2. 温かな夕餉
クレメールにとって、夕食で温かい家庭料理を食べることになったのはほんとうに久しぶりだった。
テーブルの上には魚介のスープに大きくて柔らかい鶏肉、美味しそうなチーズ、新鮮な野菜やフルーツが並べられた。
極上のワインをクラリスが奥の部屋から持ってきた時、クレメールは心の中で歓声をあげた。この食事だけで、いくら払うべきなのだろうと少し心配している一方で、マルセルが「どうぞ、遠慮なく飲んでください」とワインを並々と注いでくれた。
クレメールとマルセルがパンとチーズをつまんでいる間に、アネットが湯浴みを終えて階段を降りてきた。
「うわあ、いい匂い!」
先ほど不満げだったのが嬉しそうな声に変わっていることにクラリスがホッとした表情になり、クレメールはそれを横目で見た。
クラリスが言った。
「さあ、アネットも座って。いただきましょう」
クレメールは今すぐ目の前の温かいスープをすすりたかったが、ワイングラスをぐっと握りしめると、ガタッと音をたててその場に立った。
3人がきょとんとした表情でクレメールを見上げる。
「……食事の前に、少し言わせてくれ。いいか、クラリス」
彼女が驚いた表情のまま頷くのを見ると、クレメールは言った。
「その……デュクレ船長は、乗組員全員に慕われてた。船長ってのは、普通船室に篭って滅多に甲板に出てこないような奴が多いけど、デュクレ船長は違った、俺みたいな底辺の人間にも分け隔てなく接してくれる、いい人だった」
クラリスは嬉しそうに微笑み、マルセルは誇らしげな顔になった。アネットは少し口を尖らせている。
クレメールは続けた。
「俺はデュクレ船長の下で6年世話になった。船上でのたくさんの事を教わったが、6年間デュクレ船長からいつもいつも話題になる話があった。あんたら姉弟のことだ」
アネットが「えっ」と少し驚いた表情を浮かべた。
クレメールはさらに続ける。
「申し訳ないことに、俺は馬鹿だからあんまり話の内容は覚えてない。けど、船長は事あるごとにあんたらを思い出していた。娘二人に息子が一人、これは乗組員全員が知ってることだ。あの帽子だって、あんたらがお金を貯めて船長に贈ったものなんだろう。そういうのも全部自慢げに話してくれた。それがあんたらの親父さんだ。6年間、それは変わらなかった」
アネットは唇をぎゅっと結んだ。クラリスは口元を押さえ、マルセルは目を細めている。
クレメールはアネットの方を向いた。
「確かに、船長は陸にいた時より船出していた時間の方が長いには違いない。けど、船の上であんたらを思い出さない日はなかったはずだ。俺にはそういう家族がいないからわからないけど、いつも心に置いて、支えにしてるんだってことはわかった。だから、船長を……親父さんをあんまり責めないでほしい。俺にとって……ほんとうに尊敬できる、俺を救ってくれた良い船長だったんだ」
そこまで言ってクレメールは、クラリスが目に涙を浮かべているのに気づいてギョッとした。泣かせるつもりはなかったのだ。しかし、クラリスは胸がいっぱいになったように微笑みを向けた。マルセルも姉を見て笑みを浮かべている。
その時、アネットが急にガタンッと音を立てて立ち上がった。
何事かとクラリスとマルセル、クレメールは目を見張ったが、少女は手に持ったワインのグラスをぎゅっと握りしめ、高々と掲げた。
「お父さんに乾杯!」
そう言い切ったアネットの目には、もう父親に対しての怒りは見えず、少し泣きそうな表情をしていた。
マルセルも笑顔で妹に続いて立ち上がる。
「父さんに!」
クラリスも笑顔で続く。
「お父さんに」
そうして立ったままだったクレメールもグラスを掲げた。
「船長に」
