第八十六話 心にはなんの力も無い
ビルダーレッドは東京の下町で生まれ育った。東京出身者というのは、意外なほど都内の観光地について無知である事が多い。ビルダーレッドもそうだった。
上野に動物園がある事は知っていたが、訪れたのは今日が初めて。生まれて初めての動物園に、彼は軽い嫌悪感を覚えていた。
周囲に人気は無い。檻を破壊して逃げ出した怪物が、そこら中を我が物顔で歩き回っている。そしてお互いに『縄張り』を築こうと衝突している。
響き渡る奇声。威嚇する鳴き声、あるいは敗北を認める鳴き声。勝ち誇るモノは、無闇に吠えたりしない。ただ堂々と辺りを睨みつける。
縄張り争いに負け、死にかけている怪物。そして死んでしまった怪物。死体が腐り始まるまで、まだ時間がある。それでも辺りには腐臭が満ちている気がしてならない。
怪物たちの奇声が響く。そしてどこかの檻がまた破壊されている音が聞こえる。まだ怪物にはなっていない動物たちが、怯えたように弱々しく鳴く。
血の臭いが濃くなっている。何匹もの怪物が既に倒れて血を流していた。その臭いが鼻につく。そこに腐臭が追い打ちをかける。
平穏な日々の中では家族連れやカップルで賑わう上野動物園だが、現在は動物園全体がまるで救いのない畜生道に堕ちたようだった。
その畜生道の中で、自らの縄張りを獲得した怪物がいる。起伏の激しい園内で、一際高い場所を陣取る怪物。
かつて自分が閉じ込められていた檻の上で、アーマード・ゴリラはビルダーレッドを見下ろす。
全身ヨロイを身につけたように、どす黒い肌を硬質化させたゴリラ。よく見れば、体毛はほぼ抜け落ちているようだった。
遠目には岩の化け物にも見えるアーマード・ゴリラは、自らの縄張りへと踏み込んできたレッドに対して殺意をみなぎらせる。
「今度は逃げるなよ」
アーマード・ゴリラの殺意にも怯まず、レッドは言った。レッドが動物園に突入してから、既に何度も怪物と交戦している。そしてアーマード・ゴリラとの交戦はこれで三度目だった。
最初の交戦でレッドの強さを知り、即座に敗走を選んだ。二度目の交戦では、他の怪物との戦闘中を狙い不意打ちを仕掛けてきた。その不意打ちで、レッドは新調したばかりのヘルメットを破壊されている。
レッドの反撃を受ける前に、アーマード・ゴリラは再び逃走した。
そして三度目の交戦。明らかにアーマード・ゴリラはその体躯を二回りほど大きく成長させている。
『これが『アルファ』か……。生き物を化け物へと変異させるウィルス……』
ウィルスとの相性なのか、動物によって変異の幅にはかなりの差があった。まるで変異しない動物もいれば、現在も変異を続ける怪物もいる。
そしてレッドを見下ろすアーマード・ゴリラも、明らかに変異を続けていた。
檻の上から飛び降りて、レッドを威嚇するように睨みつけながらゴリラがやって来る。その眼光には殺意しか見えず、その体躯は暴威を具現化したかのような姿だった。
既に二度敗走しているにもかかわらず、ゴリラは堂々とレッドの前に立つ。
ゴリラが走り出した。吠えながら、拳を振り上げる。だが、レッドは閃光のように加速してゴリラの顔面を殴りつける。
ゴリラの顔面の硬質化した皮膚が砕ける。その破片が辺りに飛び散る。それでもゴリラは逃げ出さなかった。それまでの二度の交戦では、一撃で逃げ出していたにもかかわらず。
レッドは拳を握り、それを見つめる。
『このままでは、マズいな……』
レッドは目の前で変異を続けるゴリラを見て、『アルファ』の脅威を改めて知った。そして、そのウィルスが自分にも影響を与えるのではと危惧していた。
そしてその考えは正しかった。既にビルダーレッドは『アルファ』に感染している。
レッドは状況を分析する。可能な限り速く、動物園内の怪物を無力化しなければいけない。そしてメジャーレッドを捕まえる。
既に最優先事項は、メジャーレッドではなく『アルファ』の拡散を防ぐ事になっていた。メジャーレッドを捕まえるのは、これまでの罪を問うためでなく、これ以上の罪を重ねさせないためになっていた。
『このクソみたいなウィルスを止めなければ……』
メジャーレッドはどれほどの『アルファ』を隠し持っているのか。メジャーレッドは『アルファ』の予防、あるいは治癒するためのワクチンを持っているのだろうか。
それを確かめるためには、メジャーレッドを捕まえるしかない。だが、レッドは絶望がすぐ側まで迫っている事を予見していた。
『アルファ』への対抗策があるのならば、あの監視カメラの映像はなんだったのか。メジャーレッドの物と思われる強化スーツを着た、奇妙に長い手足を持つ生き物。
