冒険者の記録 五話 後編
こんにちは。
ルリことレティシア、元ルーン公爵令嬢です。
リオが予定よりも早く仕事から帰ってきました。
クロと手合わせしているところを見つかってしまいリオは不機嫌です。
家でゆっくり話すそうですが……。何を話すんでしょうか?
たぶん、いえ確実にリオとクロは知り合いみたいです。
家に帰りクロを客室に案内し、二人のためにお茶を用意しました。そっとお茶を二人の前に置き退室するつもりでした。
「座って」
颯爽と立ち去りたかったのですが、涼しげな笑顔のリオに止められ撤退失敗です。
二人の時間を邪魔する気はありませんのに……。
私にはリオの全てが知りたいという欲はありません。人生は知らなければ幸せなことばかりです。
村の女性達のように恋人の全てが知りたいなんて欠片も思ってません。現実を知らず、夢物語を思い浮かべて過ごせるなんて羨ましく思う気持ちも多少いえ、物凄く多々ありますが……。
私のことなど気にせず二人で懐かしい話に盛り上がってくださっていいのに……。
遠い母国にいらっしゃる優しい声の持ち主を思い浮かべます。
グランド様、私はどうすればいいんでしょうか…。
グランド様のようにリオの機嫌を直すなど私にはできません。
クロは不機嫌なリオなど気にも止めずに穏やかな表情でお茶を飲んでいます。
記憶喪失の時から思っていましたが、精神力が強いですわ。羨ましい……。
「落ち着け。レティが怖がってる。様子を見に来ただけで二人に危害を加えるつもりはない。マールならわかっているだろう?」
ぼんやりしていたためクロの呟きはうまく聞き取れませんでしたが穏やかなお顔のまま。
対するリオは貴族モードを纏いつつも怒りが滲み出ています。
どうしましたの!?
リオはお説教ばかりですが、短気ではありません。リオが怒ったのは片手の数ほどしか記憶にありませんわ……。エイベルはよく怒ってましたが……。上位貴族は感情も心も隠して微笑むのが常ですもの。エイベルはポンコツですから仕方ありませんわ。
「俺をシアから引き離して、騙して近づくのはいかがなものかと?ギルドの依頼も手を回しましたよね?わざわざ集めるわりに段取り悪く、内容が簡単なのに拘束時間が長く疑問だったんです」
「それはカトリーヌだ。伝えておくよ」
「まさかレート嬢と手を組まれるとは予想外でした。ご成婚おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。殿下」
冷たいリオの声とクロの柔らかな声が紡ぐ言葉。
物凄く嫌な予感がします。
今、クロの口から紡がれた名前は……。
カトリーヌお姉様!?
待ってくださいませ!!殿下って聞こえましたわ。
嘘!?
いえ、嘘か真かなど気にしている場合ではありませんわ。
逃げないといけませんわ。
リオ達に見つかった時にここを発つべきでしたわ。――――――私は甘えるべきではありませんでした。
ギルドにもリオにも……。
とはいえここでの日々は泣きたくなるほど幸せなもの。またやり直しがあっても、再び会えた時に抱き締めてくれるリオの腕をほどけないと思います。
「幸せでしたわ」
あの時に決めましたわ。胸が痛いのはこれからの悲劇を思えば些細なこと。
充分幸せでしたわ。ここでリオの名を呼び感謝を告げれば悲劇の始まり。――――悲劇を回避する方法は一つだけ。
そうです。私が消えればリオも裁かれませんわ。
公爵家を裁くには正当な手続きがいります。
当事者がいなけれなば裁判はできません。とくにフラン王国に貢献し王族に忠実な上位貴族は特別ですわ。ですから、かくまった罪にも問えませんわ。
「ディーネ」
