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『ガチ恋距離やってよ』
最北南の配信中、そんなコメントが流れた。
「えー、ガチ恋距離っすか?」
なんだろう、それ、と思いながらも意識が別の作業をしていたモニターから配信画面のモニターへとうつる。
「よいしょっと」とおじさんのような掛け声と共に最北南の顔が画面に収まりきらないほど至近距離までズームされた。
『ガチ恋距離助かる』
なるほど。これがガチ恋距離というのか。
「まだまだこんなものじゃないっすよ」
最北南が目をつむり、唇を突き出したような顔に変わる。至近距離のキス顔はさすがに事務所NGなんじゃないか、とモヤモヤしてくる。
『キッツ』
『いきなりやめて』
『うーん、これは不同意性交罪』
『同意書なくない? 逮捕でしょ』
コメント欄では散々なイジられよう。
「そこまで言いますかね!?」
上半身を映すいつもの距離まで戻し、怒り顔で頬を膨らませている。
「ん……同意書……いや、たしかにそうでしたね」
なんだろう。最北南としてではなく、疋田さんとしての意見が透けて見えて嫌な予感がしてきたぞ。
◆
ガチ恋距離を披露した配信の翌日、疋田さんはいつものように合鍵を使って合図もなく部屋に入ってきた。脇には大量の紙が挟まれた分厚いファイルを二冊挟んでいる。幅が優に10センチはありそうで、オフィスや学校でしかお目にかかれないような厚さだ。
「こんにちは、佐竹さん」
疋田さんは挨拶もそこそこにテーブルに二冊のファイルを置く。
「こんにちは。疋田さん、それは何?」
「よくぞ聞いてくれました! 佐竹さん、私達には暗黙の了解が多すぎる。そうは思いませんか?」
「お……思わないかな」
ファイルの正体に感づく。せめてもの抵抗で質問に否定的に答える。
「佐竹さん、私達には暗黙の了解が多すぎる。そうは思いませんか?」
「思わないかな」
「佐竹さん、私達には暗黙の了解が多すぎる。そうは思いませんか?」
あ、これ無限ループに入ったやつだ。
「このまま根比べしてもいいけど」
「どちらが勝つかお分かりでしょう?」
疋田さんは「この私と偏屈な根比べをするのか?」と言いたげにニヤリと笑う。いやまぁ、勝てるわけがない。この人にかかれば一日くらいは平気で無限ループ会話をしてきそうだ。
「そっ……そうだね……暗黙の了解が多いと思うよ」
「そうですよね! そういう訳で、本日は契約書をお持ちしました」
「契約書……」
やっぱりか。どうせ昨日の配信の不同意でどうこうのやり取りから思いついたんだろう。細かい確認項目が大量に羅列されていることは確実だ。
「はい。まずは『日常生活』編からいきましょう」
「ちっ、ちなみにもう一冊は?」
「『夜の性活』編です。私はどちらからでも構いませんが」
「にっ、日常生活編からにしようか……」
「承知しました。ではまず一枚目はこちらです」
疋田さんがファイルから一枚の紙を抜き取り、俺に渡してきた。
「えぇと……『佐竹聡史(以下、甲という。)と疋田桃子(以下、乙という。)は双方の同意なしに』――」
俺が読み上げていると、疋田さんがスッと手を挙げて制してきた。
「すみません、佐竹さん。訂正です」
「まだ名前を読み上げただけだよ!?」
「世間の風潮として男性の名前を先に記載することは男尊女卑を助長していると思われかねないかと。申し訳ありません。私のミスです」
「そもそも論だけど……これって誰かに見せるの?」
「いえ、私達二人だけです」
「なら風潮とかは良くない!?」
「佐竹さん、それを言い出したらこの契約書すら要らないっすよ」
疋田さんは「御冗談を」と言いたげに笑う。
「最初からそう言ってるよねぇ!?」
「さて、続きです。甲は私、乙が佐竹さんです」
俺に拒否権はないらしい。拒否権に関する条項を後で追加させてもらわないとだ。
「『甲と乙は双方の合意をもって居室に立ち入ることが出来る』……あれ? 疋田さん、いつも勝手に入ってきてない?」
まぁいちいち出迎えるのも面倒だから合鍵を持っているからなんだけど。
疋田さんは顎に手を当てて真剣な表情で悩んでいる。
「む……では『合鍵の譲渡をもって合意とみなす』と付け加えましょうか」
「そうだね」
「では次っす。『公園のブランコで会話をしない日は速やかに甲、または乙は申請書を記入の上、提出する』――あぁ、すみません。またミスです」
「そうだよね。夜にブランコに行けない、なんて言うのにいちいち申請書は要らないよね……」
「ブランコではなく『揺動系遊具』でした」
「そこ!?」
「ブランコがメンテナンスで使えない日があるかもしれないじゃないっすか。それでもお話がしたい! なんて日はリスさんとライオンさん柄の前後に揺れるアレに跨る可能性があります。それを考慮するとブランコに絞った記載とするのはいささかリスキーかと」
「……部屋で話せば良くない?」
「では佐竹さんの部屋も揺動系遊具と定義しましょう」
「俺の部屋もアトラクションなんだ!?」
斜め上の解決方法に苦笑いをしながら頷く。
「じゃ、次だね。えぇと……『甲と乙は双方の職業について第三者に開示しないこと。開示した場合はきついお仕置きが……』――きついお仕置きって何!?」
「きついお仕置きはきついお仕置きです。ページの下部に米印があります」
「えぇと……お尻ペンペンか全力助走付きビンタ……じゃ、お尻ペンペンかな」
「……性癖っすか?」
「この二択ならの話だよ!? っていうかあれだよね? 在宅でやってるバイトだったっけ? それを誰にも言わなければいい話か」
疋田さんが大きく頷くので、VTuberをしていることは知らないフリを続けないといけないらしい。
「そういうことです。つい、うっかり、意図せずに私は外で『佐竹さんは大学院生だ!』と叫んでしまう可能性がありますが、その際は是非ともお尻ペンペンをお願いします」
「全力で助走をつけた上でビンタをさせてもらうね」
「仕方ありません。男女平等ですね」
疋田さんはにそんなつもりは毛頭ないとばかりにニヤリと笑う。彼女の性癖がストレートなものだと信じるしかない。
「次は……『乙は甲の配信中に部屋に立ち入らないこと』。配信……?」
「あっ、こ、これは捨てたはずの……ねっ、寝ぼけていて、変なものがまぎれこんでいたようです! わっ、忘れてください!」
疋田さんは慌てて俺から契約書を取り上げるとビリビリに引き裂いた。ゴミ箱を探して部屋を見渡すが見つからない疋田さんは何を思ったのかその紙を丸めて口に入れた。
「なっ、何してるの!? 早く出して!」
「ふぁふぃふぁふぇん!」
疋田さんは頑なな態度で首を横に振る。だが食べ物でないものを口に入れたために苦しいのか、えづきそうになりながら目を涙を浮かべている。
「ほら、はやく……」
右手を受け皿にして疋田さんの前に差し出すと、ぐっしょりと湿ったコピー用紙が手の上に落ちてきた。
「うええっ……すびばせん……」
「いや、いいけど……食べなくてもさぁ……」
「契約書に追記しておきますか? 『甲は紙を食べない』と」
「そんな神はサイコロを振らないみたいな言い方されても……」
「では、気を取り直して次にいきましょう」
「まだやるのか……」
結局、途中で契約書へのツッコミにも疲れてきて、何も契約はしないまま夜が明けていくのだった。




