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7. 食堂


週末。

陽が沈む頃にクレメールはくたくたになって帰宅したがどこか浮き足立っていた。親方にめいいっぱいこき使われたが、今日は給料日だ。もらった賃金も想定通りで満足していた。それに、だ。クレメールは緊張で拳をぐっと握った。これからクラリスと食事なのである。


"会わない方が良い"という理性と"会いたくてたまらない"という気持ちがせめぎ合う中で、クレメールは衣服を着替えた。

玄関を開けると、目の前にジレンが立っていた。彼はどことなくほっとした表情を浮かべている。


「……よかったあ。クレメールさんが行かないって言い出したらどうしようかと思ってた」


「さすがに約束を破るほどの非常識じゃない……行くぞ」


クレメールは緊張した面持ちで歩き出した。





歩きながらジレンは硬い表情の隣の人物をちらと伺った。足が手と同時に出ていて、人形のようにぎこちない。コチコチじゃねえか。ため息をつきそうになり、先を長く感じた。

きっと今話しかけても返事はしないだろう。たしかにもし終始このような状態であるならば、自分がいて正解かと思った。


しかし、たどり着いたデュクレ家は、玄関の扉を叩いても誰もいないようだった。前のように明かりはついておらず、窓から見える中からも人の気配がない。2人はしばらくそこで待っていたが、辺りはどんどん暗くなるばかりだ。


「うーん、仕事が長引いてんのかなあ。俺、針子の仕事ってどんなもんか知らねえけど、やっぱ週末だと忙しいのかなあ……クレメールさん?」


ジレンはぶつぶつと呟いてからクレメールを見ると、いつのまにか彼は肩を震わせていた。ジレンは眉を寄せた。


「クレメールさん? どうかしたの?」


顔を覗き込むと暗い笑みを浮かべて笑っているのでジレンはぎょっとした。

クレメールは低く笑いながら言った。


「おかしいと思っていたんだ、あんなきらきらした女が俺と飯を食おうなんて。彼女があんな約束を本気にするわけないんだ……」


クレメールの言葉に、ジレンは「はあ?」と声を漏らした。


「んなわけねえだろう。クレメールさん、なんでそんなに自己評価が低いんだよ、それ、急いで帰ってる彼女がきいたら泣くぞ」


「ジレン、これが世の中の現実ってもんだ。女は暇をもてあますとこうして男を騙して楽しむ……」


と、ここでクレメールは言葉を途切らせた。街灯の向こうから駆けてくる若い女性が見える。なにやら大きな袋を抱えているようだ。


「クレメールさあん!」


名前を呼ばれた。クレメールは目を見開いて彼女を見つめる。

クラリスは息せき切って2人の前まで駆け寄ってきた。


「はあはあ……ごめんなさい! 思ったより長くなってしまったの……待たせてしまったでしょう?」


クラリスは申し訳なさそうに言った。相当走ったのか、額が汗ばんでいる。クレメールは目を大きくしたまま何も言わないので、ジレンが代わりに言った。


「いいや、大丈夫。な、クレメールさん?」


「あ……、え、その……俺たちも来たところで……」


ぼんやりと言ったクレメールにクラリスは申し訳なさそうに微笑んでから「実はこれを買っていたの」と、持っていた袋から包みを2つ取り出した。1つをクレメールに、もう1つをジレンに渡す。


