4. 紹介状
日が傾き始めた頃、クラリスはガロワ氏が書いた紹介状と、彼からきいたメモを手に、貧民街を歩いていた。
「この辺り、かしら……?」
きょろきょろと辺りを見回す。屋根のない小屋、隙間だらけの家、崩れ落ちそうな造りの建物ばかりで、メモに書いてある住所などあてにならなかった。
と、その時、ぼろぼろでぶかぶかの布をまとった少年がガタガタと板を担いでこちらに歩いて来るのが見えた。
「あ、あのちょっとききたいのですが」
少年はクラリスの姿に怪訝そうな表情を浮かべた。歳は12,3歳だろうか。
「……なに?」
その歓迎していないような顔に、クラリスは困った微笑みを浮かべた。
「お忙しい時にごめんなさいね。人を探しているの。その人にとてもお世話になって……教えていただけるととても助かるの」
クラリスは懇願するように言った。少年は少しの間彼女の顔をじろじろ見ていたが、肩をすくめた。
「いいよ、誰?」
「この辺りに、レイモン・クレメールという方の家があると伺ったのだけれど、ご存知ないかしら?」
「あー」と少年は片手で板を持ち、もう片手で茶色の頭をガリガリかきながら言った。
「クレメールさんちは俺んとこの隣だよ。ここさ」
少年が指差したのは、まさにクラリスの目の前にある隙間だらけの家だった。少年の家というのが屋根のない小屋のようだ。
「こちらにクレメールさんが……?」
クラリスは目をぱちくりさせてしげしげと家を眺めたが、咳払いをして扉をトントンと叩いた。
「クレメールさん、いらっしゃいますか……あっ!」
クラリスがそう呼びかけている途中で少年が板を小屋に立てかけ、クレメールの家の扉を開けて、入っていってしまったのだ。
「あの、勝手に入っては……」
「いいんだよ」
少年はこちらを振り向きもせずに中へずんずん入っていきながら答えた。
「俺はクレメールさんと仲良いから、しょっちゅう家に上がらせてもらってんだ。俺んとこには調理場がないから、時々かまど借りて火焚いたりしてる」
クラリスは目を細めた。
「まあ……そうなの」
クラリスは玄関に立ちっぱなしのままだったが、少年はガタガタと二階まで行って(二階まであることが驚きであったが)また降りてきた。
「クレメールさん、いねえな。たぶん食堂か、しょうか……いや、酒場に行ってんのかも。まあ長くはかからねえと思うぜ。航海に出てない時はいつも夜になる前に帰ってくるから」
「そう……今日中にお話しさせていただこうと思ってるの……ここで待たせてもらおうかしら」
少年は肩をすくめた。
「いいんじゃねえの。けど、外で待ってるのもなんだから家の中で待ちなよ」
「そうさせてもらおうかしら……なんだか申し訳ないけど」
「かまいやしねえよ。外で待つのも中で待つのもあの人にとっちゃ一緒だ」
クラリスはからっとしたその少年の言い方にくすりと笑みを漏らした。
「そう。それなら……私やってみたいことがあるの。あなた、もしよければ手伝ってくれるかしら」
レイモン・クレメールはデュクレ家から自分の家に帰った翌日、商会窓口に向かった。給金はもらったが、デュクレ家に報告したことを伝えようと思ったのだ。その手間賃ももらえればラッキーだと思っていた。しかし、窓口で聞かされたのは、「解雇」の二文字だった。理由は会長の世代交代だ。今商会を営んでいるガロワ氏が息子に譲ることで、商会内の仕組みも人員も変化するのだ。しかも、解雇になるのは自分だけで、他のみんなは家族を養っているという理由で、解雇は免れ継続して雇われるらしい。
クレメールはひどくショックを受けた。俺だけが。俺だけが、家族がいないって理由でクビになったってのか。やけになった彼は酒場で日の高いうちから酒を飲み、その次は娼館に行った。
辺りがすっかり暗くなる頃、入り浸っていた娼館から商売の邪魔だからいい加減出て行けと追い出された。酔いも冷め、ふらふらと帰路につく。
やがて自分の住まいが見えてきて、クレメールはおやと眉をひそめた。明かりが煌々とついている。
誰だ、俺の家で。
近づくと、誰かがが玄関先の扉の前でしゃがみこみ、頬杖をついている。クレメールの隣の小屋に住んでいる、ジレンという少年だ。
彼は暗がりでクレメールが帰ってきたことがわかると「おっ!」と声を出して立ち上がった。
「クレメールさんが帰ってきたぜ!」
そう呼びかけた扉の中から「まあほんとう!」と美しい声がした。まもなくジレンの後ろの扉が開く。
クレメールはその姿を見てぽかんと立ち止まった。
……デュクレ船長の娘、クラリスじゃないか。
