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 風邪も治ってきたある日、疋田さんはノートを2冊持って部屋にやってきた。


「それ……何?」


「ノートです」


 それは分かるんだよなぁ。


「の……ノートで何をするのかな?」


「ストレスを与えます」


「ストレス?」


「はい。以前私達はきっ……キスはしましたがハグはしていません。私達はハグをすべきです」


 健康な疋田さんはいつもの融通の利かない人に戻ってしまっている。風邪を引いていた時は柔軟性もあってよかった。


「まぁ……で、ハグとストレスとノートにどういう関連があるの?」


「ハグをするとストレスが軽減されるそうです。どうせなら最大限ストレスを軽減させるために事前にストレスを与えたいなと思いました」


「それって100円のものが50%オフで50円で買えるのに、200円の50%オフの方が値下げ幅が大きいから値上げしてくれって言ってるのと変わんなくない?」


「ちょっと言ってる意味が分かりませんね」


 疋田さんに冷たくあしらわれる。


「要は……このままハグしたほうが最終的なストレスは減るんじゃないかってこと」


「では……比較用に。はいっ!」


 疋田さんは威勢のいい掛け声とともに俺を真正面から抱き締めてくる。なんで疋田さんからは柑橘のいい匂いがするのだろう。ミカンでも食べたのだろうか。


「どうですか? ストレス、軽減されてますか?」


「うん……ミカンって食べた?」


「はい。実家から山程来たんです。あ、後でお裾分けしますね」


 疋田さんの体臭ではなかったらしい。ちょっとがっかりしながらも疋田さんの首筋に顔を埋める。


 ハグをしていたのはほんの少し。すぐに疋田さんから体を引き離してきた。


「はい、いまのがベースラインになります。よく覚えておいてください」


「は……はぁ……」


 疋田さんは持ってきたノートを開いてテーブルに並べる。ノートには数字とマス目が書かれている。どうやら百ます計算のシートらしい。


「さぁ! 百ます計算をしましょう! 制限時間内にたくさん解いた方が勝ちです!」


「勝ちって……景品はあるの?」


「そりゃもう、とっておきのミカンを用意してますよ」


 つまり景品は無し。これほど盛り上がらない百ます計算があるだろうか。いや、そもそも百ます計算で盛り上がることがないのだけど。


「ミカンね、了解」


「では……スタートです!」


 疋田さんの合図で縦横の数字を足し合わせては書いていく。繰り上がりが出てくるととても面倒くさい。


 5,10,12,7と答えを書き連ねていくと、単純作業だからなのか、ふつふつとストレスが蓄積されてきた気がする。


 3分もするとピピピとタイマーが鳴った。やっとこの単純作業から解放される。


 一息つく間もなく疋田さんは俺の肩を叩いて真正面を向かせる。


「では、ハグです」


 ぎゅっと疋田さんを抱き締める。疋田さんの腕が背中に回されると、何故だか少し暖かくなる。


「おっ……これは……確かに、ストレスがなくなりますね。また百ます計算ができそうです」


「結構この計算が苦痛なんだけど……」


「苦痛が大きければ大きいほどその後のハグが気持ち良くなるんですよ」


「サウナと水風呂みたいなものかな」


「そういうことです! ではもう一度……次は一時間にしましょうか」


「極端すぎない!?」


「そうですか? 一時間単純作業を続けたあとのハグ、これはさぞかし解放感に包まれるでしょう」


 それは多分ハグのおかげじゃなくて、単に百ます計算をやらなくて良くなるからストレスから解放されるんじゃないだろうか。


「まぁ……や、やる?」


「やりましょう! 百ます計算、全ページを埋めたらハグです!」


 地獄の百ます計算、始まる。


 ◆


 百ます計算の問題集は成人が本気で取り組んだところで一時間どころで終わる代物ではなかった。


 疋田さんは一心不乱に足し算をしているが、俺はもう半分で限界がやってきて手を止め、疋田さんの百ます計算を隣から眺めるのみだ。


 明らかにゾーンに入っている疋田さんは、口を半開きにしてよだれを垂らしながら百ます計算をしている。


 俺、この人と来週から付き合うの? なんて気持ちがないとは言えないが、これも疋田さんの個性だ。可愛いと思い込まなければ。


 出会った頃から少し伸びて毛先が胸くらいにきている黒髪が疋田さんの顔を隠してしまうので、集中しているところ申し訳ないと思いながら髪をかきあげて耳にかける。


 耳たぶには俺が年明けにプレゼントしたピアスがついていた。


「あれ……ピアス、つけてるんだ」


「あ……はい。勇気を出して穴、開けてみたんです。似合いますか?」


「うん。黒、似合うね」


 疋田さんは俺の方を見てニヘラと笑うとまた百ます計算に戻る。なんでこの人は最後までやりきろうと思えるのだろうか。


 人差し指を伸ばして疋田さんの頬を突いてみるも、形がひしゃげておちょぼ口になるだけで一向に手が止まらない。


 無視されているようで、段々とどうにかして振り向かせたくなってきた。


 女の子座りで投げ出されている足の裏をくすぐってみる。足は逃げるけれど反応は薄い。


 耳に息を吹きかけてみる。蚊を振り払うように手で払われた。寂しい。


 最後の手段。疋田さんの背後に回り込み、ぎゅっとハグをしてみる。


「ひゃっ! ……ま、まだですって」


 ペシペシと俺の腕を振り解こうとしているけれど構わずにそのまま腕に力を入れる。


 疋田さんはめげずに百ます計算を続けている。


 肩から顔を出して百ます計算の経過を見ると、全く足し算があっていない事に気付いた。


「これ……無茶苦茶じゃん……」


「さっ、佐竹さんがあんなことするから……集中できなくて……あぁ! ストレスが! 足し算すらまともにできずストレスがぁ!」


 疋田さんは俺に抱きしめられたまま発狂して頭を掻きむしる。


 どうやら疋田さんにはハグによるストレス軽減効果はないことが判明したのだった。

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