そうして、4人はグラスを合わせ、賑やかな夕食が始まったのだった。
「――俺たちが慌てて駆け寄った時には、船長はもう海に飛び込んでた。荒波の中すぐに船長の頭が見えて、溺れかけたコックをしっかり肩に抱いて船の方へ泳いでるのが見えた。あの時はほんとうに船長がすごい男だって思ったな」
クレメールが語る父の航海の話に、マルセルもアネットも目を輝かせて耳を傾けていた。クラリスも嬉しそうに話をきいている。
「溺れてるのを助けるのって大変なんでしょ? すごおい」
「今までの航海で何回の嵐にあったんですか?」
「何回って……数えきれないな。けど、あの船はずっとそんな中でもずっと持ちこたえてきたんだなあ。船長は船の手入れに厳しかったから」
クレメールは苦笑いを浮かべた。
「手入れに厳しかった? 父がですか?」
クラリスがきょとんとした声を出した。クレメールがワインを飲んでから頷いた。
「そうだ。甲板で少しでも傷んだ部分があったらすぐに修理させてた。船底掃除の時は何回もやり直しをさせられたんだぜ。フジツボ一つ残すことも許されなかった」
「ああ、わかる、そのこまかさ。洗濯とかは無頓着なくせに、剣の錆だけは一ミリも見逃さなかったんだよね」
アネットが同調して言ったのに、クラリスはスープを飲む手を止めて弟と顔を見合わせた。妹が父のことを知っていることに驚いたのだ。
マルセルが咳払いして言った。
「必要なことだからだろう。船底修理も、武器の手入れもいざという時怠っていれば困ることだ」
クレメールが頷いた。
「そうだな……ほんとに大事なことだからこそ、徹底的にやらせてた。船長はそれがちゃんとわかってたんだな」
「だから余計に悔しかった」
アネットが苛立たし気にパンに食いつき、咀嚼しながら続ける。
「やることなすこと全部正しいから、私が間違ってるって証明されてる感じがしたんだよね」
すると、クラリスはクスクスと笑い声を上げた。
「そうとも言い切れないわよ。お父さんも間違えることはたくさんあったわ。アネットの前では、いつも威厳ある父でありたいってぼやいてたもの」
「えぇ、あのお父さんが?」
「父さんは姉さんの前でだけ格好崩してたんだよ、きっと」
「そうかしら。船の上でも結構抜けてるところがあったと思うわ、ねえ、クレメールさん?」
クラリスが尋ねたのに、クレメールはハッとした。先ほどクラリスが笑い声を上げたのにぼうっとなってしまっていたのだ。涙を流す表情も微笑みも美しかったが、笑うとあんなにも花が咲いたようになるのか。
クレメールは咳払いをした。
「え、そ、そんなことは……。あ、いや、でも、名前覚えるのが苦手だったっけ。俺の名前もよく間違えられたーーというより、俺はずっとクリスって呼ばれてたな」
マルセルは驚いたように言った。
「クリス……? あなたの名前は……レイモン・クレメールさんでしたよね?」
「なにそれっ! 6年も一緒なのにそれはひどいんじゃない?」
アネットがそう言ったのに、みんな声をあげて笑った。
外はまだ雨が降っていたが、その楽しい夕食の時間はゆっくりと流れていった。
「ふわああっ、もう寝ようかな。明日も早いし」
アネットが眠そうにあくびをしたのに、クラリスはハッとしたように言った。
「まあ、ほんと。全然気がつかなかったわ。アネットの部屋片付けてあるわよ」
「ん、ありがとう……雨まだ降ってるね。クレメールさん、泊まってくんでしょ?」
クレメールは少女の言葉に目を瞬かせた。
「え? いや、俺は……」
クレメールは慌てて立ち上がる。窓際の席にいたマルセルが外に視線を移す。
「せっかく湯浴みしたのに、外に出たらまた濡れて冷えますよ。姉さん、空室あるよね?」