ディーネに目眩ましを頼み、部屋を出ようとすると腕を捕まれています。掴まれる腕を振りほどきたくありません。ですがそれは許されません。腕を強い力で引かれ、勢いよくリオの胸に頭をぶつけました。逃げようにも腰にがっしりと腕を回され、非常にまずい状況ですわ。いつの間にか立ち上がり私を捕えたリオの動きの速さに驚いている場合ではもちろんありませんわ。
「レティを捕らえるつもりはないよ。顔を見たかっただけだから、」
クロではなく座ったままの殿下の聞き覚えのあるお声……。言葉巧みに勘違いさせたり誤魔化したりするような言い回しは使われてません。顔を上げれば見覚えのある感情を見せない瞳が私の心を探るように見つめているかもしれません。
「私はレティを決して傷つけないよ。信じてもらえなくて当然でもレティだけは……」
「他に気配はないから大丈夫だ。シアは絶対に守るから安心して」
肩に乗ったディーネが優しく頬を舐めました。頬に触れる冷たい感覚に焦る気持ちが和らいでいく。冷静にならないといけません。忘れていた呼吸を思い出しゆっくりと息を吸う。優しく背中を叩く音に合わせてゆっくりと息を吐く。何度か繰り返すと胸の痛みが消えました。
顔を上げると優しい銀色の瞳と目が合いました。大好きな優しく笑う顔に強張っていた体の力が抜けそうになりましたが覚えのある気配に気を引き締め令嬢モードを纏います。
リオに令嬢モードで微笑み、そっと胸を押すと腰を抱く腕がほどかれました。
逃げるのは今は諦め、姿勢を正して扉の近くの下座の席に座ります。膝の上に置いた手に隣に座ったリオの大きくあたたかい手が重なりました。いつも力をくれる、守ってくれる優しい手。
リオがいれば何があっても大丈夫だと私はよく知ってます。
いざとなれば、私が脅したと証言すればいいだけでしょう。
「失礼しました。今までの無礼をお許しください」
「礼も謝罪もはいらないよ。クロとして接してもらいたいんだけど」
頭を下げようとするのを制されました。そしてありえない要求に戸惑いを隠して微笑みます。
「ご容赦ください」
「仕方ない。わかったよ。気づかないままでいてほしかったんだけど仕方ないか」
殿下の顔つきが変わりました。さらによく知る殿下の雰囲気ですわ。穏やかな顔で自然に空気を支配される……王族モードですわ。
「まずは謝罪と感謝をさせてほしい。私達が不甲斐ないばかりに君から大事な物をたくさん奪い、重荷を背負わせてごめん。おかげで国は守られたよ」
頭を下げる殿下に驚き息を飲みました。うっかり令嬢モードが剥がれましたわ。久々の令嬢モードは……そんなことはどうでもいいですわ。
「殿下、お顔を上げてください。私は当然のことをしたまでです。私の対処が遅く、陛下をはじめ皆様の御身を危険にあわせて申しわけありませんでした。そしてルーン公爵家を罪に問わないでいただき心から感謝申し上げます」
「頭を上げて。君は謝罪する必要はない。お願いだから顔をあげて。レティが自分を責める必要はない」
殿下の懇願に負け顔を上げると金の瞳と目が合いました。感情を隠した金の瞳。この殿下の心意を読み取るのは私には不可能ですわ。
「レティは行方不明のままだけど、どうしたい?」
穏やかな声の殿下が2枚のメダルを机の上に起きました。1枚はよく見覚えのあるもの。刻まれている名前はレティシア・ルーン。国を出るときに捨てた名前ですわ。
もう1枚は名前を刻んでいないもの。
「ルーン公爵令嬢として帰ってきてもいい。新しい戸籍を用意してもいい」
殿下の金の瞳にじっくりと見つめられます。心を見透かされそうになり、不敬とわかっていても視線を逸らしました。隣に座る優しく手を握るリオは何も言わずに優しい眼差しです。
リオは好きにしろって言うでしょう。
「ルーン公爵令嬢として恥じることはしていないんだろう」
「誇りを忘れてはいけません」
「いってらっしゃいませ、姉様」
思い浮かぶのはお父様、お母様、エディの顔。
