第1章 その27 もしもこうだったら、という幸福な幻想
27
「では、行きましょう」
先導するのはレフィス・トール。
おれの左側にはラト・ナ・ルア。
右にはルナ(ムーンチャイルド)がいて、つやつやした黒い目で、おれを、期待をこめて見上げている。頬を赤らめて、手を差し出して。
「手、つなごうか」
こういうと、
「うん!」
満面の笑みがひろがった。
そうして、おれとルナは、手を繋いで歩いた。
たったそれだけなのに、ルナは、すごく楽しそうにして。
「えへへ。でえと!」
頬を染めて。くすぐったそうに笑う。
ああ。かわいい~!
「いいから急いで。注目集めてるわよ」
萌えている場合ではないと、ラトは冷たく言う。
「まったく、今がどういうときか、わかっているのかしら。建物に入ったら、近道を行くわよ」
足早に進みながらラトは手短に説明する。
「ここはエルレーン公の別荘だったの。もともと、平民の子どもたちのために学校を作る予定でフィリックス公子様が改装をしていたところでね。コマラパ師の弟子だったのが縁で、まるごと寄贈してくれたのよ。おかげで助かったわ。本拠地は必要だったから」
中庭を後にして、重厚な建物に、おれたちは足を踏み入れた。
「うわぁ」
思わず声をあげた。
ここが聖域だということが、わかる。
空気が違うのだ。
「ね。わかった? ここは精霊の森と同じなの」
ラト・ナ・ルアは、決してささやかではないが一般の成人女性のように豊満、とはいいがたい胸を張る。
「すべてはカルナックのためよ」
愛おしそうに、おれと手を繋いでいるルナ(カルナック)に、優しげな目を向けた。
※
近道をする、とは、本当だった。
どこをどう通ったのか、気がつくと、どこかの部屋にたどり着いていた。
重そうな、樫の木の扉を押し開けて。
まず目に付いたのは、大きな、天井まで達しているであろう、巨大な書棚だった。
それにいかにも魔術に使いそうな材料や、あやしげな雰囲気が漂っている。
「そこらへんに、適当に座って」
精霊のラト・ナ・ルアが、言う。
違和感ありありだよ。
「最初にいっておくわ。カルナックの設定のことよ」
聞かれるのを恐れるように、静かに言う。
おれは神妙に、拝聴した。
それは、こうだ。
三十数年前、レギオン王国で起こった事件。
国の教えである『聖堂』の教主ガルデルが、肉親、親族、全てを殺して、怪しげな神に捧げた。ガルデルはレギオン王国を出奔して南へ逃げ、そこで国を興して自らが皇帝となったのだ。
このとき、生き延びた人間が、いた。
「えっそれほんとか! すげえっ」
「バカなのクイブロ。設定だって言ってるでしょ。そういうことにしたのよ」
ラト・ナ・ルアの視線が、冷たい。
「大森林の賢者様、コマラパ老師が、事件の現場の捜査に同行していて、生存者を発見したの。瀕死で、ほぼ仮死状態で」
「それはだれ?」
「レニウス・レギオンと、母親のフランカよ。ガルデルも、最も愛した女性とその息子だけは、躊躇いがあって殺しきれなかった。コマラパ老師は、瀕死の二人を救うために精霊に助けを願い、私たちは応え、受け入れた」
「ここまでで、もう捏造なんですけどね」
レフィスは苦笑している。
「そして、コマラパは二人の保護者となった。フランカは、命の恩人であるコマラパと、いつしか好意を抱き会い、再婚するのよ。ロマンチックじゃない? それから数年を経て、カルナックが生まれる。家族四人は、ずっと精霊の森で過ごしていたの。ささやかな幸福よ。……本当にそうだったら、どんなによかったかしらね……」
そうではなかったことを誰より知っているのは、精霊たちだ。
「でも人間はロマンを求めるもの。だから、夢や憧れを提供してあげるのも、この世界の意思と繋がる存在としては、ある意味、義務かもしれないわ」
……せめて、美しい夢物語を。
「フランカは、精霊の森で静養していることになっているわ。死んだなんて言う必要も無い。この国へは、コマラパと義理の息子となったレニウス・レギオンが、啓蒙活動を行うためにやってきた。コマラパとフランカの間に生まれたカルナックを伴って。本名ではないのもガルデルへの用心だわ」
「ここまでは、わかったかな」
家庭教師のようにレフィス・トールが確認する。
「うん。そういう設定にした理由もわかったよ。たださ、それだと……レニウス・レギオンとカルナックは、別の人間ということになるけど、実際には……」
レニウス・レギオンとカルナックは、同一人物なのだ。
同じ魂を共有する、二つの意識。または、多重人格である。レニウス・レギオンは、殺されることなく普通に成長していたらこうなったという成人男性。カルナックは、精霊の森で匿われている間、時間の流れから隔絶されていたために幼いままでいた。
実は、もう一人、魂の底で眠りについている意識が、ある。
それは、この世界に生きる者にとっては異世界である、地球、21世紀の東京で生きていた前世の記憶を持つ、闇の魔女カオリ……並河香織さんの、心。
おれは呪術師にもカルナックにも香織さんにも心を奪われているというヘタレである。
でもきっとカルナックは、香織さんの小さい頃に似ていると思う。
考え事をしていた、おれを。
ラト・ナ・ルアは、哀れむように見つめた。
「だから、ごまかさなきゃならなかったのよ。レニウスとカルナックが同時に、一緒にいることを、衆人の前で明らかに見せつける必要があったの」