クラリスは頷いて、クレメールに笑みを向けた。
「ええ。よければ泊まっていってくださいな。前にも父が連れてきたお客様が泊まっていったことがあるのよ。ゆっくり休んでいっていただきたいわ」
クレメールはその心遣いに照れたように頭に手をやった。
「わ、わかった……そんじゃ遠慮なく……」
クレメールにあてがわれた部屋は、豪勢というよりも温かみのある家庭的な雰囲気で、小さな丸テーブルにイス、洋服ダンス、そして淡いグリーンのシーツの敷かれたベッドがあった。
クラリスは、客人をその部屋に通し、テーブルの上に水差しとカップを置いた。
「夜中に喉が渇いたらこちらをどうぞ。妹は屋根裏だけど、マルセルは階段の向こう側、私はここの隣の部屋にいますから。なにかあったら知らせてくださいね」
「あ、あ、ありがとう」
「それじゃあ、いい夢を」
そう言ってクラリスは部屋を後にし、ガチャリと扉が閉まった。
クレメールはしばらく呆然とその閉められた扉を眺めていたが、次第に心臓が高鳴っていくのがわかった。
ひとまず落ち着こうとベッドに座る。
信じられない、結局この家に泊まることになったなんて。クレメールは自分の座っているベッドを見た。俺の家の、木の板に薄い布を引いたような寝床じゃない、マットレスも枕もある、しっかりしたちゃんとベッドと言えるものだ。しかも、だ。隣の部屋で、あのクラリスが寝ているのだ……ゆっくり眠るなんてできるわけがない!
しかし、久しぶりに陸のベッドに触れたクレメールは、あまりの柔らかさと心地よさに、いつのまにかコテンと横になってしまうと、すぐに眠りについてしまったのだった。
窓から差し込む日差しが眩しくて、クレメールは目を覚ました。
知らない天井が目に映る。揺れていないから船ではない。
どこだ、ここ……娼館か? クレメールは自分の身体に手をやった。服は着たままだ。ベッドに寝ているのも俺一人。じゃあこの肌触りの良いシーツはなんだ? むくりと上半身を起こすと、目の前のテーブルに水差しが置かれているのが目に入り、クレメールは「あっ」と声をあげて今ここに寝ている経緯を思い出した。
なんだよ……結局ねちまったのか、俺は。少々落ち込みつつ、水をカップに汲んで飲む。おいしい。乾いた喉からすっと身体に染み渡っていくのを感じ、頭がどんどん冴えてくるのがわかった。
デュクレ船長の娘……クラリスは、初対面なのにもかかわらず、世話を焼いてくれた。まるで大金を出して豪華なホテルにでも泊まったような気分になったが、もうこの家を去らねばならないことを思い出し、はあとため息をついた。しかも窓から見える太陽は高い。もうとっくに朝は終わったようだ。
部屋を出て下に降りていくと、ちょうど洗濯を終えて空の洗濯かごを持ったクラリスが裏口から戻ってきたのに鉢合わせた。
「あら、クレメールさん。おはようございます」
「お、おはよう……」
クレメールは寝起きの自分が恥ずかしくて下を向き、寝癖がないか頭に手をやったが、クラリスはそんなことは気にした風もないようだ。
「昨晩はよく眠れて?」
「ま、まあ……」
「よかった。玄関を出て右のところに井戸があるから顔を洗ってらしてください。今日はいいお天気よ……はい、タオル」
ふわふわしたタオルを手渡され、クラリスの言われるままに向かうと、彼女の言う通り井戸があった。
井戸水で顔を洗うなんて何年ぶりだろう。ガラガラと引き上げた水は冷たく、クレメールのぼうっとした頭に刺激を与えた。そしてクラリスの用意してくれたタオルは柔らかく、昨日の石鹸と同じ香りがした。
近くにあるはずの町の喧騒が遠く聞こえる。鳥のさえずりが耳に入り、クレメールは久しぶりに穏やかな気分になった。
