家族の戦争体験(と戦後) : 台湾の教師は野砲隊長に / 妹代わりに嫁いだ軍属女性通信士 / しょつくれどん大工 / 実家に帰る(※夫と共に)
#家族の戦争体験 というハッシュタグをツイッターで見かけ、まとめてみました。
しかも戦争以外の部分が意外と膨らみ、だいぶとっ散らかった文章です。
◆注意:ご理解・ご協力お願いします
話中に出てくる名称やエピソードは主に子供のころに聞いたものですし、聞き手(=著者)が当時の年齢でも理解できるよう言い換えてある可能性があります。一応、下書き時に変だと思った個所は夏の帰省中に調べてみました。が、基本が伝聞になってしまうので信頼度はあまりありません。
本来であれば資料を当たって修正するべきですが、そういった検証作業に不慣れなため、余計に間違ってしまう恐れを払拭できませんでした。間違いや作り話疑惑がある点については皆様にご指摘いただく方が良いかと思い、あえて記憶のみを元に書いています。
なお、本作は戦争や政治の善悪に関する思想信条を主張するものではありません。また、祖父母はおおよそ善人でしたが、完璧な人間ではありません。
文体は「~でした」「~だったようです」を特に意識せず混在させています。綺麗な文章で構成すると、うまく文章にまとまらない残念な文章力。修正が必要な個所がありましたらご教授ください。
分かりにくいかな? という部分は「子(私の父)」のように記載しています。[本人からの続柄]([私からの続柄])の構成。()が無い場合は文脈次第です。
◆母方の祖父:外地教師から野砲隊長へ
太平洋戦争以前は、日本統治下にあった台湾の学校で歴史を教える教師でした。内地の教師よりも給料が良かったため、家を支えるため台湾に渡ったようです。
太平洋戦争が始まってからすぐに日本(正しくは内地?)へ戻り、士官学校に入ります。士族の家系で、「武士たるもの戦へ向かうべし」みたいなことを親や親戚に言われたようです。
士官学校を出た後は下士官として、北方で野砲(野戦で用いる移動式大砲)部隊を率いました。樺太方面ではなく、占守という土地だと聞いています。北方領土の占守島でしょうか。
余談ですが。祖父の祖父(曾々祖父)は西南戦争に西郷側として従軍していたようです。そのため当時の戸籍を見ると、賞罰歴に「賊軍」と書かれているとか。
とはいえ幕末時点でも武士人口が異様に高く、農民なんだか武士なんだか分からない下っ端がワラワラいた地域。士族は大して珍しくもありません。人口の3割が武士階級って、どんな世紀末なのやら……。
野砲隊での生活はあまり快適なものではなかったようです。非常に狭い空間で寝起きしており、そのため寝返りを打たず真っ直ぐな姿勢で寝る習慣ができてしまいました。
晩年に入院した際は、床ずれ防止の寝返りをしない患者となってしまい、看護師さんたちにお手数おかけしました……。
戦時中の話は起床ラッパのメロディーだったり糧食をおいしく食べる工夫だったりと、そんな話ばかり。子供に聞かせることですし、話題を選んでいたのでしょう。
命の危険を感じたエピソードで聞いているのは1つだけ。風呂に入っていたところ、敵軍の戦闘機が襲来。攻撃(機銃掃射か爆弾投下か不明)が来たようです。上官が裸で逃げる姿を見せるわけにもいかないと考えて、風呂桶の中で膝を抱えていた、という笑い話。
戦争が終結した後は一足先に帰還できたため、ロシア軍に拘留されずにすんだとのこと。「部下が切符や弁当まで用意して見送ってくれた」と、よく自慢していました。
優しくて面倒見がいい人だったので、不思議な話ではないと私は思っています。歴史的にあり得ることなのかは分かりませんが。
下士官や末端兵をいじめていた上司は「ロシア軍に捕まる前に部下に見つかったら殺される」と逃げ隠れしていたとか。その後は不明です。
家族には「生死不明」の報が行っていたようで、死んでいるものと覚悟していたらひょっこり帰ってきたようです。
そんな祖父の口癖は「相手に恨まれることをするもんじゃない。今は良くても将来どうなるか分からんぞ」。
帰還の途中、一面焼け野原の中で機関車が停車した一幕があったようです。建物はなくなってしまったけれど、どうやら駅があった場所の様子。
原爆投下があった広島だと本人は考えていたようですが、どうなのでしょう。レールが使えるような状態だったのか、少し疑問。
戦後は軍属だったことから色々と制限を受けたようですが、教師に復帰。教育委員会や校長と喧嘩したため教頭までしかなれなかったとか。あれ、恨まれることしてる……。
優しい人で、私の母や叔父叔母に聞いても総じて「父さん(祖父)より母さん(祖母)の方が怖い」と言います。