美しい青い花が咲き澄んだ泉のあるルーン領。
最善はわかっております。
でもこの決断は胸が痛みます。ルーン公爵家を本当に捨てる覚悟を決めないといけません。
二度と顔を見て話すことはありません。リオと再会し、アルクが持ち帰ったセリア達からの贈り物を見た日に願ったことを思い描くのさえ許せない立場を望むのです。
お父様、お母様、エディ。
目頭が熱くなり、令嬢モードが綻び始めました。いけません。
あの時、全てを捨て逃げた時とは状況が違います。
自分を自分で殺す先にあるのは大切だったものとの決別。もう二度と触れるべきではなくなります。
でも、でも、きちんと覚悟を決めないといけません。
今はディーネもリオもいます。これ以上望むのはいけません。大丈夫ですわ。
「レティシア・ルーンとリオ・マールは行方不明でお願いします。2人分の別人の戸籍と巡回使の任命書と証だけください。給金はいりません。いつかは帰りたいと思っていますがそれは今ではありません。公爵家に生まれた者として許されるとは思えませんが恩情をいただけると」
隣からありえない言葉が聞こえました。
何を言い出しますの!?リオは冷静な声、お顔は貴族モードの交渉をするときのもの。
「リオ!?それは偽造いえ殿下、申しわけありません。疲れておかしいみたいです」
「レティ、裁かないから安心して。予想はしてたから用意もしてある。平民の戸籍だけど望めば爵位を授けるよ。爵位は私が隠居する前ならだけどね。私は二人を信頼している。二人が私以外の命に従わなくていいように勅命状もあげるよ」
穏やかな殿下の声。そしてリオのありえない申し出への戸惑いも不敬を嫌がられる様子もない。私を見て微笑むお顔は生前に見覚えのありすぎる、無礼者に向けるお顔ではありません。
「レティシアを王妃に望まないと一筆もお願いします」
「断る。カトリーヌにもレティの合意があるならいつでも側妃にむかえていいと言われている」
「いい加減に諦めませんか」
「今はマールに預けるよ。でも私の方が若いし、気長に攻略していくよ。いつでも来れるから」
「やはり転移陣をしかけましたか。王家の秘術をそんな簡単に使わないでください」
「権力も秘術も使うためにあるから。探しても無駄だよ」
「俺が転移陣を燃やすとわかって、アルクに仕掛けましたか」
「長い付き合いだからね。君がレティを独占するために手段を選ばないのは知ってるよ。もちろん彼に渡したものだけじゃない。レティ、こんな陰険な男はやめて王妃になる?私と過ごしてくれるだけでいいから。大事にするよ。大好きな本もいくらでも取り寄せてあげる。蜂蜜も常備してるよ。もちろんセリア嬢にいつでも会いに行っていいよ」
リオと殿下の笑顔の話し合い。
口を挟む隙はありませんが殿下が私達を裁くつもりはないことはわかりました。
優秀なリオが殿下と詳細を決めてくださるならお任せしましょう。
途中から話についていけませんでしたが、時々心が惹かれる単語がありました。膝の上に降りたディーネを撫でながら綺麗に微笑むセリアの顔を思い出しました。会いたい。
「シア、よく考えて。王妃の仕事は嫌なんだろ?自分のために生きたいんだろ?民とか国とか考えるの嫌なんだろう?」
殿下と見つめ合っていたリオが私の方を向きました。なぜか真剣なお顔で銀の瞳が私の心を覗こうとしています。リオはすでに知ってます。王妃なんて私には無理です。私は昔の私には戻れません。それにまた監禁されるなんて恐ろしくてたまりませんわ。
「王妃の仕事はカトリーヌがするから、私の癒しにだけなってくれればいいよ。レティの好きなお忍びも付き合うし、サーカスも呼んであげるよ」
「シア、騙されるな。民の金で暮らすんだから役目から逃れられないよ」
「私が心を穏やかに執務に励むために支えるのも大事な妃の仕事だろう?王は民のためだけど、妃は王のためだろう」