「えぇーー! なになに? プレゼント?」


ジレンは嬉しそうな声をあげ、クレメールは戸惑いながら受け取った。

クラリスは微笑みながら頷いた。


「ええ、開けてみて。そんなに高価な物ではないのだけど」


開けてみると、ジレンの包みにはきめの細かい温かそうなマフラーが、クレメールの包みには上等な濃紺のジャケットが入っていた。


「うっわあーーすげえーー! 俺、こんなの初めてもらったよ! うわああ」


ジレンがわあわあとはしゃいでいる横で、クレメールは受け取ったジャケットにますます目を丸くしていた。

古着ではない、どこにもほつれも小さな穴もない新品だ。前にも袖にも金色のボタンが光り、中の裏地も袖まできっちりついている。


「こ、こんなの……ど、どうして……」


クレメールは戸惑いを隠せないというようにクラリスを見た。クラリスは笑顔のまま少し照れたように言った。


「こうして贈り物をもらうととっても嬉しいことを知っているからよ。それに、今日は給料日だもの。ごめんなさい、これを選んでいたから帰るのが遅くなってしまったの」


クレメールはクラリスをまっすぐに見つめた。針子の1週間の給料で買える代物ではない。それにジレンのマフラーもある。おそらく貯金を崩したのだろう。

クレメールは喉が締めつけられるように苦しくなった。一瞬でも彼女を疑ったということがとても申し訳なく感じたのである。


「それで……その、お気に召したかしら?」


クラリスがおずおずと尋ねたのにクレメールはぼうっと彼女を見つめたままだったので、ジレンがクレメールの足を思い切り踏んだ。


「いだっ……! あ、ああ、気に入った……あ、ありがとう、クラリス、で、でも、俺はこんなのもらえるなんて思ってなかったから……なんにも……」


クレメールが自分の空っぽの手を見下ろしてしょんぼりと言ったのにクラリスは首を振った。


「違うわ、お返しをもらうために用意したんじゃないの。喜んでもらいたかったからよ。でも、そうね……もしよかったら、食堂でワインを奢ってもらおうかしら!」


彼女のいたずらっぽく笑ったのに、クレメールは自然と笑みを浮かべていた。ああ、彼女はなんて……。

クレメールが「そうしよう」と頷いた横で、ジレンは「俺は今夜ずっとクラリスに給仕するよ!」と言って彼女の周りをぴょんぴょん飛び跳ねた。



週末の港町の食堂は大にぎわいだった。席はほとんど埋まっているかのように見えたが、ジレンがすばやくテーブルと椅子を確保したので、3人は落ち着いて座ることができ、ワインにパン、ブイヤベース、白身魚やサラダを頼んだ。

だがしばらく待って、ようやく来たのはワインだけだった。どうやら客が多すぎて人手が足りていないようだ。


「ったく、仕方ねえなあ」


そう言ってめんどくさそうにジレンが起立した。


「ジレン。客がこう多くちゃ、遅れるのも仕方ないだろ……言ったところで何も……」


クレメールが止めようとするとジレンは口の端を上げてにっと歯を見せた。


「文句言いにいくんじゃねえよ。まあ、クレメールさんはそこでクラリスと愛でも語ってな。ついてきちゃだめだぞ。すぐに何か持ってきてやるから」


ジレンは頭をかきながらそう言って厨房に消えていった。クレメールとクラリスは「え……?」と同時に顔を見合わせた。


「ジレンは一体……」


「もしかして、作りに行ったのか?」


「まさか」


2人は互いに目を丸くしていたが、クラリスがくすりと笑みを漏らした。


「……おもしろい子ね。一緒にいて、退屈しないでしょう?」


クレメールはその自分に向けられた笑みに赤面しそうになり、慌てて目を逸らして厨房の方を見た。


「そそ、そ、そうだな……こっちはひやひやしっぱなしだけど」


クラリスもつられて厨房に目を向けた。よく見えないが、ガチャガチャわあわあにぎやかである。

クラリスはテーブルを挟んで座るクレメールに目を戻した。顔に疲労が見える。

クラリスは言った。


「新しいお仕事はいかがですか。おつらくありません?」


きかれてクレメールも視線を彼女に戻した。

心配そうな表情を浮かべているのでクレメールは笑みを浮かべた。


「疲れるけど、船の上みたいに生きるか死ぬかってほどじゃないからな。親方も悪い人じゃないし、結構のんびりやらせてもらってるよ」


「そうですか。それならよかったわ…… なんだかとってもお疲れのようだから。それに、お葬式にも来てくださってありがとうございました。父もきっと喜んでいたと思います」


