何本飲んだのだろう。それに、これだけ飲んでいるのに不思議とトイレに行こうとは思えなかった。汗で全部出てしまっているのだろうか。
富士山にはゴミ箱がない。ゴミは基本的に持ち帰りだ。だから限られた荷物を厳選しなければいけないのだが、一番出たゴミが空ペットボトルだった。また、この高さに来ると搬入が大変なため、500mlの飲料水で500円~700円程する。普通に考えたら高いと思うかもしれないが、登ってみるとわかる。水分の重要性。この値段で提示されても普通に高いとは感じないのだ。不思議なもので、生命の命綱と思うと、むしろ販売があるだけでありがたく思えるものだ。標高が高くなると高くなると聞いていたため、私はスポーツ飲料と麦茶を購入した。
「さぁ。頑張ろう。」
重い腰を上げ、再び山道に戻る。ここまで来ると、周りの登山客も一様に無口だ。それにしても日差しが強い。雨になるよりはよっぽどいいのであろうが、天候には恵まれ過ぎた。再び登っては休みを繰り返し、それでも諦めることなく前に上に進んでいく。ここまで来たら引き返す選択肢はあり得ない。
・富士山登頂を成功させる。
この想いのみ。何かに取り付かれたように歩き続けた。改めて思う。登山というものは自分との戦い。そして、すごく地味な作業なのだ。
息が切れるのは体力の限界、と言うだけではない。よくよく考えればここは標高3,000m以上の日常とは違う別世界。空気が薄い分、息が切れるのかもしれない。首にかけたタオルにしみ込んでいく汗はもう絞れるほどだ。気合を入れるためにかぶってきた侍ジャパンのキャップは、もう汗がしみ込んで色が変わってしまっている。
「上を見てみな。」
直行の言葉に私は顔を上げた。すると、あんなに遠く上空に見えていたはずの白い鳥居が眼前にあった。ひたすら上り続けた結果、とうとう鳥居に辿り着いた。のだが・・・。
鳥居前で2人で記念撮影した後に愕然とした。
『9合目 3,600m 迎久須志神社』
いや、わかっている。もうゴールは目の前だと思うのだが、まだ9合目だったということにいささか落胆した。ここは山小屋があるわけでもなく、ただ社があるだけの場所だ。適当な岩場に腰を下ろし、最後の休憩を取ることにした。
「あと少しだな。」
「ああ、あと少しだ。」
時間は午前9時25分。山小屋を出発してから4時間半歩いてきたということだ。それも登りばかり。普段生活していたらまず経験しないような重労働だった。
ここから山頂までは、溶岩の固まった岩たちがゴロゴロし、傾斜も急になっていくので余計に身体への負担は大きくなる。それに加えて、照り付ける太陽と、奪われていく体力。もう、気持ちで折れないように進むしかない。
這うように、と言えば語弊があるかもしれないが、気分的にはそのくらい一杯一杯に登っていた。しかし、傾斜が急になるということは、考えようによっては短時間で高さを登れるということだ。やることは最後までいっしょ、一歩一歩確実に進むことのみ。
そして、山小屋から歩き登ること5時間と少し。午前10時15分、ついに吉田口山頂へ到達した。
「やったな!」
「お疲れ!!」
互いにたたえ合い、久須志神社前の記念碑の前で記念撮影をする。もはや気力だけで何とかしたようなものだ。体力は空っぽ。あれだけの水分補給をしたにもかかわらず、汗も引っ込んだような気がした。だが、40代も半ばを超えたおっさん二人が、とうとう山頂まで来たのだ。富士山登頂を達成できたのだ。初富士登山は登頂率50%と言われているが、それをやってやったのだ。
しかし、魔王の後には大魔王が控えているように、私達の前には新たな目標が立ちはだかっていたのだ。
続く