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今日はいよいよ疋田さんとの計画にあったA、即ちキスの実行日。既に一度しているとはいえ疋田さんは「きちんとしたものを」と言って舌なめずりをしていたので今日は恐らくディープなインパクトが襲いかかってくることだろう。
とはいえ既に約束の時間を一時間もオーバーしている。疋田さんが部屋に来る約束になっていたのだけどまだやってこない。
連絡もないので下に様子を見に行くことにする。
入れ違いを防ぐため、エレベーターが動いていないことを確認して非常階段で一個下の階へ駆け足で移動。エレベーターを見てまだ同じ階で止まっていることを確認。ヨシ。
部屋のチャイムを鳴らしてみると「はーい」と少し籠もった声がインターホンから聞こえる。まさか風邪でも引いたのだろうか。
扉が開いて出てきたのは案の定マスクをした疋田さん。マスクを三重につけているので何ならインフルエンザまでありそうな雰囲気だ。
「だっ……大丈夫? 風邪?」
「あ……いえ。すこぶる元気ですよ」
疋田さんが3重のマスク越しにいつもの透き通った可愛い声でそう言うとツンと鼻を刺激する匂いを感じる。なんだこれは。
「今日って一応、約束の……その……あれの日だけど……別の日にする? すこぶる元気なら安心だけど」
「あ……そのですねぇ……」
疋田さんはなんとか露出できている目を右往左往させている。すこぶる元気と言う割に何かがあった風だ。
「どうしたの?」
「その……昨日ですね……佐竹さんを裏切ってしまったんです……その……ジローと……」
ジロー!? どっ……どこの男!?
「だっ……誰!?」
「まぁ……その……お口で平均よりは太いアレをジュルジュルと……アレをアレしちゃって……お汁も完飲してしまいまして、今日はとてもじゃないですが罪悪感で佐竹さんには顔向けできないんです」
「ひっ……疋田さん……そんな……」
良からぬ光景が頭をよぎる。寝取られ、NTR。まさか疋田さんがそんな人だったなんて。
あまりのことに反応できずにいると疋田さんは追い打ちをかけるように続ける。
「本当に……すごく濃い目でして……白いアレが喉につっかえるし、量もすごくて飲み込むのが大変でしたよ。お腹もパンパンにされまして……」
「なっ……何を……」
「本当に、ジローはすごく大きかったですよ……口いっぱいに頬張りましたもん……はぁ……」
ん? ジローは大きい? 平均よりは太いあれをジュルジュルと口に頬張る? お腹をパンパンにされた?
疋田さんの言葉を繋げていくと、なぜだか黒と黄色のコントラストが目に浮かぶ。
「濃い目なんてあったっけ? カラメじゃない?」
「あっ、あぁ……よ、吉村ジローなんですよ」
「なんかセクシー男優にいそうな名前だね」
一瞬だけ狼狽えた疋田さんを見てこれは寝取られエロトークではないと直感する。エロに持っていきたいがあまりにカラメを濃い目と言い換えたことが運の尽きだ。
「ニンニク入れますか?」
俺は自分の疑問を解消するために疋田さんに尋ねる。
「ニンニクマシマシ、ヤサイスクナメ、アブラカラメでお願いします」
疋田さんは即答する。
「それが昨日のオーダー?」
「はい……面目ないです……昨日の夜、ムラムラっと来ちゃいまして……ソロプレイをしちゃいました」
疋田さんはしょぼんとして俯く。昨日、平均よりは太い麺を使っているラーメンを食べたということ。『アレをアレ』というのは『ニンニクをマシマシ』だろうか。白い背脂も喉につっかえて食べるのが大変だったらしい。
ニンニクマシマシを食した翌日の口臭は推して知るべしだろう。
「まぁ……仕方ないよね。別に今日無理にしなくてもいいわけだし……とりあえず上がっていい?」
「あぁ……はい。どうぞ」
疋田さんの汚部屋にはリンゴジュースの紙パックと緑茶のペットボトル、口臭ケア用のグミが床を塗りつぶす仲間としてジョインしていた。
「一通り試したんだね……」
「あ……あのあの! 連絡しなくてすみませんでした……後一時間いただければ完璧に口臭を消してみせます! そうしたら映画館でもマンガ喫茶でもいけますよ」