「あ、そ、その……」


クレメールは頭をかいた。あの日、彼はわざと彼女を避けていた。挨拶もしなかったのである。


「そ、その、ガ、ガロワの連中とあんまり顔を合わせたくなくて……でも、マルセルとは会って少しだけ話した。そ、その、悪かった、君にちゃんと挨拶にいけば……」


クレメールは必死で言い訳を紡いだが、うまくいかず、結局頭を下げるしかなかった。クラリスは首を振った。


「謝らないで。来てくれただけでも嬉しかったんです。父のあの帽子も棺にいれたの。隣には母の眠るお墓があるから、絶対に入れたかったんです。父はずっと海で最期を遂げたいと言っていたから、父の身体をお墓に入れることは無理だとわかっていたの。でも、クレメールさんが帽子を持って帰ってきてくれたから、父も一緒に帰ってきたように思えたし、お墓にいれることもできたのよ」


クレメールは口をつぐんだ。何を言ったら良いかわからなかった。クラリスの言葉は、クレメールに安らぎを与えた。ずっと心の奥底で気が咎めていた海に葬ったこと、帽子だけ独断で持って帰ってきたことすべてが許されたような気がした。


「……ありがとう」


言えたのはただそれだけだった。クラリスは微笑んだ。


「こちらこそ」


その時、ジレンがにやにやした笑みを浮かべて大皿を両手に持って歩いてきた。


「さあさあ、おまたせしましたおふたりさん! 特製イワシのグリルに、俺自慢のブイヤベースだ!」


そう言ってテーブルに置かれた料理に、クラリスとクレメールは目を丸くした。


「まあ、なんて豪華な……!」


「まさかほんとうにお前が作ったのか?」


クレメールが眉を寄せたのに、ジレンは口の端を上げた。


「心外だなあ、俺の腕はクラリスも認めるレベルなんだぜ?」


「いやあそういう問題じゃ……」


そもそも店の厨房を勝手に借りて料理を作るなんて暴挙が許されるのだろうか?

その時、「ジレン!」と呼ぶ声が厨房から響いてきた。


「今度は8番テーブルに肉のローストだよ、早く戻っていきな!」


その怒鳴り散らしたような女性の声に、ジレンはげんなりしたような顔になった。


「ったく、これで給料あげなかったら、絶対やめてやる……悪いな、クラリス、クレメールさん。ちょっと行ってくる」


そう言ってパタパタと厨房に戻っていったジレンの背中を呆然と見送ってから、2人はまた顔を見合わせた。


「……もしかして、ジレンはここで働いているの?」






それから一刻も経つと、やっと客の数も注文も落ち着いてきたようだった。クラリスとクレメールもすっかり腹が満たされた頃、ジレンがふらふらとテーブルまで戻ってきた。


「疲れたあーーっ! 俺も食うぞーー」


そう叫んでクラリスの隣に座った少年は、2人が彼の分をと皿に乗せていた物をガツガツと口に入れ始める。一度喉に詰まらせたのか「げほげほ」と苦しそうにしたが、クラリスが背中を撫でて水を飲ませるとやっと落ち着いた。

