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雫花は配信があるため打ち合わせを中座。雫花からデータ分析の詳細を聞くことが出来ないので俺も帰宅となった。
自宅マンションに着いて、6階でエレベータを降りると、真っ黒な格好をした人が俺の部屋の前に膝を抱えて座り込んでいた。下を向いているが誰なのかは一目瞭然。
「疋田さん、こんにちは」
「あ……ちわっす……」
疋田さんは顔をあげると元気のない声で挨拶をしてくる。表情も暗い。もう安東さんから厳しい話があったようだ。
少し胸が痛むが、俺が今日の話に混ざろうとそうでなかろうといずれはこうなっていたし、なんなら俺がEdgeに入らなくてもこの日は来ていたはず。だから俺は罪悪感を持たず、粛々と話を聞けばいいだけ、と自分に言い聞かせる。
「そこ、俺の部屋だよ」
「知ってますよ。日が出ている時間に外にずっといるのは辛かったので助かりました。宅配業者の兄ちゃんにも変な目で見られましたよ」
エレベータの目の前に部屋があるので人の行き来はそれなりにある場所だろう。
「部屋、締め出されたの?」
「友達なし彼氏なしのボッチ一人暮らしで誰に締め出されるんですか。相談っすよ」
疋田さんはその場で立ち上がって尻についた砂埃を払うと俺の部屋のドアノブを指差す。
「ま、上がってよ」
「あざっす」
疋田さんはかなり猫背気味に俺の後ろをついてくる。扉を閉めると淀んだ空気が部屋中に満ちた。部屋の湿度も急に上がってきた気がする。
定位置のテーブルの前に座ると、疋田さんは「はぁ……」と特大のため息を吐いた。
「珍しいね。日が出てる時間にうろつくなんて」
日没時間を調べて出かけるくらいの人がまだ夕焼けが見られないような時間に出てくるのだから、安東さんの言葉は相当効いたのだろう。
「いやぁ……そっすよぉ……はぁ……」
普段は飄々としている疋田さんが落ち込んでいるのは中々に見ていられない光景だ。グッと伸びをした疋田さんは首を左右に振ってポキポキと音を鳴らすといつもの無感情な表情に戻る。
「時に佐竹さん」
「何?」
「佐竹さんには意中の相手やお付き合いしている特定の方はいますか?」
「いや……いないけど……」
「では、ベッドに上がってください」
「え?」
疋田さん、かなりやけくそになっているようだ。何をするのか分からず俺が戸惑っていると一人で立ち上がり、ベッドを指差す。
「今日の私はヘラヘラの実を食べたメンヘラヘラの黄金のヘラなんです。よって超ウルトラハイパーマキシマム最強イケメン全肯定理解のある彼クンを求めているのですが、そんな人は世にいないので佐竹さんで代替しようと思った次第です」
酷い言われようだが、疋田さんのことなので照れ隠しに言っているだけと脳内変換をかける。
「お、黄金のヘラ? ちなみに……変な事はしないよね?」
「性的なことは一切しませんから安心してください。ABCで言うならAすらするつもりはありません。流血も、暴行もありません。極めて清純で、道徳的な行いだけです」
「それなら……」
清純で道徳的な行いというのが具体的に何かは分かないけれど了承する。
ベッドに上がって座ると疋田さんは俺に壁に背をつけて足を開けと指示を出してきた。
疋田さんは「失礼します」と言って俺の足の間に後ろ向きで入ってくる。そのまま俺の腕を自分の体に巻き付けることで、理解のある彼くんによって背後から抱きしめられている疋田さんが完成した。
「こっ……これはさすがに……」
すぐ近くに疋田さんの顔がある。風呂も済ませているのか桃のような甘い匂いが鼻をくすぐる。
全くもって清純で道徳的な行いではない。本人はそのつもりかもしれないが、この体勢はかなり不純。生殺しという意味では非道徳的でもある。
「そういえば、佐竹さんってヘラの発音おかしくないすか? 普通、『エラ』と同じですよね? 『鱈』と同じ発音はちょいとセンシティブじゃないですか?」
俺の戸惑いを無視して、疋田さんは雑談を始める。
「へ……ヘラはヘラでしょ?」
「それ、ちょっとミスったらあれっすよ。フェ――」
「言わなくていいから! そんな言い間違えることないし!」
「そっすか……」
疋田さんはしばらく黙り込む。早まっている心音が伝わっていないかという緊張で更にドキドキしてくる。
「……フエラムネ」
疋田さんはまだヘラの発音を気にしているらしい。
「下の階、帰る?」
「アイスブレイクっすよ。本題の前に小粋な話をして緊張をほぐすんです」
「小粋な話にこんな下ネタは入らないと思うけど……」
「テーマは言語学ですよ。方言による発音の違いですから。これは高尚な話です」
ヘラヘラの実を食べた疋田さんはいつも以上に面倒だ。
「じゃ緊張はほぐれたかな? 本題どうぞ」
「はっ……はいっす」
疋田さんはガチガチに緊張しだして体を縮こまらせる。アイスブレイクは無意味だったらしい。
しばらく「あー」とか「うー」とか言って一人だ悩んだ後、疋田さんが話し始める。
「そのですねぇ……バイト、クビになりそうなんですよ。確定じゃないんですけど、今後次第って感じで」
今日の話だとクビはまだ確定ではない。それは疋田さんも認識している。
雫花と俺で最北南のチャンネル登録者の傾向を分析して、分析結果を元に配信や企画にテコ入れする。それをしばらく試して改善が見られなければ最終的には……という話だった。
疋田さんはそれでもかなり落ち込んでいる様子だ。
「チャットのやつ?」
「そっす」
「次のバイト探したらいいんじゃないの?」
「今のバイト……思い入れが強いんすよ」
「なら……続けられる方法を探したらいいのかな」
「それが難しいんすよねぇ……あ、佐竹さん。面倒なことを言いますが、今日は解決策ではなく共感を求めています。この件は今日明日でどうにかなることではないので。ですので共感してください」
「きょっ……共感?」
「そうです。こうやって……よしよし、と」
疋田さんはそう言いながら俺の右手を掴み自分の頭に持っていく。
要は全肯定をしろとのことらしい。
そんな日もあるよなぁ、と思いながら疋田さんの頭を撫でる。細い髪の毛なので手触りが良い。
「その調子です。あぁ〜……いいですよぉ〜。HPが回復してきました」
「今何割くらい?」
「2割です」
「HPどれだけあるの……」
「『いのちのきのみ』でドーピングしてるんで」
「ドラクエ派?」
「はいっす」
「結婚はどっちとする?」
手を止めて尋ねる。ビアンカ or フローラ。永遠に人間を二分し続ける、選択肢すら出さなくても伝わる二択。
「断然フローラっすね」
「よろしい」
もう一度頭を撫でると疋田さんの鼻から勢いよく出てきた息が左腕にかかる。
「う゛っ……ヘラヘラの実がっ……」
疋田さんは中二病のような事を言いながら俺の左腕に顔を擦り付けてくる。
「重症だね……」
何度も頭をなでていると、疋田さんは鼻を大きくすすり始める。
「グスッ……いや……ほんっ……と……なんで……私……あんなとこにいるんだろう……」
ヘラヘラの実の能力が急に発現。涙声になってきたので頭を撫でていた手を止める。
どうやらやっとアイスブレイクが終わったようだ。
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