3. ガロワ商会
事務所窓口まで来たクラリス・デュクレは、受付に父の名前を述べた。
窓口の男はきっちりした黒髪で神経質そうな人間であった。クラリスの予想通り、彼は笑みを浮かべることもなく、また嫌な顔をすることもなく淡々としていて、書類やら何やらが入った箱を持ってきた。
「この度はご愁傷様でした。ギマール号の船長、ロベール・デュクレ氏の死亡通達書はこちらにも届いております。会長のガロワ様からご家族様に直接お会いしたいとのお話も出ておりますが、いかがなさいますか?」
「あ……もちろん、お受けいたします」
「かしこまりました、ではそのようにお伝えさせていただきます。またこちらが保険金に関する書類ですが……あなたは奥様ではなく、ご息女様であられますか?」
「は、はい、長女のクラリスです」
「ご息女様ですと、こちらの保険金の受取手はまず奥様のままでご登録されておりますので、奥様の死亡証明書も必要となります」
「母の……?」
「ええ、おそらくお住いの近くの教会で記録されてますでしょうから、司祭に調べていただいて証明書をこちらに提出していただけますか」
「は、はあ……わかりました」
「あとは……そうですね、こちらでお預かりしているのは、デュクレ氏の金庫の鍵です。こちらは保険金とは別にご家族様宛となっておりますので、今すぐお渡しいたします」
クラリスは鍵と数枚の書類を受け取ると、窓口を出て、ほうっと息をついた。クレメールさんの言った通りだわ、たしかにもし異を唱えるとしたら、強気でいかなければ流されてしまう。しかし、あれよあれよというまに事は進んでいったが、悪いようにはなっていないだろう。
まずは、教会である。行かねばならぬと思っていたが、やはりいざ行くなると、気が重かった。
教会のプレト司祭は、今週末に行われる婚姻の書類におわれていた。結婚記録の下準備も必要である。
港町は半分の教区に分かれており、向こうはトリニ司祭が、こちらはプレト司祭が受け持っている。分担されているとはいえ、港町の半分でも住人の管理をするのは大変だった。しかしまめなプレト司祭は、こうした行事にも気を抜くことはなかった。
その時、執務室のドアが小さく叩かれ、司祭は顔をあげると「どうぞ」と返事をした。
入ってきたのは若い娘で、頭にヴェールを被っていた。
「懺悔ですか、それなら告解部屋でおまちなさい、すぐにいきますから」
プレト司祭がそういうと、彼女は首を振ってヴェールを取った。見たことのある顔だ。おそらく毎週ミサに来ている教区民だろう。
「いいえ、司祭様。実は……2つ、司祭様にお願いがあってまいりました」
「お願い? なんでしょう」
駆け落ち婚などであったら困るなとプレト司祭は身構えたが、期待は外れた。娘は言った。
「私はクラリス・デュクレと申します。昨日、父が乗っていた船が入港して……父が航海の途中で亡くなったことをききました」
そう言って差し出された紙を受け取ると、プレト司祭は目を通す。確かにガロワ商会の発行で印字された死亡証明書である。どうりで彼女の顔は浮かなかった。
「それで……父の遺体は海に沈められたとの事なのですが、その……正式なお葬式とは言いませんが、十字架を立ててお祈りだけでもしてはいただけませんでしょうか」
司祭は目を細めた。
「もちろんです。遺品を埋めましょう。葬儀もできますよ。お父君もご安心なさるはずです」
クラリスはほっとしたような表情を浮かべた。
司祭は言った。
「よく話してくれましたね。海で死んだお身内のことは秘めている方も多いのですよ」
クラリスは下を向いた。
そうだ。父が死ぬ間際に司祭に看取られなかったということは、後ろめたかった。それに教会に自分から「父が死んだ」と伝えるのも嫌だった。常に父の死を知らされる側にいたかったのだ。
そんな甘いことを言ってられる歳でもないのに、馬鹿ね。クラリスは自分をそう叱りつけて教会へと赴いたのである。
「それから……商会窓口で父の保険金を受け取るために、母の死亡証明書が必要で……教会でもらってくださいと、言われたものですから……」
クラリスが言いにくそうに言うと、プラト司祭はさらに目を細めた。
「もちろんです。すぐに用意しましょう」
クラリスはまだ下を向いている。司祭は怪訝そうに首を傾げた。クラリスは小さな声で続けた。
「その……父の保険金を受け取るために、父の死を告知しに来たなんて……私、なんだか……」
強欲な気がしたのだ。保険金は暮らしていくために必要な資金になる。しかし結局は金の話だ。クラリスは、司祭にそんな話をするのはばちが当たるのではないかと思っていた。
しかし、プラト司祭はにっこり微笑んだ。
「気が咎めることは何もなさっていませんよ。父君も母君も亡くなっているのだから、受け取ってしかるべきものです」
クラリスははっと顔をあげた。司祭は続けた。
「それに、父君にも引け目を感じる必要はありません。その保険金は父君があなたのために残されたものなのですから。受け取らなければ彼が悲しみます」