彼女は昨日の朝見たときと同じように、エプロンをして、髪の毛を後ろにまとめて縛っていた。
クラリスはジレンの後ろの玄関から呼びかけるようにして言った。
「おかえりなさい、クレメールさん! ちょっとお話があってこちらに参りましたの。その、ごめんなさい、勝手に上がって調理場を借りてしまいました」
クレメールは目をぱちくりさせたままだった。これは幻なのだろうか。
動かないクレメールに、ジレンが怪訝そうに駆け寄っていく。そして近寄っていったはいいが少年は「うわっ」と顔をしかめ鼻を抑えた。
クラリスは玄関のところに立ったまま両手をもじもじと前で重ねた。
「その、勝手ながら、調理場をお借りして夕飯を作りましたので、召し上がっていただけませんか? あ、材料はうちから持って来たの! その、ジレンがここを使って良いって言ってくれて……それから手伝ってくれて……」
「おいクレメールさん、なんとか言えって」
クレメールは彼女をぼんやりと眺めるだけで、一言も発さないので、少年が足を蹴飛ばした。
「いっ……あ……ああ、か、かまわない。その、ちょうど腹が減ってたから、もらうよ」
その返事にクラリスは笑みを浮かべた。
「よかった! すぐに温めますから」
そう言って奥の調理場へパタパタと駆けていった。クレメールも家に入ろうと足を進めたが、ジレンが服の裾を掴んだ。
「おいおい! クレメールさんにあんな知り合いがいたとは知らなかったぜ! 美人だし、気立てはいいし、料理もうまいし」
「……お前もう食ったのか?」
「味見だよ、これから一緒に食わせてもらう。ところで……クレメールさんさ、ひどい匂いだよ。ずうっと娼館にいたんだろ」
ジレンの言葉に、クレメールはぎくりとした。
「わ、わかるか?」
「そりゃあもう、ぷんぷん香水が匂ってくるよ。服だけでも替えてきた方がいいぜ」
クレメールは小さく頷くと玄関に入り、さっと二階へ駆け上がっていった。
クレメールは寝室に入って気持ちを落ち着けようと深く息を吸って吐いた。
な、なんで彼女が!?
しかもこんな風に帰ってきた時だなんてタイミングが悪すぎる。とにかく着替えねばならない。クレメールはタンスの中から一番ましな服を取り出した。さっきクラリスは話があって来たと言っていた。一体なんの話だ? 保険金の受け取りがうまくいかなかったんだろうか。だが、俺はもう解雇された身だ……クレメールは無力感に落ち込んだ。
「クレメールさあん、まだ?」
ジレンの呼びかけに「今いく」と返事をした。
階段を降りていくと、木箱を積み上げて作られたテーブルには美味しそうなスープや煮込み、パンが並んでいた。
「うまそう……」
今日は朝から酒を飲むだけで何も食べていない。そういえばさっきから腹が悲鳴をあげている。
「ジレンはとっても料理が上手ね。たくさん手伝ってもらったわ。この木箱も全部彼が集めてくれたの」
元々この家には小さなテーブルと椅子が1つずつしかないのだ。クラリスはにっこりと微笑み、ジレンも得意げににっと歯を出して笑った。
「さあ、クレメールさんは椅子に座ってください」
「あ、あんたは……」
「私はこちらの木箱で大丈夫です」
「俺もー」
クラリスの隣の木箱にジレンが座った。クレメールはその仲良さそうな2人にじとっとした視線を送ってから、黙って彼らの前に置かれた椅子に座る。そうして3人は食事を始めた。
まさか3日続けて彼女の料理を食べることができるとは思わなかったな。クレメールは魚介のスープを味わって飲み込んだ。
最初の方はジレンの話す「この煮込みの味付けしたの俺だぜ」だとか、「さっきの板で屋根作ろうと思っててよ」などという雑談に、クラリスが楽しそうに相槌を打っていたが、皿が空いてきた頃、彼女は切り出した。
「あの……あのね、クレメールさん」
深刻そうな表情を浮かべている。やはり交渉がうまくいかなかったのか。
「今日、商会の事務所でガロワ様にお会いしたの。無事に保険金も全額受け取れました。でもその時、契約の関係で、あなたが解雇されたってきいて……」
ジレンは「え、そうなの」ときょとんとした顔でクレメールを見た。
ああ。クレメールは苦笑いを浮かべた。なんだ、同情してきてくれたってわけか。どうやら相当なお人好しらしい。
「……そうさ。俺も今朝知った。おかげで船出する準備をしなくてもよくなった」
クレメールは自嘲するように笑ったが、クラリスは真剣な顔で頷いた。
「家族がいないという理由だけで解雇されたことが、私どうしても納得できなくて……だから、ガロワ様にあなたの紹介文を書いていただきましたの」
