第五話 しろくまさんとドライブ
俺は彼女を抱きかかえたまま、医務室に向かって走った。
いや、せいぜい早歩きかな。
走って転んだら目も当てられないし、この子は意外に重いし。
しかし、気持ちはどうしても急いでしまう。
とは言え、急ぐ気持ちを抑えつつ、足早に医務室に向かった。
正直、この姿勢は腕や腰に厳しいが、今はそんなことを言っている場合ではない。
彼女の様子が、普通では無かったからだ。
彼女は俺の袖を掴んでいたけど、その手が震えていた。
尋常では無かった。
「もう、大丈夫だから」
彼女はただ、首をふるふると力なく振るだけだった。
「ああ、どうしたらいい?」
すると彼女は俺の胸に顔をうずめ、そのままの姿勢でいた。目を閉じているようだった。
もしかして、泣いているのか?
まずいな、この状況は。
益々、焦ってくる。
「ゴメン、俺の監督不行き届きだ」
彼女からの返事は無かった。
俺は医務室のドアを蹴るようにして開け、彼女を抱えたまま入室した。
ちょうど、保険医の先生が在籍していた。
保険医の先生は非常勤だから、医務室に居るかどうか分からなかった。
今日は居てくれて、本当に幸いだった。
心から、安堵した。
「あら、どうしたの?」
保険医の先生は、俺と彼女を交互に見ていた。ちょっと、驚いていた。
まあ、そうなんだろうけどさ。
俺はそんなことはお構いなしに、保険医の先生に助けを求めた。
「この子を、この子を助けてください」
「え?とにかく、そこのベッドに寝かせて」
俺はそっと、彼女をベッドに寝かせた。
これで落ち着くと思ったけど、彼女はそれでも、俺の袖を掴んだままだった。
どれだけ、怯えているんだ?
「高橋が何か、ええっとうちの男性社員ですけど、この子に何かしたらしくて、この通りなんです」
保険医の先生は、さっきと違って落ち着いていた。
俺はむしろ、その態度にいらいらした。
ダメだ、落ち着け。
「顔色が悪わね?一応、血圧と体温を測るわね」
「俺のせいなんです。俺が目を離した隙に、あいつが」
「落ち着いてください。むしろ、騒ぐと邪魔ですよ?後は、こっちでやりますから」
「ああ、そうでした。では、後をお願いします」
本当に、俺はダメだと思う。こういう時こそ、冷静にならないとダメだと分かっているのに。
だったら、ここは冷静な専門家に任せた方がいい。素人がわあわあ横から騒いだところで、ただ邪魔になるだけだから。
後は保険医の先生に任せて、俺は高橋を問い詰めるべく、医務室を後にしようと思った。
しかし、彼女は俺の袖を掴んだままだった。
「行かないで。行っちゃ、やだよ・・・」
「だ、大丈夫だから。この人はね、お医者さまなんだよ。もう、安心していいんだよ」
「ひとりに・・・・しないでよ・・・・」
彼女は、泣き始めた。
「お願いだから、おねがい、わたしを、わたしをひとりにしないで。ひとりは、いやだよぉ・・・」
ええええ~?
俺は、どうしていいか分からなくなった。
状況を整理しよう、いや、それは無理だ。
泣いている女子を置いて、この場から離れることなんか出来ない。
いや、それはおかしい。この場には彼女の同級生も居るんだし、と思ってその同級生を見ると、彼女も茫然としていた。
俺の視線に気が付いたけど、その同級生もふるふると首を弱弱しく振るだけだった。
落ち着け、ここに高橋は居ない。そう、ここは安全なんだ。
芽依さんとその同級生を交互に見るけど、どうしていいのか益々分からなくなった。
何か言わなくては、というか、何を言うべきか?
ああ、確か哲学者の名言にそれっぽい何かあったような、無かったような。
ちっ!使えねえ!
ああ、俺が悪いのか。哲学者は悪くない。ああ、もう!
彼女の友達も、明らかに戸惑っていた。
困った俺は、保険医の先生を見た。
先生は、ちょっとだけため息を吐いた。吐いたよね?