クレメールが言った。


「お前……ここで働いてたんだな」


「あれ? 言ってなかったっけ?」


ジレンは口をもごもごさせながらきょとんとした顔をした。


「もう半年くらい前からここでこき使われてんだ。今日はわざわざ休みとってたのに、結局働かされちまったよ」


クラリスは納得した。だから前に手伝ってもらった時に手際がよかったのだわ。それになんといっても最高の味付けである。


「ジレン、あなたのお料理は素晴らしいわ。どれもとっても美味しかったもの!」


クラリスが褒めると、ジレンは「でへへ」とだらしない顔をして頭をかいた。


「嬉しいねえ、クラリスにそう言ってもらえるなら、また頑張ってつくろうっと。クレメールさんは? まだ感想聞いてないんだけど」


言われてクレメールは頷いた。


「あ、ああ。うまかった、ご馳走さま」


それから疑問を投げかけた。


「……お前、働いてたんなら少しでも給料が入るんだろう? なんでいつもボロを着て、寒さに我慢して過ごしてるんだ」


「が、我慢してるわけじゃねえよ、俺はこんな寒さなんて別に平気なんだよ。着てる物だって、着られりゃいいんだ」


「でも……私が言うのもなんだけど、その、お料理をする時は最低限、清潔な服を着た方がいいと思うわ。お料理でお金をいただいているのだし……」


クラリスがそう言ったのにジレンは「げえ」という顔をした。


「クラリスまで、厨房のおばちゃんとおんなじこと言うなよ。それに、この服だって汚く見えるかもしれねえけど、ちゃあんと洗濯はしてるんだ」


「それで、ジレン。服も買わずに、給料は生活費以外に何に使ってるんだ」


「えぇー別になんだっていいじゃねえか……」


と、途中まで言ったが、クレメールの真剣な表情とクラリスの心配そうな眼差しに、ジレンは口をへの字に曲げ、しばらく唸っていたが、「あーもう、わかったよ」とため息をついた。

そして少し小さな声になって、テーブルの木目に目を移して呟くように言った。


「俺……いつか自分の食堂を持ちたいんだ。それで金貯めてる」


「……!」


「まあ!」


クレメールとクラリスは、思いがけない少年の夢に目を丸くさせた。クラリスは顔を綻ばせた。


「素晴らしいわ、ジレン! なんて素敵な目標なの」


クレメールも少し感心したような声で頷いた。


「そういうことか……今からそういう計画立てているなんて、お前らしい」


ジレンは顔をあげて2人の顔を戸惑ったように見た。


「え……馬鹿げた夢だって言って、笑わねえの?」


「どうして? だってあなたはこんなにお料理が上手じゃない」


クレメールも言った。


「馬鹿げてるなんて思わないさ。ただそうなのかって驚いただけだ、それにお前は自分のやりたいことは自分のやり方でなんでもやってきたじゃないか」


「そうよ、私は今から楽しみだわ! この街にもう一つ食堂ができるのね」


クラリスとクレメールの言葉に、ジレンは最初は目を見開いていたが、やがてだんだんとその目を潤ませていき、やがてテーブルの自分の腕にがばっと顔を伏せてしまった。

くぐもった声で「ありがとう、2人とも」と言ったのが聞こえる。

クレメールとクラリスは顔を見合わせ、微笑み合った。


それから3人はしばらく雑談をしていたが、やがてジレンが立ち上がって空になった皿を重ね始めた。


「遅くなっちまったな。ちょっと片付けてくるから待っててくれよ」


ジレンはそう言って皿を全部持って厨房の方へ行ってしまった。

その小さな後ろ姿を見送りながら、クラリスは目を細めて「素敵ね」と呟くように言った。


「あんな強い目は久しぶりに見ました。やっぱりアネットにそっくりだわ」


彼女の言葉にクレメールも頷いた。たしかにクラリスの妹からも同じ強さを感じたなと思った。


「彼女も相当だったな。よく口が回るところも、ずけずけとした物言いも、結構似てないか?」


「ほんとね」


2人でまた顔を見合わせて微笑み合った。それがとても自然で、クレメールは心が温かくなるのを感じていた。

と、その時だ。


「レイモン? レイモン・クレメールじゃねえか」


ふいに後ろから名前を呼ばれ、振り向くとにやにやと嫌な笑みを浮かべている細身の男が立っていた。クレメールは明らかに嫌そうな表情を浮かべた。最悪だ。


「……ユーゴ、何か用か」


クレメールの初めてきく低く愛想のない声にクラリスは目を丸くした。

ユーゴと呼ばれたその男は親しげにクレメールの肩に手を置いた。


「おいおい、そんな冷たい言い方はねえだろ。久しぶりだな!何年ぶりだ、見かけねえと思ってたんだよ。なんだ、固定の馴染みか」


ユーゴはちらりとクラリスに目を向けなから言うと、クレメールは眉をぐっと寄せた。


「違う、彼女はそういうんじゃない」


「馴染みじゃない?」


ユーゴは目を丸くしてからますます口の端を上げてクラリスの顔をじろじろ見た。クラリスは決まり悪そうに身を縮こませる。ユーゴはその様子に下卑た笑みを深めた。その表情に、クラリスは身の毛がよだつのを感じた。