「シアは独占欲が強いんです。大勢の妃のうちの一人なんて満足しません」
「私はレティしか愛さないから、きちんと満足させるよ」
「レート嬢がいるでしょう?」
「カトリーヌは仕事が恋人だからね。誰かが世継ぎを産んでくれるなら大歓迎と喜ぶよ」
「シアは俺のです。シアが産むのは俺の子供だけです。王宮なんて恐ろしい世界は純粋なシアには無理です。シア、俺と離れるの嫌だろう?」
意思の強い銀の瞳で見つめるリオがいないのは嫌。
だって思い出してしまいました。そしてさらに知ってしまいました。
国に帰れないことよりも、優しい銀の瞳の持ち主を失うことのほうが怖い。叶うならずっと一緒にいてほしい。
「リオは国に帰りたいですか?」
「俺はシアと一緒にいられれば帰れなくても構わない」
断言するリオの顔に嘘をついてる感じはありません。
探るように銀の瞳をじっくりと見ても揺らぎはなく、無理をしてる感じもありません。
リオも一緒にいたいと思ってくれるなら、伯母様達には申し訳ないけど甘えさせてもらいましょう。
温かい手の持ち主のいない生活は寂しい。それに今は少し怖いから。
重なる手をギュっと握って振りほどく。姿勢を正して、綻び気味な令嬢モードを再び纏い殿下の金の瞳を見つめる。
「私は許されるならリオと一緒にいたいです。殿下の申し出は申し訳ありませんが辞退させてくださいませ」
「諦めてレート嬢の所に帰ってください。シアは俺が守るのでご心配なく」
「レティ、薄々感じてたけど刷り込まれていないかい?いつもマールと一緒にいたから、親いや庇護者と勘違いしていないかい?」
「殿下、戯れもいい加減にしてください。フラれたのに往生際が悪いですよ。もう暗くなりますが大丈夫ですか?」
「まずいな。そろそろ戻らないとか。レティ、またね。これを置いていくよ。気が変わったらいつでも」
「もう二度と来ないでください」
書類を置き、見慣れた笑顔で立ち上がった殿下が颯爽と去って行きました。
護衛にリオを一緒にと止める間もありませんでした。
いきなり現れ突然いなくなるのは変わりませんのね。
穏やかなお顔で颯爽と去った殿下に反して置いていかれてリオは不満そうな様子ですわ。
私はクロが殿下だったことに驚きましたが、頻繁にここを訪ねていた理由も、私を抱きしめた理由も今はよくわかりましたわ。
「ようやく殿下がリオに会えましたのに」
「は?」
「いつの間にか殿下と親しくなられたんですね。私と殿下がリオを差し置いて会っていたから怒ったんでしょ?」
リオが一瞬眉を上げ、ため息をつきました。
もしかして、気づかれたくなかったんでしょうか!?
失言でしたわ。
リオも殿方ですもの。男は格好をつけたいものだとアルクが言ってましたわ。ボロボロになっても譲れないものがあるとも。
リオに会えなく寂しくて私で気を紛らわせながらリオを探していた殿下。
リオのいない場で殿下との時間を共有した私に嫉妬するリオ。
両思いですわね。
今更ですが、私は気づかないフリをしましょう。
そして私は重要なことを忘れてましたわ。
「これはどうしましょう?」
目の前に置かれた怖いことが書かれている書類やメダル。
殿下からいただいたものを燃やすわけにもいきません。
「今日は遅いから明日考えようか。箱にでも入れておけばいいか」
リオが箱を出して中に入れ蓋をしました。怖いものが視界から消え、心に余裕ができましたわ。
殿下に置いていかれてしまった寂しがりやのリオにぎゅっと抱きつきます。
「お疲れ様でした。おかえりなさい」
「ただいま」
リオの腕に抱きしめられて、力が抜けていきます。もう無理に力を入れなくても大丈夫ですわ。
無事でよかったです。
今度はリオから言葉も返ってくるから大丈夫でしょうか?
