第1章 その33 世界の大いなる意思と対峙する
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「いつまで抱きしめているつもりだ?」
それは、香織さんの声ではなかった。
少し低めであるけれど張りのある涼やかな声。
ふと気づけば、おれのほうが、いつの間にか、がっしりと力強く抱きすくめられている。
完全に攻守が逆転しているっていうか。
これは覚えがある状態だ。
「えっと。《呪術師》だよな?」
「いかにも。この期に及んで間違えるようなら殴っている」
くすり、と。耳元で囁き、低く、かすかに笑う声の、意外な艶めかしさに、おれは。
怖じ気づいた。
そうだよ。
びびったよ!
気迫に負ける。
つぎに、なんとなく、腹が立ってきた。
「会いに来てくれるかと思ってたのに、こなかった。また来ていいか、なんて。気を持たせるようなことを言ってさ」
「子どもか!? リトルホーク。こちらにも都合があるのさ。いろいろとね」
そう良いながら《呪術師》は、おれを背中から抱いて、なだめるように頭を撫でる。
だから、子どもじゃ無いったら。
「カオリもおまえに会いたがっていたし。ムーンチャイルドは時間の許す限りいつでも出たがるし。チャンネル争いは熾烈なんだ」
「おれはテレビ番組かよ」
「違う。私の。わたしたちの……大切な、たからもの。ほんとはどこへも出したくないし誰の目にも触れさせたくない。ずっとここで、縛って閉じ込めておきたいんだ」
本気だよ、おれの《呪術師》は。
なぜなら、熱に浮かされたようにこう呟きながら《呪術師》は「銀龍様の加護」という名の《スキル》を発動させているからである。
おれを縛って自由を奪って。
身動きできないようにしておいて、押し倒してキスをしてくる。
自分でもおかしいけど、いやじゃない。
決して、嫌なのではなかった。
……理不尽だ。
しばらくの間、おれに情熱的にキスの雨を降らせたあげくに、ほおずりをして《呪術師》は、困ったように言う。
「……でも。ディープキスはしないよ。それをしたらムーンチャイルドが成長してしまう。まず間違いなく」
そこはおれも頷かないわけにいかなかった。
以前、そういうことになった、前科があるから。
「そうしたら、コマラパにも、精霊たちにも。特に……グラウケーに、怒られるじゃないか」
言葉の端々に、カルナックが幼かった頃の言葉遣いがのぞいて。
なぜか、少しほっとした。
「グラウケー?」
「おまえも出会っただろう、グラウ・エリスのこと。グラウケーというのは、遠い昔の、人間側の代表の一人が彼女に捧げた尊称さ。《海の青い輝き》という意味の、海の妖精の名前だとか。……それはこの際、関係ないけれど」
「彼女なら、おれも怖いな。ちびるかと思った」
マジな話。絶対者という感じがするのだ。
あれはもう、かなうわけがない。
「第一世代の精霊のナンバーワンだからな。彼女こそは「世界の大いなる意思」に等しい存在だ。睨まれるようなことはするなよ」
「気をつける」
とは答えたものの、《呪術師》は、浮かない顔だ。
「おまえは最初から睨まれているから不利だけどな」
「えええ!?」
「ルナに迫りすぎだ。もう少し、落ち着け」
迫りすぎ……そ、それは、認める。
「明日からは寮生になる。同室の者とも仲良くやってもらわなくてはならない。みな魔法使いになる決意をしているのだ、ヘンなのはいないから安心するがいい」
「わかった。がんばるよ」
「じゃあ、私も忙しいから、これで」
「待った! これで、じゃねえよ。このままじゃ身動きできない。解いていけよ!」
「ちっ、気づいたか」
冗談とは思えないようすで《呪術師》は舌打ちをして。ようやくおれにかけた捕縛だか魅了だかの効果を解いてくれたのだった。
その後は疲れてしまって、おれは《呪術師》が立ち去ったのを認めて、まもなくだと思うが、夢も見ない眠りに落ちていったのだった。
※
夢の中で、おれは。
女神に相対していた。
目覚めているときにはなぜか思い出せないでいる。
この世界そのものである、巨大な大地母神の前に、ちっぽけな豆粒みたいに佇んでいた。
『沢口充。おまえには、期待している。今度こそ、我が掌中の玉、カオリと添い遂げてもらいたい。彼女を悲しませるな。早死にするな。その上で言う。この国の腐敗した輩とも戦ってもらわねばならぬ』
「なんか、ハードだなあ」
『後悔しているか?』
「いいや」
おれはかぶりをふる。否と答える。
「感謝してる。おれはカオリを。ルナを。レニウス・レギオンを。幸せにする。セレナンの女神。そのために前世を思い出させてくれたんだろ?」
『その通りだ。覚悟や良し』
女神は、笑った。
『私はカオリに死を与えない。彼女は、生き続けるのだ。我が世界と共に。おまえには、たとえ死すとも、その彼女を助けるために、何度でも生まれ変わらせてやろう。だが、彼女が悲しむのは、できれば見たくはないものだ……』
「おれもだ。気が合うな。女神様」
たぶん、そこで。おれは本当に、寝落ちした。
次に目を開けたときには。
「呆れたねぼすけだな!」
「だいじょうぶなのかしら、彼」
学院に転校生として編入する、おれを。
迎えに来たサファイアとルビーに、情け容赦なく叩き起こされたのだった。
「ふんっ。《呪術師》様のご命令でなかったら、あんたなんか迎えにくるもんですか」
ルビーは相変わらずの直情タイプ。
「学院は大変よ? ムーンチャイルドのファンも多いんだから。せいぜい、がんばることですわね」
もはや慇懃無礼の域に到達している、サファイア。
学院生活、だいじょうぶか。おれ。
ルームメイト、いいやつだといいな……。
一つきりの袋を肩にかけて、おれは部屋を出た。
二人に連れられて、床に描かれていた魔法陣に乗ったのである。
出てきたところは、前回とは違い、学院の建物の中だった。
目の前にある、重厚そうな無垢材の扉。
「学長。お師匠さま。入ります」
サファイアが声をかける。
「よろしい。入りなさい」
答えたのは、《呪術師》か。
それともグラウ・エリスなのだろうか。
姿を見るまでは、わからない。
おれは、ごくりと、つばを飲み込み。
「なによ、のろま。お師匠様をお待たせするつもり?」
「お忙しい方なのですからね?」
おれへの態度にトゲのあるルビーとサファイアに促されて、ゆっくりと開いた扉の中へと、足を踏み入れた。
「ようこそ、リトルホーク。きみも今日から、我が学院の生徒だ。外国からの留学生も、きみの他にもいる。仲良くやってくれたまえ」
学長の机につき、穏やかに微笑むのは。
おれの、《呪術師》だった。