「へえ、じゃあ今夜は俺に譲ってくれよ。こんな美人な女、なかなかいねえんだ。店に行く前に一発やらせてもらおうかねえ。なあ、あんた歳はいくつ……」


バンッと大きな音が、ユーゴの話を中断させた。

店内は他の客でにぎやかであったが、皿を拭いていたジレンはその音に何事かと厨房からひょいと顔を出した。

クレメールが立ち上がっている。大きな音は両手をテーブルに叩きつけた音だったらしい。彼が今まで腰かけていた椅子は後ろに倒れていた。

クラリスもユーゴも、目の前の男の様子に驚いて言葉を失った。

クレメールは恐ろしい表情を浮かべていた。相当に怒っているようだということは見てとれた。


「……失せろ。彼女はそういう筋の人間じゃないし、ここはそもそもそういう店じゃない。さっさと出ていけ」


まるで地の底から響くような低い声だった。ユーゴは顔を引きつらせた。


「な、なんだよ、冗談きついぜ、そんなに怒るこたあねえだろ」


彼は軽く笑い飛ばすように言ったが、クレメールにギロリと睨まれ、後ずさった。


「わ、わかった、わかったよ……けど、お前といるから俺はてっきり……いや、なんでもねえ。わ、悪かった」


ユーゴはそう言うとさっとネズミが去るように店を出ていった。


クレメールはしばらく彼が去った方を見つめていたが、倒れた椅子に気づきそれを起こした。しかし、クレメールはそれには座らなかった。

彼はクラリスの椅子の横の前まで来ると、床に膝をつけ、彼女に頭を下げた。


「あの、クレメールさん?」


「……悪かった。嫌な思いをさせちまった。俺といなけりゃあんな風には言われなかったはずだ」


「そ、そんな! 確かに失礼な方でしたけど、なんだかよくわかりませんでしたし、クレメールさんが……」


「あいつはあんたを……いや、その、ほんとうに、ほんとうにすまない」


クレメールが膝を床につけて頭を下げたままだ。クラリスにはさっきの男が何者なのかわからなかったが、何をしようとしていたかはなんとなく察していた。だから悪寒が走ったのだ。確かにあれは気持ちの良いものではなかった。

しかし、クレメールが許しをこうているのに何も答えないわけにはいかない。第一に彼はものすごい勢いで怒ってくれたではないか。

彼女は椅子から立ち上がり、クレメールの前で同じように膝をつくと、床についている彼の冷たい手に触れた。クレメールは反射的に顔を上げる。

クラリスは優しい笑みを向けた。


「あなたはなんにも悪くないわ。それにクレメールさんがいたから私はひどい目にあわずにすんだのでしょう。だから大丈夫。守ってくださってありがとう」


クレメールは少しの間クラリスのきれいな目を見つめていたが、彼女が自分に手を重ねていることに気づき、そして彼女との距離の近さに気づき、慌てて立ち上がった。同時にクラリスも立つ。