それがメジャーレッドの変異した姿だとすれば、彼自身も対抗策など持っていなかった事になる。
ゴリラはレッドの苦悩も知らず、再び拳を振り上げる。レッドはそれを避け、そしてまた拳を打ち込む。だが、二度目の拳はゴリラを怯ませもしない。
ビルダーレッドは決して弱くはない。だがろくに眠ってもいないコンディションに加え、動物園内を駆け回る事で疲労も蓄積されている。
そして眼前のアーマード・ゴリラも決して弱くはない。普通のゴリラですら戦闘力は侮れないが、アーマード・ゴリラはその上をいく。
ゴリラの豪腕がうなる。レッドは再びそれを避けようとした。だが、不意に背後から衝撃を受けた。
背中になにかが衝突した。激しい衝撃が背中から胸まで貫いた。身体がのけぞり、息が詰まる。
後ろを振り返ろうとした瞬間、ゴリラの豪腕がレッドを襲う。レッドはゴリラの拳をまともに食らった。
踏みとどまり、倒れる事だけは回避できた。だが、それだけだった。背後の敵の正体は分からない。そして眼前のゴリラは更なる追撃を仕掛けてくる。
レッドは歯を食いしばる。ゴリラの追撃と、背後からの襲撃に備えた。だが、そこにピンク色の閃光がやってきた。
「レッドさん。ゴリラの相手は任せてください!」
その言葉を言い終わらない内に、ビルダーピンクはアーマード・ゴリラにローリング・ソバットを決める。
レッドはその光景を混乱したまま見つめる。わずかな時間の中で、複雑な思いに囚われる。
『どうして来た!? このままじゃお前まで感染するぞ』
『助かった。これで背後の敵に集中できる』
『その技はイエローの技だな。意外とお前ら、仲良いよな』
叫びたい、怒りのままに。感謝の言葉を彼女に伝えたい。いつイエローから技を学んだのか聞いてみたい。
レッドは自分の思考が定まらないのを自覚したまま、後ろを振り返りそして背後からの襲撃者を殴りつけた。
狙いをつける事もなく振り回したレッドの拳は、襲撃者の胸部にめり込んだ。そして弾け飛ぶ襲撃者。その姿を見て、レッドは叫ぶ。
「ようやく姿を見せたな、メジャーレッド!」
異様に長い手足を持つ人型の怪物。それがレッドの拳を食らって吹っ飛んだ。ゴリラに追撃を仕掛けながら、ピンクも驚愕に目を見開く。
「えっ!? アレがメジャーレッド!?」
その姿はもはや人ではなく、グロテスクな姿の怪人と化していた。吹っ飛んだ怪人は、何度も地面に身体を打ちながらも体勢を立て直す。
立ったまま、ゆっくりと身体を伸ばす怪人。その姿は、うすいピンク色。全身の皮膚を剥ぎ取ったように肉が露出した姿。その四肢は不自然なほど細く長く伸び、その身体を覆う強化スーツは既に原型をとどめていないほど破壊されている。
グロテスクな怪人が両手を広げる。自分の存在を誇示するように。そして満場の観客からの声援に応えるように、彼は高らかに宣言する。
「僕はメジャーレッド! さあ、僕と握手をしよう!」
その怪人は目の焦点も合わず、視線は宙を彷徨っている。そして口から吐いた言葉もまるで意味が分からない。
「ビルダーレッド。僕と一緒に上野動物園を倒そうじゃないか!」
レッドの混乱はそのまま怒りへと変換される。
「メジャーレッド! 貴様はなにをしたのか分かっているのか!?」
複数のテロを企て、そして最悪のウィルスまで解き放った男。だが、彼はもう自分の罪を理解していない。
「そこにいるのはビルダーイエローとビルダーピンクだね。仲間割れか? いいね! ドロドロした仲間割れは、話題性があるよ」
かつては読者モデルからスタートした彼のキャリア。その整った顔立ちだけで多くの人の心を掴んだ。だが、今はその素顔もただの肉塊にしか見えない。皮膚を剥ぎ取ったような肉塊が歪む。それは彼の心からの笑顔。
メジャーレッドに気を取られたピンクは、ゴリラの反撃を許してしまう。豪腕が彼女を襲う。
ゴリラによって地面に叩きつけられたピンク。ゴリラはそのまま彼女を踏みつけようと前に出る。その動きを裏拳で制するレッド。
「大丈夫か、ピンク」
「なんとか。しっかし、アレは一体なんなんですか……」
立ち上がりながらピンクは疑問を口にする。彼女も『アルファ』の事は知っている。だが、人間が変異した姿を見たのは今が初めてだった。
彼女は疑問の答えを得る前に、目の前の怪物を創り出したモノが辺り一帯に広がっているはずだと気が付いた。
「これって、かなりマズいですよね……」
レッドは苦痛に顔を歪める。それは身体の痛みではなく、心の痛み。彼にとって大事な仲間の一人であるピンクも、既に感染している。
