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その3

 山小屋の従業員の声で目が覚めた。


「おはようございます。4時15分になりました。間もなく御来光のお時間です。」


 そう言えば、日の出前に声をかけてくれると言われていたのを思い出した。もそもそと起き出し、直行と一緒に外に出る。澄んだ空気が肺に行き渡り、頭がはっきりするのを感じた。昨夜の雨は何だったのかと言うような、雲もない空だった。東の空が、うっすらとオレンジ色になってきていた。


「雨、上がってよかったな。」

「ああ。御来光はダメかと思ってたよ。」


 そんな会話があちこちから聞こえてきた。みんな、考えていることは同じようだ。隣にいた老夫婦も嬉しそうな顔をしている。改めて周囲を見渡してみると、自分達と同年代か年上であろうご夫婦や、外国から来たらしいファミリー、ソロで来ている若い青年、大学のサークルと思われる男の子たち、そんな20名ほどが、狭い通路に出てきては、一様に東の空を見守っていた。


 東の空のオレンジ色が、夜の濃紺の闇を消し始め、やがて暖かな光とともに太陽が姿を現した。なんと神々しいのだろう。『日の出』とか『朝日』と言わずに、わざわざ『ご来光』というのがよく分かった気がした。


 スタッフが泊り客に順番に声をかけて、記念撮影をしてくれる。それぞれが撮影した後は、順次解散となった。私たちはいったん部屋に戻り、荷物をまとめると出発することにした。ちょうど時間は午前5時。今から出れば午前9時過ぎには山頂に到着し、お鉢回りをしてもお昼前には下山を開始できる。


 と、思っていたのだが。。。


 山小屋を出て最初の坂道は、なんと急な岩場で、足元を確認しながらゆっくり上っていくしかなかった。溶岩が固まったものなのだろうか、岩肌はゴツゴツザラザラしていて、素手で触るのは少し痛いくらいだった。なれない岩登りに息を吐いていると、


「ちょっと、待って。」


 と、直行が突いてきた。振り返ると、けっこうな勢いで、60歳半ばくらいの男性がスイスイと登ってきていた。手慣れた手つきから、ベテラン登山者だということがわかる。脇に避けて道を譲ると、


「ありがとう。」


 と、声をかけられたので、


「いいえ。お疲れ様です。」


 と返事を返した。山のあいさつで『お疲れさま』が正しいのかはわからなかったが、返事をしないのは違うと思った。


「この先はしばらく岩道だから、頑張ってくださいね。」


 そうアドバイスをすると、おじ様はどんどん登って行ってしまった。その姿を『猿山のサル』に見立ててしまったのは心で詫びるとしよう。そのくらい見事にスイスイ登って行かれたのだ。おそらく、こちらのバテっぷりや服装などから、登山初心者と思ったのだろう。


 一息ついた後、続く岩道を黙々と登っていった。いくつかの曲がり角を過ぎたとき、ふと振り返ると、宿泊した山小屋がはるか眼下に見ることができた。そして、人工的な階段を見付けて登り切ると、そこには、


『標高3,000m』


 という看板が立てかけてあった。ここで少し休憩を取ることにして、私は設置してあったベンチに腰を掛けると大きく息を吐いた。宿泊した山小屋が2,790mだから、210m登ったことになる。しかし、ここまで30分ほどしか経過していなかったが、慣れない岩道でだいぶハイペースになってしまっていたらしい。そこに昨日の疲れの残りが重なって、私はだいぶバテてしまった。


 直行はというと、涼しい顔で200円の使用料を払ってトイレに行っていた。汗だくになっている私はトイレに行く気配すら感じていない。変な話だが、汗で水分が全部出て行ってしまっているような気さえしていた。


「大丈夫か?」

「ゴメン、だいぶバテてる。お前は?」

「まだ大丈夫だけど、けっこうきちぃな。」


 高山病のような症状は全くなかったが、とにかく疲れていた。息切れが治らず、何度も深呼吸しては水分を取った。


 ここからはゆっくり行こうという話になり、10分ほど休んで出発することにした。しかし、身体は重く、足が前に進まない。それに加えてかなり急な道が続くため、道の折り返しごとに小休止を入れた。後になって思ったことだが、標高も3,000mを超えていたため、空気が薄かったのだろうと思う。その場にいると、空気が薄いとか、気温が下がってきているとか、あまり体感はなかった。だからこそ、高山病などには注意しなければいけないのだと思う。


 一歩一歩が鉛のように重く感じ、どれだけ進んでも上は見えない。8合目に到達したときには、思わず座り込んでしまった。いやいや待て待て、まだ8合目じゃないか。標高は3,040m、時間は午前6時前。山小屋から3,000m地点到達の時間を考えると大分ペースダウンした。いろいろキツいんだが、なんせ息が続かない。


 この高さに来ると、一般人にはだいぶ堪えるようだ。それはそうだ。なんと言っても、私は登山初心者。たかだか高尾山に登ったからと言って、富士山では格が違う。幕下で優勝したからと言って、いきなり横綱に挑んだって勝てるわけがない。己の認識の甘さを痛感していた。


「大丈夫か?」


 しかし、今は隣にこいつがいる。確かに、体力だけ見たら直行のほうがあるだろう。負けてられないとか、迷惑かけたくないとか、そういう話ではなくて、ここまで付き合ってくれた直行のためにも、ここでギブアップなんかできるはずもなかった。


「少し、ゆっくりになるが、行こう。」


 少し休憩し、再び歩き始めた。これ以降は急な崖路ではなく、再びジグザグに坂道を延々と登っていく。上を見てもきりがない。足元を見て、一歩一歩進むしかない。そう思っていたが、あまりに足元ばかりに目が行っていたのだろう。気が付くと、前の登山者に追いつき、そのすぐ後ろに立つことになってしまった。


「あら、ごめんなさいね。」


 慌ててよけようとするご婦人に、


「すみません。足元ばっかり見ちゃって、気が付いていませんでした。」


 そう言って謝った。60歳くらいだろうか。星柄のかわいい帽子に、紫のブルゾンを着込んでいる。なかなか派手目の服装だ。顔色も悪いし、息切れしてツラそうだ。


「大丈夫ですか?」

「キツイわぁ。」

「ですよね。もう息が切れてしまって。」

「お先にどうぞ行ってください。」

「はい。ご無理なさらないようにしてください。」


 お互いに励ましあって、その場を先に行くことにした。先ほどのおじ様や、今のご婦人よりも私はまだ若い。登れるはずなんだ。


 午前7時20分に3,200m地点にある山小屋に到着し、軒先をお借りして少し休憩を入れる。もうキツイとか疲れたは通り越して、何か別のところに来ているような気がする。久しぶりに上を見上げると、はるか彼方上方に鳥居のようなものが見えた。


「なぁ。あの鳥居みたいの、ゴールかな。」

「さてな。だけど、あそこまでいけば、どっち道頂上は近いさ。」


 15分ほど休憩し、そろそろ行こうかというときになって、先ほどのご婦人が到着された。その時、私たちの隣に座っていた同年代の女性が歩み寄って手を取っていた。どうやら娘さんらしい。母娘で登山に来たようだった。


 向こうもこちらに気が付いたようで、こちらを見て微笑むと、それに気が付いたのか娘さんと一緒に頭を下げてきたので、私たちも会釈してから出発した。


続く

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