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疋田さんは配信が忙しいからなのか前ほど部屋に遊びに来なくなった。程よい距離と言えば聞こえはいいけれど脳内疋田さんの出現頻度が上がってしまうのでもっと会いたいなんて思い始めてしまった。
「共通ログイン基盤かぁ……有照君、どうかな?」
Edgeのオフィスでアプリチームの定例中、不意にリーダーの佐野さんが俺の名前を呼んだ。
「え? あ……なんですか?」
「聞いてなかった? EdgeSpaceのユーザー管理を今持ってる既存のユーザー基盤でやりたいんだってさ。今はグッズ通販くらいだから入り口は結構ゆるい作りなんだけど、EdgeSpace上で3Dライブをやるってなると負荷が問題になりそうなんだ。有照君、別の会社でユーザー管理系のお守りしてたって聞いたからさ。どうかな?」
聞き慣れない単語が出現したので理解が止まる。EdgeSpace? なにそれ美味しいの?
「EdgeSpaceって何でしたっけ……」
「有照君珍しいね。それを聞くってことは多分最初っから意識飛んでたと思うよ」
「あ……あはは……すみません」
佐野さんを始め、アプリチームの人がどっと笑う。
「MAPってプロジェクトで作ってるメタバース空間の名前がEdgeSpace。音楽ライブ用のゾーンがほぼ出来上がってきてて、そこのローンチが迫ってる。多分、初回は9期生の3Dお披露目ライブで使う予定。3月くらいかなぁ」
「なるほど……9期生の3Dお披露目ライブをMAPのメタバース空間でやると。で、当日のログイン負荷が高まるから事前に改修しておこうってことですかね」
「うん、正解。これまで通りに配信サイトでも流すから、どれだけ人がEdgeSpaceから見るのか、予測はガバガバだろうけど一応数字は企画部署から貰える予定。それが来たら僕と一緒に要件から検討しようか」
「はっ……はい! 分かりました!」
中々に重たそうなタスクではある。やりがいもあるのだろうけど忙しくなりそうだ。
◆
ミーティングが終わって席に戻っていると、安東さんが俺に向かって手を振ってきた。
自分を指差すと安東さんは笑顔で頷く。悪い話では無さそうだ。
ガラス張りのスケスケ社長室に入り扉を閉める。
「お疲れ様、有照君」
「お疲れさまです。何がありました?」
「ちょっとねぇ……」
安東さんは苦笑いして一つの表を見せてきた。
それは年末に協力して作った、えくすぷろぉらぁのタレントを中傷していた書き込みやアカウントの情報開示請求リストだ。
どうやらちょこちょこ返答が来ているらしい。リストの隣には別表で発信元IPアドレスの一覧と開示請求に回したであろう件数がまとめられていた。とあるIPアドレスからの中傷が明らかに多い。
「これ……例の組織的なやつですか?」
「そ。で、有照君。このIPアドレスって見覚えない?」
IPアドレスを覚えているなんてこと滅多にないだろう。いや、でも安東さんが指差している数字の羅列には見覚えがある。
「これ……FMCの社内ネットワークからインターネットに出ていくときのやつですね……何回も設定で書いてたので覚えてます」
「やっぱりね……他の人にも聞いてみたんだけど確信が持てないって言われちゃってね。有照君なら分かるかもって思ったんだけど……そうだったかぁ……」
安東さんはショックを隠せないようだ。元々は社外取締役を勤めていたし、関係は悪くなかったはず。そのFMCが裏切りのようなことをしていたのだから。
「いやでも……何でこんなことを?」
「南部さんからの嫌がらせかなって思ってる。件数が増えたのって私が社外取締役を辞めさせられたときからなのよねぇ……まぁ半ば喧嘩別れみたいな感じだったけどさぁ……」
「でも……遠回しじゃないですか? 安東さんに嫌がらせをしたいんですよね?」
「会社の利益の源泉はタレント。そのタレントに打撃を与えるってことは会社の利益に影響が出る。私なんてメンタルおばけなんだから今更SNSで叩かれたところでびくともしないもの」
「なるほど……これ……訴訟って感じですかね?」
「これだけじゃあまだ弱いわ。件数からして一人じゃない。転職してきた人からもそれっぽい人が出入りしてたって話も聞いてる。後は内部から証拠を抑えられればって感じなのよね……」
安東さんはちらっと俺を見てくる。
「あー……小田さんですか?」
パアッと顔を明るくして安東さんは頷く。
「そういうこと! 彼を使って証拠を押さえたいの。例のDMの件で私がカンカンに怒ってる。協力してくれたら不問にするし、雫花の親から手を回して転職先も斡旋する。それで交渉してみてくれない?」
「あ……はい。分かりました」
「それと……そろそろ就活だけどどうするの? 最終面接、やる?」
「え? ここでですか?」
「うん。うちは第一志望?」
「あ……はい。そうですね。推薦でいけるようなところはまぁ……いいかなって感じです」
「はい、合格。内定通知書が必要なら事務の人から出してもらうから教えてね。話は以上よ」
内定、軽っ!
「い、いいんですか?」
「いいわよ。あ、内定蹴るなら早めに教えてね。代わりの人……なんて中々いないだろうけど探さないとだから」
「あ……はい。大丈夫ですよ。そんなつもりはないですから。よろしくお願いします」
安東さんはニッコリと笑って俺の行く手を先回りし、社長室の扉を開けてくれたのだった。
◆
部屋を出て空き会議室に入るとすぐに小田さんに連絡する。
「小田さん、お疲れ様です」
「お疲れ様。どうしたの? 戻ってきてくれる気になった?」
「それは……さすがにですね」
苦笑いして答える。
「まだ結構辛いんですか?」
俺の質問に小田さんは苦しそうに笑って答える。
「悪化の一途って感じだねぇ……」
「その……もう一つ良くないお知らせがありまして……」
ここから声を潜める。
「実は前の最北南の件……南が病んじゃってて社長がカンカンなんです。もしかしたら……」
「えっ……えぇ!? それは困るよぉ」
困るなんてどの口で、とは思うけどぐっと堪える。
「もう一つ話があって……実は……FMCの南部さん直轄で嫌がらせを受けているらしいんです。うちの社長はその証拠を握ってくれたら小田さんの件は水に流すって言ってます」
「それは……南部さんを裏切れってこと?」
「はい。その後のことも保障するそうです。Edgeのバックには大宝寺グループもいる。何とでもなりますよ」
小田さんは暫く黙って考え込んでいる。
「……エンジニアチーム全員の再就職先を保証してくれるなら、いいよ」
この人はどこまでも周りの人を心配しているらしい。あくまで自分が仲間と認識した人に限るのだろうけど。
とはいえ、これは俺の権限では決めきれない。携帯をミュートして慌てて社長室に飛び込む。
「安東さん、エンジニアチーム全員の再就職先の斡旋でいいですか?」
「勿論よ」
安東さんは詳しく聞かずに承諾。その場でミュートを解除する。
「OK出ましたよ」
「うん、ありがとう。それじゃこっちも動くよ」
小田さんは仕事が忙しかったのか手短に済ませて電話を切る。
「単なる口約束なのにここまで動いてくれるのは、小田さんが佐竹君にも信頼を寄せてくれていることの証ね」
安東さんは画面を見ながらそう呟く。
「そうなんですか?」
「えぇ、ま、裏切らないように私も頑張るから。それじゃ、色々とありがとう」
安東さんに見送られ、二度目の社長室からの退室。
落ち着くと脳内疋田さんがひょこっと顔を出してくる。仕事に戻らなきゃ。




