絡新婦
都会では季節感が薄くなると僕は思う。
マンションから見える景色はビルばかりで年中変わりない。
とは言ってもそれは室内のことだけで、一歩外に出ると8月の猛暑は続いている。
外に出ても特にすることはなく、どうしても部屋に籠もりがちになってしまう。
昔から僕も暑さはどうも苦手なのだ。
ベッドに寝転がり天井を見つめながら、僕は10年前のことを思い出していた。
10年前、社会人になって始めての盆休み。
実家に帰省していた僕は、ちょっとした気まぐれで近所の山に登ろうと思った。
本格的な山ではないし、軽装でも大丈夫。
そんなふうに軽く考えてたけど数時間後には考えが甘かったと反省することになる。
子供の頃から遊び慣れていたはずなのに完全に迷ってしまった。
道はなくなり、草が生い茂り、どこまで行っても同じような景色が続く。
連絡をとろうにも、スマホのアンテナは圏外になっている。
そうするうち少しずつ日は沈んでいき、あたりが暗くなってきて僕は焦った。
近所の山で遭難なんてとんだ恥さらしだ。
さらに歩き続けると遠くから川らしき水音が聞こえてきた。
川下にむかって歩いていけばいつか麓に辿りつくはず、僕は音のする方角に向かった。
急斜面を這い登っていくと水音はだんだんと近づいてくる。
視界が開けると。そこには垂直に流れ落ちる滝があった。
夕陽に映えるその滝はまるで絵画のように幻想的で、僕はその景色にみとれた。
しばらくして僕は滝壺のほとりに人がいることに気づいた。
白い服を着た長い髪の女性は岩の上に腰掛けて滝の流れを見ている
助かった。彼女に下山する道を教えてもらおう。
そう考えた僕は足を滑らさないよう、用心深く滝壺へと降りていった。
僕は彼女の側に近づき、おずおずと声をかける。
「あのお、すいません。道に迷ってしまって・・・。」
女性は振り返り僕を見た。
透き通るような白い肌に朱色の唇
美しいし、清純に見えるんだけどなにか妖しげなものを感じる。
それが僕の最初の印象だった。
女性は僕に向かって言った。
「ここは隠れ滝ですよ。さあ、早く立ち去りなさい。」
隠れ滝?そんな滝の名前は聞いたことがない。
僕が不思議そうな顔をしていると、彼女は僕の方に近づいてきた。
そして、左前方の茂みを指差す。
「ここを真っ直ぐに行くと、やがて山道にでます。その山道を下っていくと人里にでられますから。」
僕は彼女に礼を言う。
「ありがとうございます。助かりました。あなたはこの辺りに住んでおられるのですか。」
「ええ、ずっと以前から・・・・・。」
「ぼくは山の麓に住んでいたんですが、こんな滝があるなんて知りませんでした。」
そういうと彼女は少し笑った。
「忘れてしまったのですね。あなたは以前にもこの滝にきたことがありますよ。」
僕は考え込んだ。そんな記憶がないのだ。
「すいません。覚えてないんです。そのときにあなたにお会いしたんでしょうか。」
彼女は少し寂しそうな表情になる。
「はい。あなたはまだ幼い子供だったから。」
「覚えてなくてすいません。」
「いいんですよ。でも、一つ約束してください。」
そう言うと彼女は左手を僕の頬にそっと当てた。
「私に出会ったこと、この滝のことは絶対他の人に話さないでくださいね。」
彼女の掌からひんやりと冷たい感触が伝わってくる。
僕の心臓の鼓動が早まった。
この話は、僕の知る地元の伝承と同じだ。
ある男が滝壺で斧を落とした。
すると水の中から女性が現れ、男に斧を返してくれた。
その女性は男に自分の姿を見たことを誰にも話さないようにと言われた。
しかし、男はその話を酒の勢いで話してしまい、そのまま眠りについて死んでしまった。
でも、僕の心臓の鼓動が早まったのは死の恐怖からじゃない。
「話すわけありません。でも、お願いがあります。また会ってくれますか。」
その言葉に彼女は少し驚いた様子を見せた。
「あなたはまだ若い。今日のことは忘れたほうが良いのです。」
「いやです。僕はあなたと会いたい。それだけです。」
最後に彼女はとうとう根負けして、再び会うことを約束してくれた。
次の日、僕は滝を探して山に登ったがどうしても辿り着けなかった。
同じ道を通っていたはずなのに、だ。
僕はあの日現世とあの世の狭間にある、存在しない滝に迷い込んだ。
そこで、僕を哀れに思った彼女が現世に送り返してくれたのだと思う。
あの日から彼女のことが忘れられない。
なんとかして再び彼女に会えないか。
もう一度会えるなら死んでもいい。
僕は図書館に通い、各地の類似の伝承について調べた。
その結果、僕の話と同じような伝承があることがわかった。
絡新婦、もしくは雪女。
彼女たちの伝説は悲劇的なものが多い。
ある時は化物として退治される。
ある時は秘密を漏らしてしまい男が死んでしまう。
男が死なない時は彼女が去っていく。
これは鶴の恩返しも同じだ。
悲劇はいつも男の裏切りが原因なのだ。
彼女たちは嫉妬深い。
それは愛の重さの裏返しだと僕は思う。
「コーヒー飲まれますか。」
キッチンの方から妻の声がした。
彼女の声で僕は現実に引き戻された。
「ありがとう、お願いするよ。」
僕は起き上がり、ダイニングに向かった。
妻の結衣とは7年前に知り合った。
生まれて初めて上京し、道に迷っていた彼女を助けたのがきっかけだ。
住むところが決まっていないという彼女をマンションに同居させて、2年の同棲のあと結婚した。
それから5年経ったが僕はいまでも真剣に結衣を愛している。
結衣も僕を愛してくれている。
欠点といえば、嫉妬深いところであろうか。
そんな心配は全く必要ないのに。
僕は結衣に生涯隠し事をすることがないだろう。
もしも結衣があの日のことを聞けば、僕は素直に話すだろう。
そして結衣が僕を殺すのならば、僕は喜んで受け入れるつもりだ。
あの日から僕の心は絡新婦の蜘蛛の巣に絡まったままなのだから。
絡新婦の話は過去編、未来編くらいまであるのですが、どうしてもホラー色が出ないんです。
それは多分、彼女たちのことが好きだから。
困ったものです・・・・。