家の中に戻ると、クラリスは調理場にいるようだった。まさかとは思うが、もしかして、俺の飯を作ってくれてたりするんじゃないだろうか。そう淡い期待を抱いて調理場を覗く。クラリスはその視線にすぐ気づいてまた微笑みを向けてくれた。
「井戸の場所はわかりまして?」
「わ、わかった。顔を洗ったらやっと頭が覚めた。悪い、そ、その……俺は、ずいぶん寝過ごしちまったみたいだな。他の2人は?」
クラリスは首を振った。
「お疲れだったのだもの、しかたないわ。マルセルは軍部に、アネットは鍛錬場に向かいました」
「そ、そうか」
クレメールはアネットが昨夜「明日の朝が早い」と言っていたのを思い出していた。ちゃんと早起きして行ったのだろうなと思い切り寝坊した自分と比べて少し落ち込んだ。それならもう朝ごはんはないだろうと思い、さらに落ち込んだ。が、「さてと」と、クラリスが火を止める。
「お食事、少し用意しましたけど、もうお昼前ですから私もご一緒していいかしら?」
クレメールはその問いの意味をのみこむのに多少時間がかかったが、やがてゆっくりと頷いた。
クレメールは緊張していた。
テーブルを囲み、クレメールは美味しいスープをすすりながら向かいに座る麗しい女性をちらと見た。
昨夜は疲れていたし、雨も降っていて暗かった。それになによりマルセルとアネットがいた。しかし、今は身体は元気だし、空も晴れて部屋は明るく、おまけにクラリスと2人きりだ。
冷静になって考えると、わからない。なぜ俺のような男を家に入れてくれたのだろうか。クレメールは自分が女性の目を引くような顔をしていないことはわかっている。
「クレメールさん」
突然クラリスが言葉を発したのに、クレメールは慌てた。
「な、な、なんだよ」
なんだよってなんだよ。クレメールは自分の喧嘩腰の返事にがっかりした。しかしクラリスの方は真面目な顔で続けた。
「私……今日これからガロワ商会に行こうと思っているの」
クレメールはきょとんとした。そうか、そういえば昨日俺が行くように言ったんだ。クラリスは続ける。
「クレメールさんから父の思い出話を聞いたときはとても楽しかったのだけど、商会の窓口ではそうはいかないでしょう。きっと……きっと、お金や書類で泣くどころではないと思うの。だから……」
クラリスは持っていたスプーンを置いた。
「クレメールさんにはほんとうに感謝しています。改めてお礼を言うわ。昨日、アネットとマルセルは、あなたがいたおかげで安心した顔をしていた。もちろん私もよ、ありがとう」
クラリスの心のこもった礼に、クレメールは頭をかいた。
「い、いや……俺は別に……そ、その、湯浴みもさせてもらって……うまい飯も食わせてもらったし……」
途切れ途切れの照れた言い方に、クラリスは微笑みを浮かべた。
「またいつでも食事をしにいらしてくださいね」
クレメールは思わぬ言葉に「えっ」と声を漏らしそうになったが、いやいやと自分の心の中で訂正した。社交辞令だ。
「……そうさせてもらおう」
当たり障りのない言い方で、そう返事をした。しかし、クレメールの心の葛藤を知る由もなく、クラリスはパンをちぎりながら話題を変えた。
「クレメールさんは、これからどうなさるの、また……乗組員として船出を?」
「まだちゃんと考えたわけじゃないけど、そのつもりだ。俺には船を操ることぐらいしかできないから……。まあ、まずは二、三日陸でぶらぶらゆっくりするつもりだ」
「そう……くれぐれもお気をつけて」
クラリスの言い方はどことなく寂しそうな口ぶりのように聞こえた。
そうして、遅い朝ごはんをたいらげたクレメールは、やっと元上司の家の玄関を後にしたのだった。




