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疋田さんの上に来て何分が経っただろう。たまに目を合わせるとどちらからともなく視線を逸らしては、苦し紛れに出る乾いた笑いが壁やカーテンに吸い込まれていく。
「さっ……佐竹さん!」
そんな拮抗状態を破ろうとしたのか、疋田さんは浅い呼吸の途中で声を裏返しながら呼んでくる。
「はっ……はい!」
「こっ、この姿勢は……その……シゲキックスマックスなのですが、オーソドックスな流れだとどうなるっくすなのでしょうか!?」
疋田さんは脳内にある、とある『ックス』で終わる単語が節々に漏れ出てきてしまっているようだ。
さすがに「勢いで来てみたけど分かりません」とは言えないのでじっと疋田さんの目を見る。
「あ……あの……何か言ってください……これは……今から行われるのは……タックスですか?」
「ぜっ……税金は関係ないかな」
「昨年はたくさん税金を納めましたよ……では、リラックス?」
「この状況で出来るかな……」
疋田さんは徐々に落ち着きを取り戻しつつあるようだけど、リラックスには程遠い。
「リナックス?」
「ごめん。林檎信者なんだ……」
「ではユニックス?」
「そういうことじゃなくて……詳しいんだね……」
「ユニセッ……いえ、これはまずいです」
むしろ正解な気がする。
「パラドックス?」
一応俺も乗っかってみる。
「今週、どこかで抜き打ちテストをしましょうか」
「ヒューマンビートボックス?」
「ブンブンハロー。ブンブン!」
疋田さんの小ボケに付き合っていると、腕が限界を迎えてぷるぷるしてきた。
中々のクオリティのボイパについ力が抜けてしまい、疋田さんに覆いかぶさる。顔はなんとかベッドに着地。
「あっ……ごめん!」
「ひっ……あっ……ひゃあ! はっ、はたけさん!」
サ行すら言えない間抜けな声が耳元で聞こえた。備え付けのボディーソープを使っているので同じ匂いがする。それなのに疋田さんからだけほんのりいい匂いもしている。
疋田さんはテンパりながら俺の背中に手を回してペシペシと叩いてきた。
「はっ……ほっ……あっ……ほあっ!」
疋田さんの間抜けな声に吹き出してしまう。力を入れて腕をもう一度突っ張る。
疋田さんの顔を見ると、驚いているというよりは苦しそうに口をパクパクとさせていた。その表情からして異常事態は確実。
慌ててベッドから降りて疋田さんの横に座りなおす。
「だっ……大丈夫!?」
「あっ……がっ……かこきゅ……」
どうやら過呼吸になってしまったらしい。慌てて対策をググる。変なサイトは避けて、まともなソースがトップにやってきたのでさすがDoodle先生だ。
袋は使わない。とにかく落ち着かせる。俺が慌てたら余計悪化するらしいので不安にさせないこと。俺が触れたことが原因かもしれないし、疋田さんの体を支えて椅子に座らせると、少し距離をおいて疋田さんに話しかける。
「疋田さん、大丈夫。ゆっくり吐いて……吸って……吐いて……吸って」
疋田さんは下を向いてゆっくりと呼吸を直し始める。垂れ下がった髪の毛の隙間からチラッと俺の方を見ると、腕を震わせながら俺に向かって手を伸ばしてきた。
「いいの?」
呼吸をゆっくり繰り返しながら疋田さんはコクコクと頷いたので手を繋ぐ。少しだけ震えがマシになったようだ。
一時間くらいは手を繋いでいたはず。
落ち着いてきたのか、疋田さんは手を離して下を向いたまま立ち上がる。
「も……もう大丈夫です。ありがとうございます」
「あ……うん」
そのまま枕を持って部屋の隅に行き座り込んでしまった。
やりすぎてしまったと反省しきり。声もかけられない気まずい空間が続く。
「あ……その……佐竹さん。聞こえますか? オーバー」
枕に顔を埋めたまま話しているので、疋田さんのこもった声が聞こえる。少しは冗談を言う余裕が出てきたようで何よりだ。
「うん。オーバー」
「その……今のは……すみませんでした。口だけ大魔神で……オーバー……」
部屋に入ってきたときのテンションを考えると、ハマの大魔神のフォークボール顔負けの落差だ。
「俺こそ……ごめん……こんなのトラウマになるよね……オーバー」
「いっ、いえ! 佐竹さんが嫌だったとかそういうことではなく……その……むしろ嬉しかったというか……ハッピーだったというか……今日こそはというか……オーバー」
変なところで球を俺に回さないでほしい。
「あー……その……これって……その……ど、どうする? オーバー」
「変なところで切って球を回さないでください。オーバー」
疋田さんは無情に俺の微妙なニュアンスの質問をそっくりそのまま打ち返してくる。
「その……つまり……これって……付き合う……的な?」
疋田さんは何も返さない。
ずっと待っていたけど何も言わないことに違和感を覚えて、やっと「オーバー」と言い忘れていた事に気づく。