クラリスは握りしめていた手をぎゅっと握った。司祭の言葉は温かかった。
「……十字架は教会の裏に、明後日までに用意できるようにします。遺品を持ってまた来なさい。母君の証明書は記録を確認したらすぐに発行してあげましょう。礼拝堂でお待ちなさい」
「ありがとうございます、司祭様」
クラリスは涙を堪えて頭を下げた。
翌日。クラリスは用意してもらった証明書を手に、再び商会の窓口にやってきた。
窓口にいるのは、昨日と違うもっと若い男性だ。
少し心配しながらクラリスは言った。
「クラリス・デュクレと申します。昨日、父ロベールの保険金を受け取るために母の死亡証明書が必要だと言われ、持ってきたのですが……」
若い男性は彼女から死亡証明書を受け取ったが、眉を寄せた。
「はあ? 保険金は成人を迎えていなければ受け取れませんよ」
クラリスは目を瞬かせた。
「あの……私、もう成人しております」
「へえ、何歳なんですか? それにいつ誰がどうやって死んだんですか? きちんと名前を言ってもらわないと」
クラリスはおかしいなと思いながらも答えた。
「ええと、ロベール・デュクレ、私の父です。父はガロワ商会のギマール号の船長をしておりまして、航海の途中で亡くなったとききました。その、病気で亡くなったとしかきいていなくて……詳しいことは、ガロワ様にきかなければ……」
「ああ、だめですよ」
窓口の男は口を挟んだ。
「ガロワ様は忙しいので、あなたに会ってる暇なんかありません。いつ、どうやって死んだか、ちゃんとご自分で調べていただかないと。それがはっきりしないと、保険金のお渡しは不可能です」
「え、そ、そんな……! でも、昨日は母の死亡証明書があれば大丈夫だと……そ、それに金庫の鍵だって受け取りましたし……」
「金庫の鍵ですって? そんなものをあなたにお渡しできるはずがありません、返していただけますか? きっと昨日の窓口の人間は頭がおかしかったのでしょ……いでっ!」
「おかしいのは貴様の頭だ」
窓口の男の頭が後ろから分厚い法律書でドゴッと音がするほど殴られる。
クラリスは彼の後ろの人物が目に入るとほっと胸をなでおろした。昨日の人だ!
どちらも黒髪であったが、法律書も持った男性は、昨日クラリスに詳しく説明してくれた人物だった。
「な、な、なにすんですか、ドヴィルさん! そんな鈍器で人の頭を……」
叩かれた男が頭を抑えて目尻に涙を浮かべているところを見ると、相当痛かったようだ。ドヴィルと呼ばれた昨日の男は無表情のまま返す。
「鈍器ではない、法律書だ。これでやれば貴様の頭も少しはマシになるかと思った。無駄だったが」
「何の冗談ですか、全然笑えないんですけど」
「全く、若い女性と見るとすぐこれだ。貴様のような奴がいるせいで、窓口の評価が下がるんだ」
低い声でそう言ってから、最初に担当してくれたドヴィルは、彼を押しのけて窓口の前に出るとにこりともせずにクラリスに頭を下げた。
「失礼しました。余興だと思って忘れてください」
「よ、余興……」
クラリスは目を瞬かせたが、あっと思い出したように言った。
「あ、あの……母の死亡証明書を、教会からいただいたので、持ってきました」
「はい、どちらに?」
「そ、その……その人に……」
クラリスが後ろにいる先ほどの男に視線を向ける。
同時にドヴィルも振り向いた。目は細まり、恐ろしい顔をしている。
「レナート、さっさと書類を渡せ」
言われた男は少し身をすくませたが、「へいへい」と肩をすくめてクラリスから受け取った紙を上司に渡す。
受け取ったドヴィルは証明書に目を通すとクラリスに向き直った。
「たしかに受け取りました。それでは規定された金額をこちらにお持ちしますが……全額でよろしかったでしょうか?」
クラリスは迷ったように視線を彷徨わせた。別に今すぐに、大金が必要なわけではない。だが、もしまた受け取る時にこのドヴィルという男でなければ、受け取れないかもしれないのだ。
少し考えているクラリスに、ドヴィルは言った。
「この後ろの男以外はまともな職員が揃っていますので、先ほどのようなことはご心配ありません。しかし……私が口出しする話ではありませんが、できれば全額持っていた方がよろしいかと。このガロワ商会は規模の大きい事業であるので揺らぐことはありませんが、ここ半世紀で情勢は随分変わっています。万一に備えて自分で持っておくに越したことはありませんから」
クラリスは少し考えたがそれもそうだと思った。
「では……全額でお願いします」
ドヴィルは頷いた。
「それではそのようにさせていただきます。それと……ガロワ様は、クラリス様がいらしたらすぐにお会いしたいと申しておりましたので、こちらが用意させていただいている間に最上階に上がっていただけますか、案内させますので」
すると後ろから先ほどのレナートという男が調子よく言った。
