76 忘れ去られた婚約者
夕闇に紛れて行動するのはもう慣れたものだ。騎士学校時代、何度も野営を経験していて良かったと思ったのは今になってからだろう。貴族令息の嗜み程度と思っていた者達が多い中、熱血的に地べたを這いつくばる様な騎士道を解いてくれた教官に心から感謝している。また会って礼を言えれば良いのだが、どうやら今回ばかりは帰り道の造られていない強化訓練の様で、誰かの手を借りなければ生きてさえ帰れはしない……
感傷に浸る時間さえ惜しいのだが、少しの空白時間を突いて自分の心が国へ帰れと迫ってくる様で、イライラする。
国を捨てる覚悟も、自分の命さえも既に手元には無い…とうに離れ離れになってしまった愛しい者に委ねてしまおうと思ってここにいるのに。
もう一度、ただ、もう一度会ってから決意しようと思っている。命の左右さえも、その者に委ねるチャンスさえ有れば幾らでも差し出すのに……今はまだ、人目につかない暗闇で合図を待つしかない…自分の身がもどかしい……!
「よ!旦那、相変わらず暗い顔してますなぁ~」
暗い顔、と揶揄される程、考えに没頭していた事に反省を覚えつつ、明るく声をかけて来た者に目を向けた。
「伝令は?」
「まだまだでしょうね…」
明るい声がスッと沈む。この男、付き合った日は浅いが、なかなかに気配を消す事が上手い男だ。こうやって森の奥や洞穴、民家に潜んでいる仲間達との渡りをつけてくれている。初めて会った時から身なりの良い格好をしていたわけではない為、身分は決して高くない者と思われる。
が、それを言ったらこちらも同じ事だ。国に全てを置いていく覚悟をして来たのだから。それに今の自分の身を包んでいるものは、高価な絹の衣類ではない。市中にいる労働者共と同じ様な作業着だ。森の中に潜んでいるので絹の衣などなんの役にも立たないからだ。
もう何日目になるだろうか…食糧には困りはしないし、川も泉もあって身も清められる。住めば都とばかりに森での生活も定着しつつある。
「ここからまだ兵が動かないんすよ。本格的にガーナードから聖女達が来るってんで、城の守りを固めている様でしてね…こっちの勢力は続々と固めてますんで、心配はないんすけど、早いとこどうにかならんもんですかね?」
良い仕事をするが、少しばかり短気な男の様だ。
「焦りは禁物。事を仕損じるぞ?まずは敵をよく見なければなるまい?」
「ちぇっ…旦那も他の旦那達と同じ事言うんすね?何箇所でそれを聞いたか……」
ブチブチと不平を言っている男は数カ所で同じ様な短気を起こしていたらしい…
「ふふふ……お前はよっぽどガーナードに恩があるのだな…?」
思わず可笑しくなってそう聞いた。
「へい!聞いて下さいよ!!俺の聖女様の話を!」
こちらは詳しく話せと言ってはいないのだが、男は構わず話し出す……