そう言って何枚かの紙をクレメールに渡した。
「しょ、紹介……? 俺の?」
クラリスは頷いた。
「ええ、貿易船員の船乗りの紹介状と、他にもいくつか用意していただきましたの、その、造船所の工員や、大工と……いろいろ書いていただいたのよ」
クレメールは驚いたようにその文面に目を落とした。難しい字が並んでいて全部は読めないが、正真正銘の紹介状だ。
「この俺に、紹介状……」
クレメールはその紙を握りしめてじいんとしていた。
ジレンが横から「クレメールさんが感動してる……」と呟くのが聞こえたが、クレメールは取り合わずにクラリスを見た。
「な、なんでこんなことを……俺がクビになろうと、あんたは痛くもかゆくもないだろう」
「何を言うの! あなたは父の元、ガロワ商会の元で6年も働いたのでしょう。これくらいしていただくのは当然です。それにクレメールさんは、私達姉弟を元気づけてくれたわ」
「あ、あんなのは……!」
クレメールは「ちがうんだ」やら「そんな風に思ってもらえるような」などとぶつぶつ言いながら髪の毛をかきむしった。
なにやら葛藤している男を前に、クラリスは笑みを浮かべた。
「とにかく、私にできることをしただけですわ。せめてものお礼ですから。紹介状、お役に立てれば良いのですけれど」
そう言われてクレメールはいたたまれないというように俯いてしまった。しばらくそのまま沈黙が続いたが、ジレンはしらーっとした視線を送ってから、咳払いをして話題を変えた。
「ねえねえ、クラリスはさ、普段なにしてるの? 恋人はいるの?」
ぶしつけな質問に、クレメールは目を剥いたが、クラリスは微笑みを浮かべた。
「まあ、突然ね……いないわ。普段は仕立て屋の手伝いで針子をしているの」
「へえ、そうなんだあ! けど、仕立て屋の見習いに若い男がいるんじゃねえの?」
「そうね、見習いの子は2人いるけど、ジレンと同じくらいかしら」
ジレンは「なんだ、つまんねえ」と肩をすくめたが、隣でクレメールは小さくほっと胸をなでおろしているのを見届けると、心の中でにやりと笑った。
そんな会話をした後は、クラリスが淹れたお茶を飲みながらまったりと過ごした。
クレメールは目の前でクラリスとジレンが楽しそうに話しているのを眺めていたが、そのあまりにも穏やかな気分に、急に泣きそうになって内心慌てた。
そんなクレメールにはちっとも気づかずに、ジレンはため息をついた。
「あーあ、美味かったなあ。もうクラリスのご飯食えねえのかあ」
ジレンが残念そうに言うと、クラリスは微笑みを浮かべた。
「あら、いつでも作ってあげるわ。よければうちにいらっしゃい」
「ほんとかよ! クレメールさんきいた? いつでも来いってさ、明日行こうぜ!」
クレメールは眉を寄せた。
「お前……少しは遠慮ってもんがないのか」
「えぇー、だってクラリスが……」
「さっきもきいただろう、クラリスだって仕事してるんだ」
クレメールの言葉に、クラリスは首を振った。
「ほんとうにかまわないのよ。仕事はしていますけど、夜ご飯は毎日作るもの。弟も妹も寮生活でうちにはいないから大丈夫ですわ」
クレメールは頭をかいた。弟も妹もいないから余計に大丈夫ではないのだ。彼女は結婚していない大人の男女が一緒に食事をしてもなんにも思わないのだろうか。まあジレンもいるが。それとも、ほんとうにただの「父親の部下」としてしか見ていないのだろうか。
そう考えると、クレメールは落ち込みそうになった。
片付けをすませると、クラリスは「では私はそろそろお暇しますね」とかばんを肩に下げた。
「あれえ、帰っちゃうの、クラリス」
ジレンが残念そうに言うと、彼女は彼の柔らかい髪を撫でた。
「またね、ジレン。今日は手伝ってくれてありがとう」
ジレンはその頭を撫でるクラリスの優しい手付きに嬉しそうに微笑んだ。
「うん、俺もご馳走さま」
クラリスはクレメールにも挨拶をしようとして振り返ると、彼は上着を着て、ランタンに明かりを灯していた。クラリスは目を瞬かせた。
「クレメールさん……? 夜ふけにどこか出かけられるのですか?」
クレメールは眉を寄せた。
「何言ってるんだ、あんたを家まで送らないわけがないだろう」
「え? わ、私を? そ、そんな……だってお疲れでしょうし、もう遅いから……」
「遅いから行くんじゃないか。いいから送らせてくれ。一人では帰らせないぞ」
クレメールの頑な言い方に、クラリスは「は、はい、どうもすみません」と小さく頷いた。
