第二十五話 しろくまさんと江の島の甘くない夜
本館から荷物を取りに別館(正式には、宿泊棟と呼ぶらしい)に向かう道すがら、俯き加減の芽依さんは、唐突に俺のジャケットの裾を掴んで引っ張った。
「しろくまさん!」
「はい?」
なんだろうか、覚悟してますという表情だが、一体何の遊びだ?
「私、覚悟を決めました!」
ああ、そうだったね。
覚悟を決めるのってさ、きっと俺の方なんだろうね。
「あのさ」
「私、今晩、しろくまさんに女にしてもらいます!」
ええっと、通行中の皆様、これは冗談です。いいですか、本気ではありませんよ。
お願いだから、俺を見ないでください。
こ・れ・は、た・だ・の・お・あ・そ・び・で・す!
「天下の往来だから、そんなに叫ばなくても」
「ああ、そうでした。でも、つい」
「分かればいい。ちなみに、君は誰が何と言っても、女性だと思うからね。いいね?」
「はい!私、しろくまさんに喜んでもらえるように、精一杯頑張ります!」
ああ、やっぱりダメか。
もしかして、俺が無駄なことをしているのか?
「とにかく、荷物を取りに行こう」
芽依さんがきょとんとしているけど、どうしてだろう?
不安しかないんだけど。
さっきの部屋に戻ると、芽依さんはいきなり服を脱ぎだした。
いわゆる、下着姿になっていた。
「おい!」
いきなり、俺に向かって突進してきたので、俺は華麗に避けた。
すると、芽依さんはつまずいて、そのままベッドに突っ伏してしまった。
「む~、しろくまさん!ひっどい~!」
「プロレスごっこなら、他の人とお願いします」
「私、プロレスに興味ありません!」
「それは良かった、俺も興味無いから」
「ふつー、受け止めてくれますよ?」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
何だろう、考えているような。
「ほら、服を着なさい」
俺は投げ出されているワンピースを拾い、芽依さんの身体に掛けてあげた。
それが、良くなかった。
「しろくまさん!」
至近距離だったので、避ける事が出来なかった。
思いっきり、抱き着かれてしまった。
芽依さんの温もりに、ちょっと動揺してしまった。
「冗談なら、またにしてくれないかな?」
「私、冗談でこんなことしません!」
「冗談でないのなら、もっと問題だけど?」
「どうしてですか?」
「どうしても」
「私、分かりません!」
「前にも言ったよね?それが分からない内は、まだまだ子供だって」
「しろくまさんは卑怯です!」
「はい、大人は卑怯です」
そうは言っても、芽依さんは俺から中々離れてくれない。
芽依さんの体温と息づかいが俺に伝わり、ちょっとまずい気分になってきそうだ。
芽依さんの匂いに、めまいがしそうだ。
「芽依さん」
「はい」
「真面目に聞くけど、今夜はどうする気だったのかな?」
「しろくまさんに、女にしてもらいます!」
「君と俺は、友達だよね?」
「はい!もちろんです!」
「友達同士で、そういう関係にはなりませんよ?」
「友達でも、なります!」
「なりませんし、聞いたこともありません」
「知りませんか?セフレって、言うんですよ?」
なんというか、ハンマーで頭を殴られたら、きっとこんな感じなのだろうか?
グワン、グワンとした。
「しろくまさん?」
とりあえず、俺は芽依さんにデコピンをかました。それで、平静を取り戻すことにした。悪いね。
「いった~い!酷いです!」
「酷くありません。女の子が、そんなはしたない言葉を使ったらいけません」
「む~。私がいいって、言ってるんです!」
どうしよう、どうしたらいいだろうか?
いやいや、おかしいだろう。
第一、俺は芽依さんにそんなことを求めてはいない。
ああ、そうか、求められているのは俺の方か?
一体、どうなっている?
普通、逆だろう?
