その1
それは思い付きのことだった。何の知識も準備もなく、本当にただなんとなく口にした言葉だった。
「なぁ。富士山に登ってみないか?」
私の名は忠秀。ある日、小学校来の友人である直行と飲みに行った帰り道、なんとなくそういってみた。意味はない。ただ、40歳を越えて、調べると『初老』とか、『介護保険』とか、もう若くはないと嫌でも突き付けてくるような単語に囲まれ始め、50歳までにやりたいことを考えた時、そのうちの一つが『富士登山』だったのだ。
それこそ理由はない。ただ、せっかく日本に生まれて、日本で育ててもらった以上、一生に一度くらいは、日本で一番高いところに行ってみたい。と思うのは、私だけのことではないだろう。年間、富士山には平均して15万人程度(諸説あり)の人が富士山に登山し、そのうちの7割くらいの人が登頂に成功するといわれている。単純計算になるが、毎年10万人は富士山のてっぺんに行っているということだ。
別に体力に自信があるわけではない。世間一般的な中年と同じく、私もお腹が出て、体力は衰えて、気力もそがれていっている。集中力も落ちたし、根性もなくなってきた。頭も薄くなった・・・は、関係ないか。
それでも登ってみたいなと思ったのは、思い返せばやはり日本人であるが故だろう。それ以外に理由なんて思い出せなかった。
「お、いいねぇ。行こうぜ。」
直行の意外な返答に、誘っておいてキョトンとしてしまった。てっきり、即答で断られるかと思ったからだ。誘った私自身も冗談半分、いや、冗談8割くらいのつもりであったが、二つ返事でOKをくれた直行に、
「よし。じゃあ、計画立てようか。」
と、答えてしまった。先に述べておくが、最初に質問したことと、いま返事をしたことに、のちに深く後悔することになる。
さて、富士登山を計画したはいいが、直後に計画はとん挫する。私のせいではない。大陸から広がり始めた新型感染症が、爆発的に世界流行したのだ。当然、その年は様子を見て見送り、翌年もよく翌年もその勢力は収まらず、結局、実行できたのは話が出てから3年後の話だった。私たちは46歳になっていた。
50歳までにやること。みたいなものを決めていくと、人生充実すると何かに書かれていたことを思い出し、いくつか目標を立てた。妻との銀婚式に旅行に行くこと。亡くなった両親の実家を片付けること。資格を取ること。その中の一つに、『富士山登頂』を決めた。
3月に練習ということで高尾山に登った。標高599メートル程度の山だが、これがけっこう足腰に来る。いかに運動不足なのかということを痛感した。しかし、山の歩き方がわかってきたのか、3度4度と訪問するうちに、やがては走って登り降りできるくらいにはなれることができた。次は赤城山か、それとも大山か、そんなことを計画していたが、お互いの休みの調整がつかず、けっきょく、大した練習もできないまま7月を迎えることになった。
そこまで何も準備していなかったわけではない。10キロの重りのついたベストを着て歩行訓練をしたり、会社までの生き帰り、合計5キロの道のりを歩くようにした。それでも準備不足は否めなかったが、
「まぁ。今年だめなら来年。来年だめならその次。50歳までに登頂できればいいんじゃないか?」
という直行の言葉に、私も少し心が軽くなった気がしていた。
そして、運命の7月上旬某日。私たちはいつもよりも早い時間に家を出て、車で富士山を目指した。向かうのは富士スバルライン5合目。吉田ルートと名付けられた山梨県側の登山ルートだ。事前に登山計画も立て、靴や服装をそろえて万全の準備を行った。
途中、サービスエリアで朝食を取ることにした。この時の自分たちは、まだ富士山をなめていたと思う。直行はモツ煮丼セット、私は牛筋ラーメンを食したが、思いのほか量が多くて驚いた。ここは学食かと思うほどの量だった。
膨れた腹を抱えながら、午前9時には5合目の駐車場に到着することができた。ここで1時間、気圧に慣らすために気圧待機の時間を取る。その間に、富士山大社で登頂祈願を行い、売店では登山杖を購入した。各地にある山小屋などで、到達記念に焼き印を押してもらえるのだそうだ。
「よし。じゃあ、行きましょうか。」
「かわいい山ガールに会いにね。」
「いいねぇ。仲良くなっちゃおうか。」
「おじさんの富士山が私の河口湖にぃ。とか?」
まるで中学生のようなくだらないやり取りからスタートした富士登山。スバルライン5合目は、標高2,305メートルだそうだ。標高差にして1471メートル。高尾山2.5倍の高さだ。まぁ、そのくらいなら大丈夫だろう。と、この期に及んでまだベタ甘なことを考えていた二人だった。そう、本当に甘かった。ティラミスにあんこつけて黒蜜かけるくらいに。。。
続く