そんな様子の2人をにやにやしながらジレンは眺めていたが、クレメールが玄関を開けながら言った。
「ジレン、お前もさっさと寝るんだ」
「はいよ、まあ、急いで帰って来なくていいから、2人でゆっくりしけこんで……」
と、ジレンが最後まで言うのも聞かずにクレメールはバタンと扉を閉めた。
「行こう」
月は雲に隠れていたので夜道は暗かったが、街灯もちらほら見えていたし、クラリスはクレメールの照らすランタンが明るく感じた。
こうして夜に街を歩くのはクラリスには実はよくあることだった。帰港するたびに、父は妹のアネットと喧嘩をし、必ずアネットが家を飛び出した。よく弟マルセルと2人で夜の街を探し回ったものだ。
「……一昨年前からあの子は鍛錬場で寝泊まりするようになったし、父も亡くなったから、もうあんなことはないんでしょうけど」
歩きながらクラリスはその話をした。最後の方は、クレメールを困らせないように悲しく聞こえないように明るく話すようにする。クレメールが言った。
「彼女も大人になったんだろう。親父さんも喜んでるさ」
クラリスは前を向いたまま「そうですね」と頷いた。
隣を歩く男性は、クラリスが悲しい気分にならないようによく気を遣う。「男ばかりの船上にいると、みんな荒々しい、人の気持ちに気遣えない、粗野な奴らばかりになる」と父が言っていたのは嘘だと思った。
だって彼はこんなにも優しい。
クラリスはまさか彼が送ると言ってくれるとは思っていなかった。
ジレンと同じく、クレメールが娼館に行っていたことは匂いからクラリスも察していた。だからきっと疲れているだろうと思っていた。それに帰って来た時の足取りもどこかふらふらしていたように見えたのだ。
しかし今はしっかりとした足取りでクラリスを導いてくれている。
「今日は勝手にお家に上がり込んで、無断で調理場を使ってしまってすみませんでした」
クラリスがぽつりと言った。
「いなければ、諦めて出直すつもりでしたの。でも、ジレンに続いて家の中に入った時、あなたが言っていた言葉を思い出しましたのーー"家に帰っても一人だ"って。私も、弟や妹が家を出てから同じでしたので、誰かいたら嬉しいんじゃないかって思ったんです。今考え直したら、ずいぶん厚かましい考えだけれど」
クラリスがそう言った後、クレメールは少し沈黙してから言った。
「……そんなことはない」
視線を感じてクラリスはクレメールの方を見る。彼は真剣な表情を向けていた。
「帰ってきた時、き、きき、君がいて、すごくほっとした。たしかにびっくりしたけど、嬉しかった」
クレメールの言葉に、クラリスは目を瞬かせたが、「よかった」と微笑みを浮かべた。
「クレメールさんは、ほんとうにお優しいわね。普通なら怒って憲兵を呼ぶところよ」
「憲兵なんか……」
クレメールがそう言って何も言わなくなってしまったので、しばらくまた沈黙が流れた。月がちらりと顔を出した。少しだけ夜道が明るくなる。
クラリスがまた言った。
「ジレンはいい子ね。クレメールさんのお隣に住んでるのね」
「……あいつは孤児院を抜け出してきたんだ。酷い扱いを受けていたらしい。初めて会った時は身体が傷だらけだった。玄関の階段の影でうずくまってたから、最初は一緒に住んでめんどうをみてやってたんだ。そしたらそのうち自分だけで住みたいって言い出したから……」
クラリスはくすりと笑った。
「それであの小屋を建てたのね」
クレメールは頷いた。
「自分の力だけで生きていきたいらしい。俺にもあんまり頼ろうとしない」
「アネットに似てるわ。あの子も自立心が強くてーーめんどうをみてもらうのを嫌がった。でも、ご飯だけはおいしいおいしいって食べてくれるの」
クラリスがそう言ったところで、2人はとうとう家に到着した。
玄関の扉の前でクラリスはクレメールに向き直った。
「送ってくださってありがとう。お気をつけてお帰りになってね。それから……良いお仕事に就けるよう、祈っておりますわ」
クレメールは頷いてからさっと頭を下げた。
「紹介状のこと、ほんとうにありがとう。その……仕事が決まったらまた挨拶にくるよ」
「お待ちしていますね。お祝いにまた一緒に食事をしましょう」
クラリスの言葉に、クレメールは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そ、それじゃ」
「ええ、おやすみなさい」
「お、おお、おやすみ」
クラリスは、挨拶をしてからくるりと身を翻し、またもと来た道を歩いていくクレメールの背中を穏やかな気持ちで見守っていた。
「おやすみ」だと!