普通なら、据え膳食わぬは男の恥なのだろうけど、もうこれは普通ではない。
だから、ダメだ。
「ええっとね、それはお互いに同意しないと、ダメだと思うよ」
「はい!だから、後はしろくまさんだけです」
「言い方を間違えた。俺は、同意しないよ」
「どうしてですか?私のこと、嫌いなんですか?」
「好きとか嫌いとか、それ以前の話だよ」
「分かりません」
「分かるまで、修行しなさい」
「修行って、どうやるんですか?」
「青春をするんだよ」
そう、青春。
甘酸っぱく、そしてとても苦い。
俺には経験がないけど、本の中ではいくらでも書いてあった。
物語のような青春って、きっとどこかにあるんだろう。
でも、物語の登場人物には、俺はなれない。
物語に、俺の配役は存在しない。
モブにすらなれない。
青春って俺には関係の無い、どこか遠い世界の話しだということに、若い頃の俺は気が付いていた。
理解した。
それからだ、ラブソングを聞いても、青春小説を読んでも、あるいは感動作品を見ても、心があまり動かなくなったのは。
むしろ、どこか反感すらある。
それは嫉妬とか、やっかみとかとは少し違う気がする。
例えば、皆で演劇をしているのに、俺だけ仲間に入れてもらえなかった、いつの間にか俺だけ仲間外れになっていた。
いや、最初から仲間ですら無かったんだ。
俺から離れたんじゃない、気が付いただけなんだ。
だから俺にとって、青春って絶望と同義なんだと思う。
しかし、それは俺の話しであって、芽依さんは違う。
芽依さんのような、青春真っ盛りの世代の話ではない。
苦さも甘さも、経験してからでないと、後は後悔しかない。
もう、今さらなんだ。
俺のように年を取ってしまった、残骸のような男には。
だから、彼女には間違えて欲しくない。
「君は女子高生だ。その時期にしか味わえない感動とか思いとか、色々とあるんだよ」
芽依さんは、静かに俺の話を聞いてくれている。
不思議と、いつもと違う目をしている。
芽依さんが真剣に、聞き漏らさないようにしているのは、俺の錯覚だろうか?
「俺にはもう取り戻せない。だけど、君は違う。18歳の青春は、18歳にしかない。だから、君は君の青春を送るべきだ」
「しろくまさんと送るのは、ダメなんですか?」
びっくりするぐらい、低い声だった。
一瞬、芽依さんの声とは思えないぐらいに。
もしかしたら、この声こそが本当の芽依さんの声かもしれない。
だとしたら、俺に見えている芽依さんとは別の芽依さんが、居るのかもしれない。
「私は、しろくまさんと青春を送りたいんです!」
「無理です」
「どうして?」
「俺の感性は、君たち若者の感性とは根本から違う。感動を共有できないし、青春てものを斜め目線で見てしまう」
「それの何がいけないんですか?」
「いけないんだよ」
「だから、どうして?」
「ペシミストはね、何も産まないからだよ。まあ、ニヒリストよりはまだいいけどね」
「誤魔化すんですか?」
「違うよ、事実を言っているだけ」
「どうして、どうしてそうなんですか?」
「どうもこうも無い。それが俺だよ」
「何を言っているのか、私には分かりません」
「当り前さ。俺のようになるには、俺のような人生を送っても、同じにはならないからね」
「意味が分かりません」
「俺もだよ」
「だったら」
「だったら?」
「私がしろくまさんに、青春をあげます!」
はい?
「ええっと、どうやって?」
「分かりません!」
「思い付きが許されるのは、若い内だよ」
「はい!私、まだ若いですから!」
堂々巡りだな。だから、若い子同士でしなさいと、俺は言っているんだけど。
「いいかい」
「よくありません」
「へ?」
「私を煙にまこうとしないでください」
「煙にまくも何も、事実なんだけど?」
「ずるいです!」
「へ?」
「だって、だって、それって私がしろくまさんより若いのって、私のせいだって、そう言ってますよね?」
俺、そんな風に言った?
「私だって、しろくまさんと同級生になりたかった。一緒にお勉強して、一緒に遊びたかった」
「あ、あのさ」
「一緒に、青春をしたかった。しろくまさん!それが出来ないのって、私のせいですか?私のせいなんですか!悪いのは、私ですか!!!」
「いや、それはその」
「はっきりしてください!」
「いや、うん、ええっと」
どうする、どうする?一体、どう言えば正解なんだ?
おい、誰か教えてくれ。というか、助けてくれ。
何で俺が、追い詰められている?
何か悪いことしたか?
「しろくまさん!」
「え?」
芽依さんは、泣いていた。
「しろくまさんはどうして、私の気持ちをもてあそぶんですか?」
お、俺が、芽依さんを、もてあそんでいる?
どうして、そうなるの?
わ、分からん!
芽依さんは、さめざめと涙を流している。
嗚咽を漏らしている。
そんな仕草の彼女を、思いっきり抱きしめてあげたいという衝動があるけど、どうにか押しとどめた。
だって、泣きたいのは俺の方だ。
俺なんだよ、追い詰められているのは。
この状況、どうしたらいい?
俺では、どうにも出来ない。
突き放すことも、抱きしめてあげることも出来ない。
だって、俺はモブですらないんだから。
風景の一部がせいぜいなんだ。
その風景の一部である、江ノ島の夜はこうして更けていく。
涙で濡れた夜と、文学ならそう表現するのか?
でも、これは綺麗な話しじゃない。