しばらくして満足したのでリオの胸を押して顔を見上げます。
「今日はゆっくり休んでください。箱はディーネに任せますわ」
「疲れてないから大丈夫。俺はシアの話が聞きたい」
見降ろす銀の瞳は据わっています。
向けられるのは優しい笑みではなく多くの令嬢を魅了した爽やかな笑顔。そして私は知っています。この笑顔は決して爽やかなものではありません。うっとりするのではなく警戒しないといけない涼しげな笑顔ですわ。
非常にまずいですわ。
やっぱり駄目でしたの!?
寒気に襲われ離れようとしてもがっしりと腰に回る手から解放されません。
ふわりと抱き上げられ、二人掛けのソファに座ったリオの膝の上に降ろされます。降ろしてほしいですがそんなことを言える空気ではありません。
仕方ありません。
クロとのことを話しましょう。
時間は戻せませんが、自分のいない間の殿下の様子がわかれば少しは寂しさがおさまるかもしれません。
クロとの出会いを話しましょう。
「なんでクロとのことを黙ってた?俺、変わったことがなかったか聞いてたよな?」
まさかクロが殿下とは思いませんでしたもの。
気づいたらすぐに逃げましたわ。
「シアは変わりないって答えてたよな?それとも、よくあることなの?シア」
あら?
これは殿下のことより報告しなかったことを怒られてますわ。
確かに記憶喪失の旅人を保護するなんてよくあることではありません。
「ごめんなさい」
「怒ってないよ。シアが心配なだけだ。誰かに何か言われた?俺のいない間にシアに俺の知らないことがたくさんあるなんて、心配でおかしくなりそうだから正直に教えてくれる?」
注がれるのは優しい眼差し。銀の瞳が細くなり優しく微笑んだリオ。
心配でおかしくなるのはわかります。
私も同じですもの。
「レラ姉様にリオが嫉妬したら大変だから内緒にしようって言われました。クロはほとんどいませんし偶然会ったら紹介したほうがいいとも。リオに心配をかけて仕事に支障がでたら困るから」
「俺のことを考えてくれるのは嬉しいけど心配はいらないよ。簡単な仕事ばかりだよ」
頬が温かい手で包まれました。
怪我をして帰ってくる冒険者。怪我を治療しながら嫌な光景を思い出します。
頭から血を流すリオ。思い出すたびに体が震えそうになり、冷たいベッドに横たわるとさらに不安に襲われます。優しい瞳で見つめてくれるリオが無事に帰ってくるのは泣きたくなるほどありがたいことと何度感じたことか。
「リオは強いけど、治癒魔法が苦手です。何かあったらと思うと。リオは戦闘時は防御よりも攻撃を優先させますもの。怖いんです。
私は待ってるしかできないから仕事中は自分のことだけ集中してほしい。リオが帰ってこなかったらどうしようって怖くて。私がもっと強ければ一緒に連れてってもらえますのに」
涙が溢れるのは仕方ありません。
お世話になってるギルドのためなので、我慢しないといけないことはわかってます。
自分の好きなことだけでは生きてはいけません。
レラ姉様に教わるまで知りませんでした。ギルドに所属したからには冒険者としての役目も義務もありますもの。
本当はリオに報酬が良くても危険が伴う首都からの依頼を受けてほしくない。
私が受けたい。
でも信用がないからいかせてもらえません。
弱い自分が悔しい。
涙をリオの指に拭われ優しく抱きしめられました。
ゆっくりと背中を叩く手がなくなるのは監禁されることよりも怖くてたまりません。
「ごめん。一人で待つのも不安だよな。そんなに心配しているとは思わなかったよ。今度からは連れていく」
「約束ですか?」
「約束するよ。もう待ってろとは言わない」
「ずっと一緒ですか?」
「勿論。シアを連れていけない依頼は受けないよ」
「ずっと一緒にいたいですが、それは無理ですわ。冒険者にはギルドに所属する義務と役目がありますわ」
「なにそれ?」
リオに説明すると、眉間に皺をよせて驚いています。リオが知らなかったのは意外です。
「へぇ…。そこは俺がなんとかするよ。安心して」
優しく微笑むリオの顔が近づいてきます。
唇にそっと口づけされ、頭がぼんやりします。胸の鼓動が速くなり、何も考えられません。わかるのはまた顔が赤くなっていることだけ。どうしていいかわからなくなり、リオの胸にまた顔を埋めます。優しく頭を撫でられる感触に少しずつ火照っていた体の熱が冷め、いつの間にか涙も止まっていました。