レッドは『怒り』、そして『絶望』した。その心理は、彼になんの力も与えない。それでも彼は自らを奮い立たせる。『勇気』を持って前を向く。それでも彼は『苦悩』する。
彼の脳内で起きている心理の衝突は、激しく火花を散らすように彼を混乱させているが、それは彼になんの力も与えない。
脳内で火花を散らす。肉体が燃えたぎる。だが、彼には打開策が見つからない。ただ愚直に、最初から決めていた事を実行するしかない。
『動物園の怪物を無力化する。そしてメジャーレッドを確保する』
しかし彼は気付いている。
『自分にはそれだけの力が無い』
拳を握る。せめて武器があれば。そんな思いも浮かんだ。だが、今更ダンベルの一つや二つで状況を変える事はできない。
そして一組の『グローブ』でもそれは変わらない。
苦悩するレッドの背後で、ピンクがゴリラを地面に叩きつけた。
「はい。これはさっきのお礼ね」
ピンクはいまだ顔を強張らせたままだった。彼女も既に絶望しかけている。この状況を打開する手段がない事を知っている。
それでも彼女は戦う事をやめない。そんな選択肢は無い。
「なあ、ビルダーレッド。なにを悩んでいるんだ? 僕と君が組めば、上野動物園だって倒せるはずだ。そうだろ?」
メジャーレッドの左右の目は、それぞれ別の方向に向いている。肉塊同然の顔を歪ませて、彼はレッドに襲いかかった。
細長い腕がビルダーレッドの肩を掴む。そのまま指先が強化スーツを突き破り、彼の身体に食い込んでいく。
『なんだ、この力!?』
メジャーレッドの片方の目が、ビルダーレッドを睨みつける。
「それとも……、お前も動物園なのか? ああ、そうか……。だから、僕に協力できないんだな。それなら……、お前も僕が倒す!」
ビルダーレッドは渾身の力を込めてメジャーレッドを殴りつけた。再び弾け飛ぶメジャーレッド。地面を転がって、また体勢を立て直す。だが、その『体勢』はより人間から遠ざかっている。身体を前に傾けて、細長い手で身体を支える。
その姿は脚が不足しているクモのように、不気味な容姿のメジャーレッドは、不気味な動きでビルダーレッドと向かい合う。
「お前がどれだけ強くても、僕は負けない。それが主役ってものなんだ。僕は主役なんだ。お前のような脇役に負けるはずがない。……死ねよ、動物園」
ピンクがゴリラの腕を極めて、そのまま腕をへし折った。ゴリラは悲鳴を上げながら、ピンクを振り払う。
ゴリラは片腕で自分の胸を叩く。自分を鼓舞するためなのか、それともピンクを威嚇しているつもりなのか。
ピンクはその姿を見て笑う。
「ゴメンね。私、アンタよりずっと強いゴリラを二頭ほど知ってんだ。だからそんなの全然怖くない」
ピンクが閃光のように加速する。一瞬でゴリラの背後に回り込み、そして後頭部に肘を叩き込む。だが、それだけでは倒せない。
衝撃で前屈みになったゴリラは身体を起こしながら振り返る。その動きに合わせてゴリラを投げる。
片腕を折られたゴリラをもう一度地面に叩きつけた。だがゴリラはゆっくりと立ち上がる。そして折れた腕を見つめた。
ゴリラの折れた腕が、メリメリと音を立てる。ピンクは顔がひきつっていく。なにが起きてるのか、想像もできない。
ゴリラの腕が激しく震え始め、その腕を覆っていた硬質化した皮膚が剥がれ落ちていく。そしてゴキンという鈍い音の後、腕の震えは止まった。
「さすがにそれは反則じゃない……」
折れたはずの腕を、試すように動かすゴリラ。確かに関節を極めてへし折ったはずの腕が、数分で完治していた。ただし、腕の関節は微妙に歪んだままになっている。
「硬質化した皮膚に、再生能力か……。どうやらウチのゴリラ以上の化け物だな」
レッドは笑う。悟ったような笑顔。彼は覚悟を決めた。死ぬ覚悟ではなく、死ぬまで抵抗する覚悟。
そのために、わずかでも勝つ可能性を上げなければいけない。
レッドは強化スーツに備わっている『四次元ポケット的ななにか』を起動させる。そして収納してあった一枚のカードを取り出す。
『レッド・ゾーン・グローブ』
ゴトウダから受け取った武器。それを受け取った後、彼は試しに一度だけ装着している。そして失望した。彼はそれを『役に立たない武器』だと判断した。
わずかに攻撃力を上げるかも知れないが、それ以上の事はできない武器。ダンベルの方が、よほど破壊力がある。そう判断するしかない武器。
しかし、ビルダーレッドは知らなかった。ゴトウダ・ツネヨシという男が、反則レベルの武器職人である事を。