あくまで雑談の場としてでしょうが、陸軍では天皇陛下のことを「てんちゃん」と愛称のように言う習慣があったらしく、祖父もその習慣を続けていました。その影響で母、そして私もそう呼びます。天皇誕生日は「てんちゃん誕生日」。
以前にネット上で、この言い方は不敬だ! みたいな論を見かけてびっくりした覚えがあります。普通の言い方だと思っていたのです……。
◆母方の祖母:妹の代わりに結婚した軍属女性通信士
繁華街に住む畳職人の家の生まれで、父親(曽祖父)が早くに胃ガンで他界したため、逓信省の通信士として働いていたようです。
戦争が始まると逓信省が軍の指導の下に置かれる組織改編があり、陸軍の航空基地に努めることになります。
はじめのうちは兵隊さんがいるのは怖かった、とのこと。
戦中はアメリカ軍の空襲がたびたびあり、結構な修羅場をくぐってきた様子。生来の気質もあり、戦争世代の女性としては珍しく、気が強い女性でもありました。
空爆で兵士が谷底に叩き落とされたのを目撃したことは、晩年にもよく口にしていました。衝撃的だったのでしょう。
持ち場に留まって通信を続けるよう命令された上、当の上官が真っ先に避難したときは、頭にきて命令を無視し逃げたとか。
空襲が激しくなってからは一般家庭の家を徴収し、機材を搬入して通信していたらしいです。
秘密基地みたい!と言った幼少の私に「秘密にしないと爆弾が降ってくるからね」と言ったシビアなお方。怖いって。
戦争末期には特攻隊の出撃がありました。鹿児島の知覧が有名ですが、それ以外の場所から飛んでいる事例もかなり多いのです。
出撃前は繁華街(家の近く?)へ連れていき、飲み食いさせて話を聞いたり、出撃当日に桜の花で戦闘機を飾ったりしていたようです。彼らは、少なくとも表面上は明るくふるまっていたとのこと。
「いけないことだって今は言うけど、あの時はそれが正しいと教えられていた。自分も正しいと思っていた。ただ悲しかった」と言っていました。
なお興味本位で特攻機の操縦席に入り込んで、兵士にしこたま怒られたことがあるとか。もうこの辺だと兵士が怖いとか思ってなさそう。
戦後は困窮した家族のこともあり、従兄(上記の野砲隊長)と結婚します。
性格が激しいことと、年齢が当時では嫁き遅れ(とは言え祖父より年下なのですが)になっていたため、本来は祖母の妹と祖父が結婚するはずでした。
しかし妹が開戦まもない時期に早世したため、代わりに祖母が嫁いだようです。見合いですらなく、一族内の合意による婚姻でした。
この話題になるたびに「優しい妹の方が結婚相手に良かったでしょ」と言って祖父を困らせていました。あくまで冗談というか、じゃれあいみたいなものですが。
結婚後は家事や子育てをしながら、生命保険会社の営業(いわゆる生保レディ)として働きます。若くから社会に出ていたこともあり、非常に先進的な考えをする人でした。
晩年も「美味しいんだから冷凍食品を使えば良いのに」「クーラーを使わずに我慢したって、一銭の得にもならん」と言う、その世代とは思えない現実主義者っぷり。
一番衝撃的だったのが「ムラムラして事件を起こして警察のご厄介になるくらいなら、その前にお金を払って本職の人にお願いしなさいね」。それを娘(母)がいる前で孫(私)に言うという。同じ大学の学生が性犯罪で逮捕され、ニュースになった時のことです。
◆父方の祖父:しょつくれどん大工
父方の祖父は農家の生まれです。父(私曽祖父)が筑豊の炭鉱で事故にあい両目を失ったため、帰郷して慰労金で農地を買ったとか。
そのため曽祖父は徴兵されることはなく、祖父も戦時中は小学生だったため、戦争の悲惨さとはあまり縁がなかったようです。田舎の強みで食べ物はありましたし。
次男だったため、戦後に大工へ弟子入りし独立します。昔ながらの大工の棟梁といった感じの人で、無口で頑固な人でした。
子供たち(父や叔父)の家を作っていたり、街で最初のハンバーガーショップを作っていたり、というのが自慢。
ある小学校の校舎を作った時は、僻地だったため妻(祖母)と就学前の次男(叔父)を連れて泊まり込みだったとか。もちろん規模的に複数の大工が関わっていますが、それでも半年以上の遠征でした。
なお家に置いて行かれた小学校低学年の長男(父)はトラウマものの寂しさを抱えた模様。
学校があったからね、仕方ない。祖母(曾祖母)は残っていたものの、目が見えないのであまり甘えられなかったらしいです。
大酒飲みが祟ったのか、50過ぎで脳梗塞を患い半身マヒと発語障害を負って大工は引退します。発語障害のせいで本人から昔の話を聞いたことがあまりなく、他の祖父母と比べてエピソードが少ないのもそのため。
まあ発語障害を負う前から口下手な人だったので、それがなくともあまり変わらない気もしますが。