「俺が案内しますよ、執務室に連れていけばいいだけでしょう」
ドヴィルは一瞬だけ後ろを振り向いて「ほざけ」と低い声を出すとすぐにクラリスに向き直った。
「他を呼んでまいりますので少しお待ちください」
「……あ、あの、私はそちらの方でかまいません」
クラリスがそう言うとドヴィルは瞠目した。
「しかし……彼の失礼な態度で不愉快な思いを……」
「たしかに少し心配になりましたが、あなた様が来てくださったので安心しましたから。お気になさらないで」
ドヴィルは目をわずかに細めたが、心なしか柔らかい表情になった。
「……かしこまりました。では彼に案内させましょう」
それからザッと振り向くと、にんまりとクラリスに笑みを向けている男に怖い顔で詰め寄った。
「レナート、わかっていると思うがきちんと責任を持ってクラリス様をお連れしろ。彼女はガロワ様が直接会いたいとおっしゃるようなお方だ。もしもまた変な……」
「はいはい、わかってますって」
レナートと呼ばれた例の男は、上司の言葉を遮って言った。
「ったく、ちょこっとからかっただけじゃないですか、そんないちいち目くじら立てなくてもいいのに……さ、行きますよ、お嬢さん」
ブツブツと小さい声で不満を言った後クラリスに呼びかけた。
「あ……は、はい」
窓口の前の廊下を奥に歩いて行くと、長い螺旋階段に出た。上を見上げると、高い高いところに天井があるのが見えた。
「この上です。頑張ってついてきてくださいね」
レナートがそう言って登り始めたのにクラリスも従った。
階段は相当長かった。登っている間、レナートはずっとぺちゃくちゃおしゃべりをし続けていた。中には「この後お茶でもどうです」やら「美人ですね、恋人はいるんですか?」などという問いもあったが、クラリスは長い階段に息を切らし、ただ首を振るだけになってしまっていた。とうとう一番上にたどり着くと、クラリスはそこに座りこんでしまった。
しかし、レナートの方は全く疲れていない様子だ。彼は涼しい顔で執務室のドアを叩いた。
「ガロワ様、デュクレ氏のご息女をお連れしました」
「通してくれ」
扉の向こうから返事が聞こえるとレナートが扉を開けてくれて、クラリスは中に入る。
ガロワ氏は、クラリスが思っていたよりもずっと、優しげな顔をしていた。彼は作業している途中だったようだが、職務机から立ち上がると彼女に微笑んだ。
「ここまでよく来てくださった。オーギュスト・ガロワです。この度はお気の毒でした。全て私の責任です」
「い、いえ! とんでもありません」
頭を下げた老人に、クラリスは驚いた。
「父は……父は海の上で最期を迎えることができて幸せでした。陸にいても心はいつも海にありましたもの」
クラリスがそう言ったのに、ガロワ氏は首を振った。
「ところが海に出ると心はいつもご家族にあったようですがね。ほんとうに素晴らしい方を亡くした」
心から惜しむような言い方に、クラリスは涙がこみ上げてくるのをぐっと堪えた。
「詳しく申し上げさせていただくと、お父上は1月14日に突然発作を起こされて……」
ガロワ氏はクラリスに彼女の父がいつ病気にかかり、生き絶え、どの辺りに埋葬したのかなどを詳しく説明してくれた。
「……あなた方ご家族の生活は我々ガロワ商会が保障します。保険金とは別に、彼がこちらに預けていた預金もあります。そちらもお渡しできるように手配しましょう。それ以外でも何かお困りことがあれば、おっしゃってくださいね」
「……ありがとうございます」
クラリスは礼を述べた後、ひとりの男のことを思い出して言った。
「あの、クレメールさんという船乗りの方をお雇いになっているかと思います。彼が父の死を知らせてくれまして……とても良い方ですね。彼のような部下を持てて、父は幸せだったと思います。またすぐ航海に出ていかれるのですか?」
クラリスがこう言うと、ガロワ氏は眉尻を下げて気まずそうな表情を浮かべた。
「そうでしたか……実は、あなたのお父上の死を機に、私も引退時かと思いましてね。昨夜話し合ってこの座を息子に譲ることにしたんですよ。それで……、息子はもうすでに自分の新しい船長とクルーを用意しておりまして……」
クラリスは驚きに目を見開いた。
「え……そ、そんな……! あんまりではありませんか! それでは、それではクレメールさんや、他の乗組員の方はどうなるのですか?」
「基本的には家族を養っている者はそのまま継続して雇うことにしているのですが、その、クレメール殿は……その、世帯は持ってないそうなので……」
クラリスはまっすぐな目をして立ち上がった。
「紹介を。彼に次の仕事の紹介文を書いてさしあげてください」
「船乗りに、紹介状ですか? しかし……」
「でなければ、彼は路頭に迷ってしまいます。あんなに私たち家族に親切にしてくださったのに……父ならきっとそうします」
ガロワ氏は嘆願するような表情のクラリスを見ていたが、頷いた。
「わかりました。できるだけのことはしましょう」