「オーバー」
「それは……佐竹さん、隣に来てください。次は大丈夫ですから。オーバー」
「お……オーバー」
疋田さんのリクエストに答え、隣に行って部屋の壁にもたれかかるように座る。
隣の疋田さんは枕に顔を埋めたまま、ゆっくりと話し始める。
「その……クリスマスから変にこじれて……すみません。本当……口だけで。こんな思わせぶりメンヘラクソ雑魚メンタルムーブをしていたら嫌われて当然だと思います。私は佐竹さんに甘えているんです。どれだけやらかしても笑って許してくれると甘えて、好き放題やっちゃってるんですよ」
疋田さんのネガティブスイッチがオン。あれこれ仕掛けてきておいていざとなったら逃げるのは確かに非がないとは言えないと思わなくはないけど、過呼吸を起こすほど緊張させてしまった俺の方が責任割合は大きいだろう。
「そんなこと――」
「まだオーバーと言っていません」
「あ……ごめん」
まだ疋田さんのターンらしい。
「オーバーです」
特に言いたいことはなかったらしい。
「あ……うん。むしろ変に緊張させた俺の方が悪いから……本当、気にしないでよ……オーバー」
疋田さんからの交信が途絶えた。いくら待っても何も返ってこない。
さっきから鼻をすすっているし枕は涙でしっかりと濡れているのだろう。
「疋田さん……その……頭撫でても良い?」
「ダメです」
オーバーを待たずに断られる。
「ぎゅっとしてください。横からです。そして私の首に顔を埋めて疋田臭をくんかくんかしてください」
「だっ……大丈夫なの? さっきみたいに――」
「大丈夫ですから」
食い気味にそう言われたので、疋田さんのオーダーを即座にそっくりそのまま実行する。
「んっ……その……これは……いいです。ケアルガくらい回復します」
「ドラクエで言うと……ベホマ?」
「ベホマズンです。諸説ありますが」
いずれにしても全回復したらしい。HPが満タンになった疋田さんは体を俺の方に向ける。
「その……メンタルが全回復したのでぶっ込みます。今時点でいいので、好きとか付き合いたいとかじゃなくてもいいので、もし周りにいる女性の中で一番良いなって思っているのが私であればこのままもう一度ぎゅっとしてください。他に意中の人がいるなら、このまま投げ飛ばしてください。豆腐の角に頭をぶつけてこんなキモいことを言ってしまった記憶を無くせるくらい、思いっきり」
疋田さんが俺の耳元で声を振り絞る。
一瞬だけちらついたのは雫花の顔。疋田さんもそれを念頭において「好きとか付き合いたいとかじゃなくてもいい」と言ったのだろう。
そもそも雫花は俺のことが好きなのだろうか。クリスマスの感じからしてそうなのかもしれないけれど、いまいち俺に懐いてくれた心当たりがない。
就活コンサルの言葉がチラつく。就活と恋愛は同じ。なぜその相手でないといけないのか伝えることが大事だと。
そもそも雫花が俺のことが好きであるという前提が既に思い込みでキモいのかもしれないけど。
何にせよ、この二択は間違える訳にはいかない。雫花は雫花で可愛い。けれど一番気になっているのは疋田さんなのだから。
恐る恐る疋田さんの背中に手を回してゆっくりとさすると、鼻から出た息が俺の首筋にかかる。
「そうなんですね……嬉しいです。やっぱりこういう大人な進め方はビギナーな私達には合わないと思いました。時間をかけて、順番通りに進めるべきだと。あ……その……佐竹さんにその気があれば……ですが」
疋田さんは一気にまくしてて黙り込む。
俺から何か声をかけないといけないと気づいたのは暫く経ってから。
「ええと……気になってるし……その気はあるけど……あぁ……えぇと……同じこと聞いてもいい?」
「合点承知のすけです!」
そう言って疋田さんはカプリと俺の耳たぶを甘噛してきた。
「ひゃっ!」
「耳、弱いんすか?」
俺の驚いた声が面白かったのか、ケタケタと笑いながら聞いてくる。
疋田さんは不意打ちの仕返しを食らわないようにしたのか、壁際から素早くベッドに移動して腰掛けていた。
「いきなりだったから……今のって解釈はどうすればいいの?」
ベッドに足を組んで腰掛けた疋田さんは憑き物が取れたように晴れやかに笑っている。
「お任せしますよ。これは高度な駆け引きです。これから佐竹さんは私にガチ恋しちゃうんです。ヤケドしても知りませんよぉ? 帰ったらプランを練ります。待っててくださいね」
そう言ってウィンクをしながら手で銃を撃つ素振りを見せる。その所作はだいぶおばさんっぽいのだがそれは言わないでおく。
何にせよ抱きしめる以上の事をしている時点で解釈は一通りしかないので駆け引きもなにもないのだけど、疋田さんならそれでいいと思えるのだった。
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