一緒に木工をしたり、将棋の相手をしてくれたり。会話はないもののよく面倒を見てくれる人でした。
でも危険上等というか、失敗してケガをして覚える方針の古い感覚の人で、孫(私)に危ない作業をさせて妻(祖母)に怒られる場面が多々。
口癖(?)は「よぅ」。それ以外も無理をすれば話せたらしいのですが、喜怒哀楽をこれ一本で、語調の違いで表現していました。
余談ですが私の地元で大酒飲みや酔っぱらいのことを「しょつくれどん」と言います。
「焼酎をくれ」と言う人、あるいは、焼酎を食らう人 という語源だとか。
父も叔父も、今では祖父と同じく立派なしょつくれどん。自分も将来はそうなるんじゃないかと予感しています。
◆父方の祖母:三味線弾きの実家に帰えらせていただきます(※夫を連れて)
戦中は祖父と同様に小学生。盲目で三味線弾きの女性に引きとられ、義母の下で育ちます。私の認識だと曾祖母といえばこの人で、実の曽祖父母のことは知りません。
祖母が引き取られた経緯を聞いたことがありません。戦前、戦中、戦後のいつなのか、口減らしなのか親と死に別れたのか、不明。
ただ、盲目だった曾祖母の身の回りの世話をすることを期待されていた、ということをチラッと聞いたことはあります。同じことを子(父)に期待して半年の遠征に出かけるあたり、歴史は繰り返しますね。
戦中は祖父と同様に小学生でした。
学校の帰りに空襲警報が鳴って、田んぼの畔の陰に隠れたこともたびたびあったようです。しかし空襲に行く途中に通りかかっただけで、直接の攻撃に晒されることはほぼ皆無だったとか(無いとは言わない)
校庭を畑にしてカラ芋(こちらの方言で、中国から来た芋。標準語だとサツマ芋)を作っていたりと特殊な体制ではあったものの、食べものはあったようです。
ただし、戦争教育の一環ですいとんを作ったときは「こんなに塩味は効いた美味しいものではなかったし、カラ芋のツルで嵩増ししていた」とは言っていました。なお、セリフは意訳。訛りがキツいので、そのままでの記載は断念しました。
学校の一角に廟があり天皇陛下の写真が収められていて、毎朝挨拶をしてから教室に行くのが決まりだったとか。
私も通った小学校で、廟があった場所は現在はプールになっています。
他に竹槍訓練や消火訓練の話も聞きましたが、勉強するより楽しかった、程度の感想だった模様。
戦後に祖父と結婚。まあ結婚する年には戦後なので、当然と言えば当然ですが。盲目の親がいる同士なので、それ関係の繋がりでもあったのかもしれません。
いわゆる農家の嫁になる訳で、家事の他に農作業も期待されていたようです。義兄の子(父の従兄)も農繁期は学校を休んで農作業をしていました。
しかし、「この家は子を大学まで行かせてやれる環境にない!」と、数年で実家へと戻ります。生まれたばかりの子(父)だけでなく、夫(祖父)も連れて。つよい。
結果的に、子供たち(父や叔父・叔母)を全員大学や短大へ通わせました。
土地柄もあり、当時は「子供全員を進学させるなんて贅沢だ」といった風潮だったようですが、祖母も瓦工場で働いて学費を工面したとか。
両方の祖父母の中で唯一の運転免許持ちだったため、遊びに連れて行ってくれた思い出も多くあります。
印象深い言葉は「メシ食ったか?」。遊びに来た人に食べさせるのが趣味な、料理好きでした。
世話焼きで心配性で、でも気が強く行動的な働き者。
困っている人の世話をした縁や趣味友達を中心に、やたら広い交流を持っていたようです。
子供たち(父や叔父・叔母)や、孫(私や妹、従妹、従弟ら)も把握していいない人脈があって、謎の情報網があった模様。
どこからその話を得てきたの、と困惑させられること多々ありました。出かけた先で悪戯をして人に怒られると、なぜか祖母が事情を把握している不思議。
◆最後に
職業軍人・軍属と、戦争も遠い話の田舎の子供という、戦争体験の面では非常に対照的な組み合わせです。
「赤紙で連れていかれた」的な話が私にとってあまりピンとこない理由は、このあたりに理由があるのだろうか……と考えています。
父方の祖父母が住んでいた土地であり、私の実家のある地域では、地域会は江戸時代から続く宗教秘密結社の系譜だった! とか、母方の曽祖父が結婚した経緯って、今だと拉致監禁婦女暴行になるんじゃ…… とか、下書き時点でごちゃごちゃしすぎたのでカットしたものが多々あります。
こういうものもいつか書いてみたいものです。
ご指摘等あれば、ぜひ感想欄にてお願いします。
狭義のエッセイとは違い個人の思想が含まれていない文章ですが、ジャンル「その他」よりは「エッセイ」の方が近い……はず。
短編じゃなくて連載4部にしたほうが良かったんじゃないか、そんな気がしないではない。