第1章 その12 影の呪術師(ブルッホ・デ・ソンブラ)
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「馬鹿者っ!」
いきなり、腹を殴られた。
おれ、リトルホークは、四年間も生き別れになっていた嫁と再会して、抱きしめて。
なぜか嫁は嫌がっていたけど、キスして、別れていた間に妄想していた、キスより先のこともしようとしていたところだった。
しかし突然、腹を殴られて、おれは二、三メートルは吹っ飛んだ。
結構な鋭いパンチだ。
「この、愚か者!」
激しい叱責。
飛ばされてぶっ倒れたおれが起き上がると、部屋の中央には。
おれの愛くるしい嫁のルナではなく。
長い黒髪を緩い三つ編みにし、アクアマリンのような淡い水精石色の目で、凍り付くような眼差しをおれに向けている長身の美女。
魔導師協会の長《影の呪術師》が、怒りに燃えて、立っていたのだった。
白い長衣とローブが、みるみる、裾のほうから漆黒に染まっていく。
その肩には真っ白なウサギが、ちょこんと乗っていた。
スアールとノーチェが、すり寄っていく。
「呪術師!? やっぱりカルナックだったのか? ルナは? なんで、さっきは他人みたいな態度を」
「バカなことをしたな。おかげで、ルナが引っ込んでしまった。あれは私のもう一つの人格だ。お前の嫁でもあるが。私は、おまえの伴侶では無い」
「……カオリじゃ、ないのか?」
「魔女カオリのことか。あれも、今はこの魂の底で眠っている。ルナも、そうなるかもしれないな……おまえが、うまくやれなければ、な」
「おれ、嫌われた?」
「ふん」
《影の呪術師》が、冷たく笑う。
「ルナは成長を止めてまで恋しい伴侶が迎えに来るのを待っていたのだ。それなのに再会した伴侶はキス魔でエロ親父だ。ショックを受けて閉じこもっている。当分は出てこないだろう」
「そんな! エロい願望があるのは認めるけどエロ親父はないよ。せめて青少年って」
「そんなもこんなもあるか!」
また、腹に一発くらった。
「あいたたたたた」
「そんなに強く打ってないだろう」
ふと、案ずるような顔をした。
見とれてしまう。やっぱり、なんて綺麗なんだ。
「心が痛い……」
「うるさい! いいか、用件だけ言っておく。リトルホーク。おまえはこのシ・イル・リリヤで行われていた大規模な誘拐及び人身売買組織を告発する裁判に出て、証言してもらう。それまでは魔導師協会で身柄を拘束、保護する。おとなしく待っていろ」
「待って!」
立ち去りそうになった呪術師を、おれは必死に引き留めた。
もうひとつだけ、聞いておきたいことがある。
「あんたのことを、どう呼んだらいい?」
「私のことは、呪術師でいい。そうだな。公国の上層部だとか、大公とか、対外的には……レニウス・レギオンと名乗っている」
呪術師は、おれのほうを振り返らず、言った。
「レニウス・レギオンだって!?」
「おまえは知っているだろう? グーリア帝国を建国した初代皇帝『神祖』ガルデル、かつて、レギオン王国国教である『聖堂』の最高権力者だったガルデル・バルケス・ロカ・レギオン大教王の、末の息子だよ」
「なっ!」
おれは頭をガツンと金槌で殴られたような衝撃を受けた。
「その名前は! なんで今?」
いったんガルデルに殺されて捨てられた後で、精霊たちに助けられたとき、以前の名前をなかったものとし、自分でカルナックと名付け直したと、教えてくれた。
その、昔の名前を……なぜ?
「だいじょうぶだよ、私の『小さい鷹』。誰かに無理強いされたわけではない」
振り向いたカルナックは、何かを振り切ったような、落ち着いた表情をしていた。
「この国で魔導師協会を立ち上げたとき、代表者がレギオン王家に繋がりがある者としておいた方が、通りが良かったから。それだけのことだ……厳密には、私はガルデルと血のつながりはないが、それを公言する必要もない」
それだけって。
そんなわけ、ないだろ!
その名を名乗るたびに、辛い記憶がよみがえるに違いないのに。
おれは呪術師に歩み寄った。
手を伸ばして、その白い頬に、そっと触れた。
なんて、冷たい。
「だって、おまえは辛そうだ」
すると、カルナックは。
(どうしたって、おれにとってはカルナックだ。どんな名前を名乗っていても)
「おまえの手は、相変わらず、温かいな」
と、呟いた。
おれのことなんか知らないと言ってたくせに。
やっぱり、おれの嫁は、ツンデレだった。