「分かったわよ。城田さんでしたよね?」
「ああ、はい。そうです」
「この子に、付き添ってください。幸い、お熱は無いようですので、しばらくしたら落ち着くでしょうから」
「え?でも」
「こういう場合、信頼出来る人が側に居るだけで、落ち着くものですし良くなるものですから。女の子って、そういうものです。だから、安心させてあげるのも、大人の役割ですよ」
「所長に話さないと」
「それは、私がやっておきます。ああ、彼女は戻ってもいいですね?」
「ああ、そう。付き添ってくれて、どうもありがとう。おやつの用意をしてあるから、君も食べて行って」
彼女はホッとしたように、保険医の先生と一緒に医務室から出ていった。
チラッとこっちを見たけど、留まることは無かった。
俺はこの娘と、ふたりっきりになった。
俺は手近な椅子を引き寄せ、ベッドの側に座ることにした。
彼女の手が、離れてしまわないように気を使いながら。
ベッドの側で立っていたかったけど、腰と肩がちょっと痛かったので。
俺が椅子に腰掛けても、それでも彼女は、俺の袖を離さなかった。
俺はもう、ここから動かないのに。
違うか。
動けないのか。
「ごめんなさい、しろくまさん」
「うん?いいんだよ。こっちこそ、悪かったね?大丈夫?」
「はい、しろくまさんが助けてくれたから、もう大丈夫です」
さっきよりは、顔色がよくなった。
本当に、良かった。
「私は、何もしていないけど?」
「・・・・・・」
「うん、何かな?」
「オレ」
「え?」
「さっき、自分のことをオレって、言っていましたよ?」
「え?本当?」
「はい、オレの芽依を、助けてくださいって」
「いや、そんなことは言ってないよ。大人をからかうものじゃないよ」
言ってないよね?でも、仮に言ったとしても、名前を呼ばないだろう。
呼んでないよね?
「でも、うれしかった。本当に、うれしかったんです」
「倒れるぐらいな目に遭ったのに?」
「はい。王子様にお姫様抱っこされているようで、本当に嬉しかったんです」
王子様?誰の事?俺のことか?
「はい?」
「なんだか、さらわれるって、こんな感じだったんだって。私、初めてです!」
おいおい、犯罪だろう、それは?
「まあ、そんな冗談が言えるようなら、もう大丈夫かな」
「しろくまさん。私の側に、居てくれますか?」
「居るじゃないか?」
「ずっとです」
「悪いけど、それは無理な話だ」
「やっぱり、私のことを恨んでいるんですね」
「え?どういうこと?」
「いいえ、何でもありません」
俺の袖を掴んでいた手を離し、身体を反対側に向けた。
表情は、見えなくなった。
「芽依さん?」
「ごめんなさい」
「う~ん、謝らないといけないのは、私の方なんだけど」
「オレって、言わないんですか?」
「言いません。大人なんですから」
「変なの」
「社会って、そういう変なところがあります」
「しろくまさん。私・・・」
「うん?何?」
扉が開いた。
保険医の先生と所長が来ていた。
「この度は、うちの社員がとんだことを」
所長は平謝りだった。まあ、それしかないんだけどさ。
すると彼女は、すっと布団から起き出した。
え?
「いいえ、大丈夫です。この方が、私を介抱してくれましたので」
何その、社交的な態度は?俺との扱いが、全然違うんだけど?
というか、切り替え早いなあ。
「そうでしたか」
「ですから、気にしないでください。あんまり騒ぐと、私の保護者も心配しますので」
「そうですか。でも、何かありましたら、遠慮なく申してください。出来る限りのことは、させていただきますので」
「では、もし良かったらですけど、この方に私の家まで送って欲しいんですけど」
「え?」
「え?」
「はい?」
三人の合唱とはいかなかったようだけど、それってどういうこと?
「正直、帰り道が不安なんです。ひとりだと、怖くて」
「ええ。もちろん、構いません。城田さん、こちらのお嬢さまを、お家までお送りしてあげてください」
「私がですか?」
「社用車を使ってください。無事に、送り届けてください」
「ああ、はい分かりました」
所長は外に出て行き、入れ替わりに彼女と同じ学校の子が入室してきた。
生徒会の役員らしい。
さっきの子かな?
どうも、みんな同じ顔に見える。
判別できるのは、芽依さんだけだ。
「牧田さん。私はこの方に家まで送って頂きますので、私はもう大丈夫ですから」
「私も一緒しようか?」
「大丈夫ですよ。家は遠いので、かえって迷惑を掛けてしまいますから」
「でも」
「この方は、私の母方の親戚ですので、心配は無用です」
親戚?初めて聞いた。というか、俺ってそうなっているの?
「ああ、そうなんだ。それで諏訪さんは、ここにしたいって言ってたんだね」
「それもありますけど、スイーツが楽しみで」
「結構、美味しかったよ。ああ、でも諏訪さんは」
「それでしたら、私どもの方で別途手配しますので、安心してください」
「そうでしたか。では、この子をお願いします」
「はい、承りました」
生徒会役員の女子は、丁寧に頭を下げて部屋を退出した。
少し、俺をチラッとだけ見た。
何だか、計るような感じだったけど、きっと気のせいだろう。
睨まれたような気がしたからだ。
「じゃあ、帰れるようになったら、お呼びしますね」
俺は、保険医の先生にそう伝えた。一応、車の準備もあるし。まあ、車のキーを取ってくるだけなんだけど。
「ええ、お願いします」
「もう、大丈夫です。帰れます、多分」
「そうなの?心配なら、城田さんの肩を借りるといいわ」
「はい」
余計なことをと思ったが、そうも言えないか。
非は、こっちにあるし。借りは作るモノではないなあ。借りを作ったのが、俺でないのが癪だけど。
「しろくまさん、抱っこ!」
保険医の先生が居なくなった途端、すぐにこれだ。いい加減にしろ。ここは社内だ。人の目があるし、人の目が無くても出来るか。
「無理です」
「さっきは、抱っこしてくれたじゃないですか」
「さっきはさっき、今は今です」
とは言え、すっかり顔色も戻ったようなので、一安心だ。
でも、さっきは何だったんだろうか?