そこへジレンが怪訝そうに顔をして厨房から出てきた。


「……なんかあった? 誰かともめてたみてえだけど」


クラリスが肩をすくめた。


「大したことじゃないの。なんだかよくわからない人がいたのだけど、クレメールさんが私のために怒ってくれたのよ」


「……ふうん」


ジレンは頷いてからちらっとクレメールの方を向いた。後で説明しろという顔だ。

クレメールはその視線を流してクラリスに言った。


「そろそろ帰ろう。もう随分遅くなってしまった。家まで送る」


もういつもの口ぶりに戻った彼に、クラリスはにっこりと微笑んだ。


「ありがとう、お願いします」






クラリスを家まで送り届けた後、クレメールはジレンと2人で並んで街灯のある道を歩いた。


「で? 何があったんだよ。あそこまで怒るなんて、めずらしいじゃねえか」


ジレンが前を向きながら問うた。


「見てたのか」


クレメールは少年にちらりと視線を向けた。ジレンはマフラーに首をうずめた。


「厨房まで音がしたから何事かと思ってよ。あの男、何者なんだ?」


クレメールは視線を前に戻してすっと目を細めると答えた。


「……女衒だ。しかも昔からの俺の顔見知りだった」


「へえ……そっか、それであんなに怒って……クラリスに謝ってたってわけね」


ジレンはやっと納得したように頷いた。2人の間に少し沈黙が流れた。地面を歩く靴の音だけが響く。

家が近づいて来た時にジレンが言った。


「まあ……クラリスは気にしてないって言ってたじゃねえか。嫌われたわけじゃねえんだし……けど、うーん、やっぱり彼女が食堂に来るのはあんまり良くねえんだなあ」


少し考え込んだジレンを、クレメールはじっと見ていたが言った。


「食堂もそうかもしれないが、そもそも俺がいたからあいつも声をかけてきたわけで、やっぱり俺が彼女といない方が……」


「そうだっ」


クレメールがぶつぶつと言っていたのをジレンは途切らせた。

少年は楽しそうに言った。


「こうしよう、俺は毎週休みの日にクレメールさんちで料理を作るよ、クラリスの家でもいいな。材料費はクレメールさんとクラリスが払う。そうしたら、俺の作る飯がなんの心配もなく安全に食えるだろ。2人の距離は縮まる、俺は料理の研究ができる、万々歳だ!」


クレメールは思い切り眉を寄せた。


「なに言ってんだ。お前、今の俺の話ちゃんときいてたのか?」


「いいじゃん、悪くねえ話だろ。今度彼女の家に寄って俺から話つけておくよ。だからクレメールさんは安心して、提供できる話題でも練っとけ」


「ジレン」


クレメールは眉を寄せて少年をとがめようとしたが、彼も譲らずに首を振った。


「クレメールさん。俺は一ミリもふざけちゃいねえぜ。あんたのことも、それにクラリスのこともちゃんとよく考えてる」


クレメールは口を歪めた。


「だけど……」


「こう見えて、俺は人の感情を読み取るのが得意なんだ。孤児院でそういう育ち方をしたからな。それにさ……クラリスがあんたを拒絶したらすぐに引き離してやるから安心しな」


クレメールはそう言われて複雑な表情を浮かべていたが、やがてしぶしぶと頷いた。



その夜、クレメールは寝床に横になって考えた。

ユーゴと再会したことで、クレメールは自分の過去を思い出していた。


かつて、自分は彼と同じ仕事をしていた。ユーゴと同じように、花街だけでなく港近くの食堂や大通りに足を運んで、客引きをすることもあった。そうやって生きていたのだ。

実のところ、クレメールはガロワ商会をクビになった時、またこの仕事に戻らなければならないと思っていた。それしか自分には道はないと考えていた。だから紹介状を渡された時はほんとうに驚いた。

クレメールは横になったまま自分の手を見上げた。

先ほどの食堂で、クラリスがこの手を握った。クレメールは何も悪くないと言い、微笑みを向けてくれたのだ。

あの言い方は「父親の部下」に対するものとは言い難かった。最近は前よりも親しげな話し方になっているし、それに、まさか「父親の部下」に贈り物などしないだろう。

悲観的なクレメールも、なんとなくクラリスが自分に好意を向けてくれていることはようやくわかってきた。しかし、それは独り者の男に対する同情にも思えた。

なにより彼女は父親の保険金を全額受け取り、あのガロワ商会からめんどうもみてもらえるような、良家の子女である。

分不相応だ、この俺が近づいていいわけがない。そう思う一方で、クラリスにどんどん手を伸ばしたいと思っている自分もいることに、クレメールは頭を悩ませていた。





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