「旅に出ないか?」
「旅?」
髪を撫でながら優しく微笑むリオの言葉に首を傾げます。
「水の国。行きたがっていただろ?」
「ここから水の国まで往復するなら1年以上かかりますわ。もしもロキが来るなら、帰ってこれませんわ」
「ロキには手紙を送るよ。この村にも大分いたし、そろそろ拠点を変えないか?殿下に知られたなら安全とは言えないから」
「確かに…。でもせっかく生活に慣れましたのに。慣れるまですごく大変でしたのに」
リオの言うことは一理ありますよ。
ですがフラン王国と違う文化の国での生活に慣れるのは中々大変です。
噴き出す音が聞こえましたがリオが楽しそうに笑っています。
どうしてですか!?
「シアは不器用だもんな。今度は俺がいるから大丈夫だよ。俺は器用だし大体どこでも苦労しないで生活させられる自信があるよ。細かいことは俺に任せて」
自信満々のリオ。リオが困っているところは記憶にありません。リオは器用でなんでもできますし、確かに今はあの頃とは違います。ですがここにいたい理由が二つほどあります。
「ディーネが寝床を気に入っていますの」
「また作るよ。ディーネの好みもわかっているから任せてよ」
「でもアルク達が心配ですわ。アルクとレラ姉様が婚約するまでは、アルクがギルド長から結婚の許可がでないと嘆いてますし」
「そのうち結婚すると思うよ。なぁ、俺達も結婚しないか?」
楽しそうに笑っているリオは何か知っているのでしょうか…。
アルクとよく一緒にいるからギルド長を攻略してレラ姉様にプロポーズする相談でもされたのでしょうか。
「シア、聞いてる?結婚しないか」
結婚…。
許されるなら優しく微笑み髪を撫でているリオとずっと一緒にいたい。
それでも、それは。
私は未だにこれからのことを具体的に考えられません。
「まだ生き方を決められませんわ」
「名前や身分なんて気にしなくていい。俺の妻になってよ。これから何があっても俺がシアの傍にいることは変わらないから。シアを頂戴?」
昔の約束。監禁される年齢が近づくにつれ生きていく未来が見えない私が欲しいと言ったリオ。リオが喜ぶものを差し上げられるならなんでもあげたい。ルーン公爵令嬢として許されればですが。
「私はリオのものなのに?」
「うん。形にみえる証がほしい。俺と結婚して」
リオは結婚に拘っているようです。どんなときも余裕のあるリオが必死に結婚しようと私を説得しようとしている姿に笑いがこみあげてきました。リオが私を必死に説得しようとすることがあるなんて人生何があるかわかりません。リオの願いを私が叶えられるなら、答えは簡単ですわ。
「お父様達に許しをもらいにいかないといけませんわね」
「もう公爵家の人間じゃないのに?」
嬉しそうに笑うリオの言葉に首を傾げます。貴族令嬢は当主の示す道を歩くものです。他国の王族を害したルーン公爵令嬢の存在はルーン公爵家にとって害になりますから国外逃亡しました。ルーン公爵令嬢でなくなった私の婚姻はどうすべきなのでしょうか。平民も両家の家族の合意のもとに婚姻するそうですが。
「あら?結婚は自分の意思でするものと思ってなかったんですがどうすればいいんでしょうか」
「シアは俺と婚約者だったのに結婚することを考えてなかったの?」
髪から手を放し、利き手で私の頬を撫でるリオの手が顎にかかり、そっと顔を上げさせられ意思の強い銀の瞳に見つめられます。何度見ても私にとって一番美しく、大好きな瞳です。
「はい。リオと一緒にいられれば幸せでした。それで満足でしたもの。それに、私は監禁されずに平穏に生きることだけを考えてました」
「そうか。今度は幸せに生きる方法を考えよう。絶対幸せにするから結婚して。もしも結婚してから反対されたら一緒に逃げればいい。もう税で暮らしてないし国から給金も支給されていないから公爵家にも王家もに尽くす必要はない。俺達は育てられた分の恩は返したよ」
リオと私は違います。私は恩を仇で返しましたわ。
「私はルーン公爵家に今まで私にかけていただいたお金を返せてません。それに」
「それは絶対に叔父上もエドワードも受け取らないよ。シアの部屋もそのままだし、財産も手付かずだよ」
なんと!?