恨んでいるって、何?
気になるが、今は彼女を無事に家まで送り届けないといけない。
というか、これ以上関り合いになりたくない。
「ほら、起きれる?」
「あ、はい」
俺は彼女に肩を貸しながら、そのまま駐車場まで案内した。
途中で車両課の奴から、車のキーを貰ったけど、そいつは芽依さんをじろじろ見ていた。
おい、やめろ。この子が怯えるだろう。
他の社員も、興味津々で俺たちを見ていたけど、さすがに何も言わなかった。
いや、後で根掘り葉掘り聞いてくるだろう。
社用車と言っても、ハイヤーみたいな車では無く、ただの商用バンだ。
「ほら。乗りなさい」
後部座席に乗せようとすると、何故か拒絶された。
「私、前がいいです」
「ああ、そうですか」
仕方が無いので、前に乗せることにした。
「ほら、もう歩けるでしょう」
「無理です」
仕方がない。
俺は彼女の肩を抱えたまま、どうにかして助手席に彼女を乗せた。
「ほら、頭を下げて」
身体をぴったり寄せるから、正直どきどきしてしまった。
いい匂いもするし、暖かいし、柔らかいし。
いかん、いかん。
「ほら、シートベルトを着けて」
「私、分かりません」
「・・・・・そこのベルトを引いてだな」
彼女はシートベルトをキュッと引いたので、途中で止まってしまった。
「あれえ?動きませんよぉ」
「ほら、手を離して」
俺は彼女からシートベルトを取り上げ、ゆっくり戻してからベルトを引いたその瞬間、彼女が俺に抱き着いてきた。
「お、おい!」
「ごめんなさい」
「だから、謝るなら離れなさい」
「ごめんなさい」
彼女は、震えていた。
俺にしがみついていた。
俺は、どうすればいいんだ。
本当、どうすれば正解なんだ?
「とにかく、落ち着きなさい」
俺は彼女の頭を、軽くポンポンとした後、ゆっくりと丁寧に撫でてあげることにした。少しでも、落ち着いてもらうために。というか、この姿勢辛いんですけど。
「しろくまさん。ん~」
キス待ちの顔って、こういうのかと思ったけど、冗談じゃない。
「ここは会社ですし、人の目があります。もう元気なら、ひとりで帰ってください」
「ちぇ。しろくまさんのいじわる」
やっと、諦めてくれたか。ホント、疲れる。
いったい、どこまでが本当で、どこからがお遊びなんだ?
「さあ、出発しますよ」
俺は久しぶりに、車の運転をすることになった。
ペーパードライバーではないけど、あまり得意な方ではない。
彼女はというと、しおらしくしているはずもなく、はしゃいでいた。
「しろくまさんと、初のドライブデートだ!やった~!」
「デートではありません。ただの送迎です」
「しろくまさん、かたいなあ」
「かたくて結構です」
俺はゆっくりと、車を発進させた。
安全第一で、運転しよう。
問題は、芽依さんが大人しくしてくれるかだ。
「あ、そこ右曲がってください」
彼女の住所を聞こうとしたら、もしかして夜這いに来てくれるんですかと言われた。
夜這いって、なんでそんな言葉を知っている?
意味、知ってるのか?
はあ~、面倒だ。すべて、高橋のせいだ。
じゃあ、家の近くまで行くから、道案内してくれと頼んだ。
「あ、そこ左です」
「はいよ」
「そこのスロープ、上がって下さい」
「スロープねって、首都高じゃん」
「はい、その通りです。ダメですか?」
一応、ETC車載器はあるから、首都高は使えるけど。
「君、そんなに遠くから通っているの?」
「はい、そうなんです」
「そうか、分かった」
俺の運転する車は、首都高に入った。
久しぶりの首都高は、ちょっと怖かったけど。
「やっほ~い!」
よく、はしゃげるな。こっちは、それどころではないのに。後続車は、車間距離詰めてくるし。
「あ!海ですよ、しろくまさん、海ですよ!」
海って言ってもなあ。港湾施設が見えるだけで、風情の欠片もないと思うのだが。
ああ、でも房総の山が見えるかな。微かにだけど。
「それで、どこまで行くの?」
「あ、次のインターで降りてください」
「次ね」
そこは、台場インターの出口だった。




