始
Rほどではないですが
卑猥な言葉があるので、苦手な人は注意してください
とんとん。
戸を叩く音が聞こえたので、私は鍋を掻き回していた手を止めました。
こんな時間に誰だろう? 「は、はい……」と返事をして、戸を少しだけ開けます。
「こんばんは」
そう夜の挨拶をした来訪者は、頭巾を被った青年でした。背が高く、世の女子が見たら頬を染めるのではないかと思うほど、目鼻の整った美しい顔立ちをしていました。
「あ、あの……何か、ご用ですか?」
知らない人と話すのは久しぶりなので、緊張で声が上擦ってしまいました。
「旅の者ですが、道に迷ってしまい、いつの間にか夜に……無理なこととはわかっていますが、一晩泊めていただけないでしょうか?」
真っ赤になった頬と指先。寒さで血の気を失った唇。長時間、山を彷徨っていたことが痛いほどにわかります。再び寒空の下に突き返すなんて出来ません。
「こ、こんな荒屋でよければ、どうぞ……」
「あ、ありがとうございます!!」
火の揺れる囲炉裏の側に座るように促し、自在鉤に吊るされた鍋から、粥を二つの椀に盛りつけ、一つを青年に渡します。
「そんな、食事まで……悪いですよ!」
そう断るも、正直な腹の虫が喜びの声を上げたので、青年は赤面しました。
「き、気にしないでください。お、多く作りすぎて、むしろ困っていたんです」
「すみません……それじゃあ、頂きます」
刻んだ香草、一つ一つ気持ち込めてこねた団子が入った特製の粥。気に入ってくれるでしょうか?
「美味しいです! 冷え切った口と体に染み渡ります
!」
私の心配は杞憂だったようで、青年はあっという間に粥を平げ、匙を置きました。
「食事まででごちそうになってしまい、本当にありがとうございました。
いやぁ、日が暮れた時はどうしようって、不安で泣いてしまいましたよ。この山には狼や獣がいるでしょうし……」
「お、狼は見たことないですが、山には神様がいますよ。ーーー神様に仕える神使もたくさん」
「神様……ですか」
麓に山の神を祀る大きな社があることを伝えました。
「へぇ……それは興味深いですね。行ってみるとしようかなーーーーお前を喰った後で!!」
突如、青年は狂気に満ちた笑みを浮かべましたが、すぐにそれは消えました。
脂汗がぽつりぽつり浮かび、お腹を押さえて、床をのたうちまわります。
頭巾が外れ、長い灰色の髪、犬を連想させる三角の耳が露わになりました。
「よかった、やっと効いた」
そう呟くと、青年は怒りと困惑で滲んだ瞳で睨んできました。
「き、貴様……私に……何を……した……?」
「何って、食事をごちそうしただけじゃないですか。犬には毒のーーネギ入り粥を」
「そ、そんな……あの粥……からは……ネギの匂いなど……しなかった……はず……」
「実は団子の中に、細かく刻んだネギを入れていたんです。匂いは香り付けの香草で隠しました。ああ、あのお方の忠告がなければ、今頃、私はあなたの胃袋の中でしたね」
「あ、あの方……? ば、馬鹿な……私の計画は……誰も知らぬはずな、のに……」
「言ったでしょう? この山には神様がいるって」
懐から、あの方からもらったものを取り出して見せます。
それは大きな葉っぱ。
「狼、来たり。そなたを喰おうと企む。気をつけよ」
と文字が刻まれています。
「ここはね、山そのものが神様として、崇められているんです。だから、山でのあなたの行動は、あの方には丸見えなんです」
先程の粥と胃液が混ざったものが吐き出され、床を汚します。ああ、後で掃除をしないと。
彼の耳に顔を近づけ、聞こえるように声を張り上げます。
「苦しい? ねぇ、どんな気持ち? 殺そうとした者に殺される気分は?」
「…………がっ」
青年の姿が歪み、体長二メートルもある狼さんが現れました。
普通なら逃げるべきですが、死にかけている狼さんなんて大きな毛玉同然です。恐怖よりも可愛く思えます。
「ねぇ、これなんだかわかります? 解毒剤です」
懐から出してみせたのは、小さな壺。中には、狼さんの苦しみを解放させる薬が入っています。
「私ね、ワンちゃんが欲しいと思っていたの。私の言うことを何でも聞くお利口なワンチャンが。
ねぇ、どっちがいい? このまま無様に死ぬか、私のワンチャンになるか」
狼さんは血走り、涙が滲む目で食い入るように壺を見つめ、空気を求める魚のように口をパクパクさせます。
「……な……なる……」
「嬉しい!! じゃあ、まず芸の一つでもしてもらいましょうか。出来たら、ご褒美として、薬あげますね」
何をしてもらおうかな。そうだ! あれを披露してもらいましょっ!
「ーーチンチン、してください」
「…………?!」
きっと今、私、とびっきりの笑顔をしていることでしょう。
「何度も言わせないでください。チンチンですよ。それとも、ワンちゃんになるのやめます?」
中々動きを見せないのでそう言うと、狼さんは歯を食いしばり、ゆらゆらと起き上がりました。切れたのか、歯肉から垂れた血が床を汚します。
「……く、っそ」
両手を前に伸ばし、後ろの足で立つ。
固く閉じる瞳。小刻み震えるふぐり。
ああ、可愛らしいを通り過ぎて、愛らしいこと。
「も、もう…満足…し…た…だろ…」
「そうですね。はい、ご褒美ですよ」
壺を傾け、薬を床に零します。
「どうぞ」とにっこり微笑むと、狼さんは私を睨みつけましたが、這いつくばり、薬を舐めました。これぞ、絶景です。
「く……そ……」
一滴残らず薬を舐め取った狼は、糸が切れた操り人形の如く、その場で倒れました。
少なくとも、死のしがらみから解放されたので安心したのでしょう。
「おやすみなさい。私の可愛いワンちゃん」
狼さんの頭を撫でた後、私は掃除に取り掛かるのでした。