私は換金しよすいようにしておりましたのに。
個人資産もほとんど手をつけていません。ルーン公爵家は私の個人資産など手をつけなくても全く困りませんが、お金は貯め込むべきではありません。きちんと使い経済を回すのも大事なことですわ。
「どうしましょう!?手紙」
「落ち着いて。どうしても返したいって言うんならシアを嫁にもらう俺がなんとかするよ」
「申し訳ありませんわ」
「昔から仕事も商売もしてたから財産を溜め込んでるんだよ。もしシアと逃げるなら資金が必要だろ?余裕で爵位も買える。だから安心して俺と結婚して。苦労はかけないから、な?」
リオから初めて聞く事実に驚きました。
私は仕事をして逃走資金を貯めるなど思いつきませんでしたわ。
さすが外交一家の優秀な三男ですわ。
あんなに忙しく、書類に囲まれていたのは脱貴族計画の資金稼ぎのためとは。
全く気付きませんでした。一緒に脱貴族するなんて夢物語だと思っていましたわ。リオには頭が上がりませんわ。
そしてきっと譲ってくれませんわ。
「貴族ではない私達が結婚したらどうなるんでしょう?」
「今までと変わらないよ。ただ夫婦になれば、離れられない理由になる」
よくわかりません。
リオの考えることはいつも難しいです。家のためにならない家族の同意のない婚姻。夫婦が離れられないとはどういうことでしょうか。今と変わらないなら、拘る意味も理解できません。
「それなら結婚しなくてもいい気がしますわ」
「難しく考えなくていいよ。俺の安心のためかな。あとはシアと幸せな夫婦生活を送りたい」
リオが考えなくていいなら深く考えるのはやめましょう。
「安心?リオは結婚したら幸せになれますか?」
「この上なく」
やはりよくわかりませんが、リオの笑顔を見るとなんでもよくなりましたわ。
リオが幸せでこれからも一緒にいられるなら充分です。
意味がわからなくてもかまいませんわ。
リオに任せましょう。
「はい。それならいいですわ」
「本当?」
「ええ」
「俺の嫁になる?」
「私で良ければよろしくお願いします。」
「ありがとう。シア」
リオに強い力で抱きしめられました。なにはともあれ機嫌が直ってよかったですわ。
「ディーネ、シアと結婚してもいい?」
「ギルド長を倒したらね。弱い男にレティは任せられないわ」
「わかった。シア、ちょっと行ってくるよ」
リオの腕が放れ、膝の上から降ろされました。リオの膝の上から解放されましたが、今は安心している場合ではありません。立ち上がり部屋を出ていこうとしているリオの腕に手を伸ばします。リオが出て行かないように利き腕をギュっと両手で拘束します。
ま、間に合いましたわ。
「待ってください。その箱を封印してからにして、違いますわ。リオ、今日はそばにいて。お願いだから、休んでください」
出ていこうとするリオを必死に説得します。大仕事明けの疲れた状態でギルド長に挑戦したらボロボロになりますわ。体に疲労がたまっていなくても疲れているはずですわ。今日のリオがおかしいのは疲れの所為だと思いますわ。疲れは正常な判断をできなくしますもの。殿下への無礼も申し出もいつものリオならありえないものばかりでしたわ。
今日のリオは見ことがないほど、おかしい、いえ変ですわ。
リオがおかしいのも問題ですが、もう一つあります。
ディーネに頼んでも、殿下が残していった物騒な物を封印して片付けないと怖くて眠れません。
絶対に怖い夢を見ますわ。夜な夜なうなされるのが目に見えていますわ。
リオに暴走されたらどうすればいいかわかりません。
グランド様、助けてください!!