クレメールは気持ちが高揚して自然と早足になるのに気づかずにいた。
彼女とこんな挨拶を交わせるなんて夢にも思わなかった。そもそももう解雇になった時点で彼女とは会わないだろうと思っていたのだ。
なぜか彼女は俺の事を気にかけてくれて、あのガロワ氏に紹介状まで書くように進言してくれた。どんな時も気持ちを思いやってくれた彼女の父親に似ていると、クレメールは思った。
そして、仕事が決まったら報告に行くと次に会う約束まで取りつけた。おまけに、これはジレンのおかげではあるが、彼女に恋人がいないことも判明した!
と、クレメールはここまで考えている自分に気づき、気持ち悪く感じた。
彼女はあくまで世話になった「父親の元部下」の事を心配してくれているのだろう。それなのに、「おやすみ」の挨拶や恋人の存在を気にするなんて、彼女が知ったら思いきり引かれて口もきいてくれないかもしれない。
複雑な心境のまま、クレメールはいつのまにか自分の家にたどり着いていた。
玄関を開けると、扉のすぐ前のテーブルの上に、少年が腰かけていた。
「……まだ寝ていなかったのか」
「寝るわけねえだろ。どうすんだよ、クレメールさん」
ジレンが足をぶらぶらさせて言った。
「どうするって、なにが」
「仕事だよ。まさかまた船乗りにするわけじゃねえだろ?」
クレメールは怪訝そうに首を傾げた。
「船乗りじゃだめなのか?」
ジレンはテーブルから飛び降りてパッと両足で床に降り立った。
「だぁーーわかってねえな! クレメールさん、あんたちょっとは字が読めるんだろ、紹介文、全部見てみろよ」
クレメールは言われるままにポケットから丁寧に折りたたんだ紹介状を取り出した。
ジレンが言った。
「あんたは船乗りだ、だから確かに船乗りの紹介状はある。けど、大工や造船所の工員なんかもあるんだろう。クラリスはそう言ってたぜ。なんでわざわざ彼女は他の仕事の紹介状も書かせたと思う?」
「なんでって……貿易商船の募集に限りがあるからとか……」
「んなわけねえって! 商船なんていっつも人手不足だよ……ああ、わかんねえかな、あんたに陸にいてほしいからだよ!」
「……だれが?」
「クラリスが! 彼女はあんたに船員になるより陸に留まってほしいと思ってんだよ。だから他の陸での仕事の紹介文も書いてもらったんだ」
クレメールは眉をぐっと寄せた。
「そんなわけあるか」
「そうに決まってるって! 彼女はあんたに気があるんだ、だから夕飯だって……」
「やめろ。彼女に失礼だろう」
クレメールはいつになく怒ったように言った。ジレンは戸惑ったような表情を浮かべた。
「な、なんだよ……クラリスのことが嫌いなのか?」
「嫌いとかそういう話じゃない。きいてないのか、彼女の父親は、俺の乗ってた船の……」
「船長だったんだろ、大体きいたよ……ったく、なにを遠慮してんのか知らねえけどさ。少しでもクラリスに気があるんなら、ちゃんと彼女の気持ちを汲んで、陸の仕事を選んだ方がいいと俺は思うぜ」
そう言うと、ジレンは肩をすくめて「じゃあおやすみ」と挨拶をしてそのまま家を出ていった。
クレメールは息を吐いて上着を脱ぐと椅子に座った。
先ほどジレンの言った言葉が頭をよぎる。"彼女はあんたに気があるんだ"……いや、あるわけないとクレメールは首を振り、紹介状を机の上に並べた。
クレメール自身、船乗り生活で帆を縫う作業や、船底修理などできる腕は持っていた。コックがいない時もあったから料理番の仕事も一通りできる。だから繕い物をする仕立てや、大工仕事、食堂の調理場などはできるかもしれなかった。
くそ。クレメールは拳を握りしめた。ジレンがあんなことを言わなければ、迷わず貿易船員を選んでいた。やることは今まで通り、同じことだ。もっともそれはあのデュクレ船長の下だったからかもしれない。
クレメールは夜半過ぎになるまでずっとその状態で紹介状を見て考えていた。