「そんなのマジシャンでも無理だし、念のために密室は遠慮しておくよ……」
バスを消してみせましょう、みたいなノリで口臭を消す方法なんてないだろうし。
「はぁ……なんで昨日……あぁ! 予定が崩れるぅ!」
自業自得なのだけど予定が崩れることで疋田さんはかなりのストレスを受けているようで頭をかきむしりながら後悔している。
「ま……まぁ……明日にしよっか? それなら予定もずれないでしょ?」
「そうなるとBもCも一日ズレます。キスの6日後にいきなりBですか? 早くないっすか?」
「7日後との境目は何なの……」
疋田さんは俺の指摘を無視していつものように持論を展開する。
「さすがにBやCは身体への負担も鑑みて仕事がない日に実施としたく。以上、何卒よろしくお願いいたします」
「急にビジネスメール!?」
「まぁ……冗談は置いといて。日をずらすのはいいんすけど……はぁ……今日のやらかしがとんでもなくショックなんすよぉ……」
「いいよいいよ。ムラムラっと来たなら仕方ないよね……」
「はっ! 佐竹さん!」
頭を抱えていた疋田さんは何かを思いついたように俺と向かい合う。3重のマスクをしているはずなのに若干臭う。というか部屋そのものが臭い。これ全部疋田さんの胃から出た臭いなのかぁ……と思うと感慨深いものがある。
「な……なに?」
「佐竹さんも、臭くなればいいんすよ。自分の体臭が気にならないように、臭い同士なら気になりません」
「なっ……なるほど?」
分かったようなわからないような。
唖然としていると疋田さんはリビングから出ていき、キッチンにある冷蔵庫からピンク色のチューブを持ってきた。『すりおろし生ニンニク』。なるほど。
「これ……食べるの?」
「あれですよ。マヨチュッチュです、佐竹ママ」
「あー……あれ親に禁止されてたんだよね。下品だって」
疋田さんはニヤリと笑って俺の手ににんにくチューブを握らせる。
「どうぞ。幼い頃の夢を叶える日が遂に来ました。佐竹さんの母上はこの日のためにマヨチュッチュを禁止していたんですよ」
母さんが未来人だったとしたら尚更今日は家から出るなと注意するだろう。何が悲しくてニンニク臭い彼女とキスをするためににんにくチューブをチュッチュしないといけないのか。
「どうぞ、佐竹さん。ニンニクチュッチュをして、疋田チュッチュもしましょう」
疋田さんはマスクを取って唇をすぼめる。その瞬間、とんでもない臭いが鼻を襲ってきた。
「うわ……くっさ!」
「おっ、女の子に臭いとは何事ですか!」
「あぁ……ごめん」
なんで俺が謝ってるんだろう。悪いのはこうなるのを分かっていてニンニクマシマシにした疋田さんのはずなのに。
「まぁ……とにかく、これ飲めばいいの?」
「はいっす。お願いします」
仕方ない。覚悟を決めてニンニクチューブを食わえ、ゼリー飲料を流し込むようにチューブを握りつぶす。口いっぱいにデロデロのニンニクが広がる。
「んむっ……ぷはっ……うえっ……」
「さっ……佐竹さん……私のために……やめてください!」
疋田さんは悲劇のヒロインぶって目の前で泣きの演技をしているが煽られている気がしてならない。
ニンニクを飲み込んだその口のまま、疋田さんを壁に押し当てて唇を奪う。
「んっ……くっ……んっ……」
喋る隙も与えずに舌を押し込む。めっちゃ臭い。ニンニクはニンニクで相殺できないらしい。
ちょっとだけのつもりだったのに疋田さんも本気になってしまい、俺の首に腕を回してきたので離れられくなってしまった。
ニンニク臭の漂う口内で舌同士が何度か接触する。
「ぷはっ……うぇっ……くさっ! おええ……」
疋田さんも相当なダメージを食らっているようだ。口を離すとその場にしゃがみ込みむせこんでいる。
「はぁ……はぁ……少しは反省してよね! 大事なキスの前日にジローとか、ありえないから!」
「それは……ずびばせんでじたぁ……うええ……」
二人して嗚咽にまみれながら、記念すべき二度目のキスを完了。初キスはレモンの味? いいえ、にんにくです。