足を止めたリオの腕から手を放し、背中に縋り付きます。
「側にいてください。いかないで。リオ、お願いですから」
「すぐ帰るから待ってて」
「嫌です。今日は一緒にいてください」
「シア?」
「お願いだから行かないで」
リオは出て行こうとしています。すぐ帰るって治癒魔法で治せてもボロボロにされるリオを見たくありません。リオの血なんて二度とみたくありませんわ。
「シア?」
「リオがいないと眠れません。怖いんですの」
「抱きしめたいからいったん放して。今日は家にいるから」
リオの背中から手を解くと振り返り優しく抱きしめてくれました。
リオの胸に顔を埋めながら視線を感じます。顔を上げれば心配そうに見られているでしょう。
しばらくしてリオの手が頬に添えられ目元を撫でられました。
「眠れてない?」
「ごめんなさい。ディーネを抱っこしてもリオのシーツにくるまっても駄目みたいで。疲れてなければ、今日は傍にいてほしいです。できれば寝るまで、おそばにいてください」
さすがに図々しいですわね…。
旅から帰って疲れてますのに。
うっかりお願いを口に出してしまいました。
おそるおそる顔を上げると銀の瞳は細まり、嬉しそうに笑っています。
あら?
なんでですか?
「わかったよ。今日はずっとシアの傍にいるよ。片付けも明日にする」
「本当ですか!?」
「ああ。ごめん。今日は色々あったからな。一人にしてたし不安だったよな」
「今日は家にいてくれますか!?ギルドに行きませんか?」
これはきっと説得成功ですわ。
それにずっと一緒にいてくれるのは嬉しいです。
「お願いですから、一緒にいてください。今日は私に独占されてください」
「勿論」
一安心ですわ。
リオの機嫌も完璧に直りましたわ。
安心したら眠くなってきました。
どんどん重たくなっていく瞼。頭を撫でてくれる優しい手に甘えてしまおうと思います。
ふわりと抱き上げられ、目を開ければ優しく微笑む大好きな人の顔。
これからも一緒にいられるなんて幸せですわ。もしも怖い夢を見ても目覚めればリオがいる。それなら眠るのも怖くありません。
私は監禁よりも怖い悪夢を知っています。それは温かい腕の持ち主の腕の中で眠ればありえないものですから。
この後すぐにアルク達が訪問し、驚きで眠気が吹き飛ぶとは予想外でしたわ。
物騒な物を寝室に置き、ディーネに見張りをしてもらいました。
リオはアルク達を爽やかな笑顔で迎えました。私はまたリオがおかしくなるのかと警戒しましたが、二人が帰ってからはいつも通りでしたわ。
アルクとリオは旅の途中で喧嘩でもしたんでしょうか?
今は考えるのをやめましょう。
アルクが届けてくれたリオのお土産をいただきましょう。
疲れているはずのリオがお土産のお菓子に合うお茶を用意してくれています。
二人でゆっくりお茶をして今日はゆっくり休みましょう。
今日からはリオが帰ってきたので、ゆっくり眠れますわ。




