第2章 その2 寮長さんに差し入れ!?
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エルレーン公国国立学院、男子寮入口。
夕刻。
とある訪問者が二人、入り口のアーチをくぐる。
敷石に落ちる影がのびる。
一つは長身の人影。
もう一つは小柄で華奢な影だった。
男子寮、女子寮、共に管理を任されている司祭シャンティ・アステルは、彼の息抜きの趣味でもある建物の掃除に熱中していた。
「ふん、ふん、ふん♪ 掃除はやっぱりいいですねえミハイル。きれいになると、やりがいを感じますぅ」
「そうですね殿下」
「殿下じゃなく!」
「でも、もう昔とは違います。アステル王家の身分を明かしているわけですから」
「……そういえば、そうでしたね」
てへっと笑うシャンティ。
片時もシャンティの側を離れないミハイルは、本来は護衛であるのに掃除に駆り出されても不満一つ言うでもなく手伝っていた。シャンティと違って掃除が趣味というわけではなかったが。
彼らは自分たちの勝手でやっていることを充分に承知しており、学舎から部屋に戻ってくる生徒たちに仕事を押しつけたりはしない。
楽しそうにモップをふるうプリースト・シャンティに、声をかけた人物があった。
「これは熱心に。精が出るね寮長」
「掃除は人間的な生活の基本ですからね……って、え、えええっ!?」
声に振り返ったプリースト・シャンティは、目を疑った。
佇んでいたのは、長い黒髪を緩く三つ編みにし、漆黒の長衣に同じく黒一色のローブをまとった美貌の青年。
そしてよく似た面差しをした、純白のローブに身を包み、黒髪をきちんと三つ編みにした儚げな美少女。
「これは《呪術師》様! わざわざお越しになられるとは」
シャンティの緑の目が輝く。
「可愛い妹ムーンチャイルドの、たっての望みだからね」
傍らに目をやった《呪術師》の目は、優しそうだ。
「差し入れを持ってきたの」
はにかんだ笑みを浮かべたムーンチャイルドは、藤で編んだ小ぶりのバスケットを提げている。
「規則ですので。《呪術師》様は良いのですが、ムーンチャイルドさんは男子寮に入れないのですよ、残念ですが」
シャンティが申し訳なさそうに告げる。
ムーンチャイルドは、こくりと頷いた。
「彼に晩ご飯をあげたいの。届けてもらえたら、それでいいの」
事情を知っているシャンティは同情の眼差しを向ける。
「そうですねえ。さぞ、彼のことは気にかかるでしょう。やっと再会できたわけですし。ですが生徒の目もあります。こちらにどうぞ」
シャンティが合図するより早くミハイルは掃除用具を片隅に寄せて置き、最も近い部屋に二人を招き入れた。
この部屋は外界と寮の境界になっている。
入寮する者はここで手続きを行うのである。
派手すぎず過度に安っぽくもない趣味の良いソファとテーブル、簡易な湯沸かしなどが設置してあった。
シャンティ、続いてムーンチャイルド、《呪術師》、最後にミハイルが入室する。
全員が揃ったところで《呪術師》が、魔法をかけて部屋を閉じる。
内部での会話が外に漏れないように。
「前から聞きたいと思っていましたが。そのバスケット。『亜空間収納』というやつですよね? とんでもないスキルじゃないですか。銀竜さまの加護で?」
「うん、そうだよ。えっとね、ちょっと待ってて。……はいっ」
ソファに落ち着いて話し始めようとしたシャンティの前に、ムーンチャイルドは、平たいバスケットを置いた。リトルホークのためにと持ち込んだのとは別のものだ。
「こ、これは!?」
シャンティの声音には、驚きと期待がこもっていた。
「寮長さんとミハイルさんに、これを」
蓋を開けて取り出したのは、白い厚紙で作られた平たい正方形の箱で、高さは4、5センチほど。表面には白地に赤い染料で文字のようなものが描かれていた。
そして、ほかほかと温かかった。
「は、反則ですぅ!」
興奮状態に陥ってシャンティは箱を開けた。
魅惑の香りがたちのぼる。
「これは禁断の……ピッツァ!? 異世界の味ではないですか!」
「誰にも見せられませんね」
シャンティとミハイルは額を付き合わせて悩んだ。
「ムーンチャイルド。あなたは、なんという罪深いものを持ち込むんですか……はあぁ」
深いため息をついたシャンティ。
「わたしは止めたのだ。……一応は」
苦笑しながら、《呪術師》。
「あれ? シャンティさん、これ好きだって思ったけど。きらいだった?」
小首を傾げるムーンチャイルド。
「好きですよ! だから困ってるんです!」
「こんなもの食べたら、シャンティ殿下が虜になりそうで怖いですね……」
「あっミハイルさんの好きなのも」
続いてバスケットから取り出したものを見て、今度はミハイルが頭を抱える。
「ミートパイ……」
(悪魔の食べ物です)と声を落として呟くミハイル。
「まったくなんという規格外の姫君でしょうね」
シャンティとミハイル主従は、盛大にため息をつき。
《呪術師》は、盛大に爆笑するのだった。
「え? おれのことじゃないよね?」
きょとんとしてバスケットを抱える少女。
ムーンチャイルドは、自分のいないところで『銀月の姫君』と呼ばれていることを知らない。精霊の力が銀色のもやとなって身を包んでいるのを、人は見るのだった。
「ね、おねがい。リトルホークに差し入れ届けてくれたら、これからも、いろいろなおいしいもの持ってくるよ」
遠慮がちに微笑みながら申し出る。
シャンティとミハイルに、断れるはずがなかった。
「それにしても驚きましたよ。氷の微笑のあなたが、ムーンチャイルドには、そのような優しい顔をなさるのですね」
「誤解だ。わたしとて氷でできているわけではない」
《呪術師》は笑う。
「われら精霊の愛し子のためならば、人に頭を下げることも厭わぬし、たとえ人間であろうと、一途に想われれば情もわくのさ」
「それがルーナリシア殿下というわけですね」
忙しくピッツァを口に運んでいたシャンティは、うっかり失言してしまった。
「……まあ、そうだな。彼女は、美しい。見た目などどうにでもなるが、あの高貴な魂は、なにものにも替えがたい」
おかげで、精霊が『のろける』のを目の当たりにするという珍しい体験をすることになったのだった。




