第八話 洗浄の絆
三人は冷蔵庫の前で呆然としていた。確かに珍妙な光景に少しばかりテンションは上がっている。しかし、いざとなると一歩踏み出す気が起きない。
「とりあえずローラさん、お先にどうぞ」
「え!? 俺から行くの? いや、いいけどね。確かになにがあるか分からないし。俺から行った方がいいよね。でもちょっと待って。なんか心の準備が……」
「いいから行けっす。ローラさん」
ローラさんは平均的な成人男性よりも軽く二回りは大きい。そのローラさんが窮屈そうに冷蔵庫の中へと入っていく。正確には冷蔵庫に偽装された隠し通路へ。
その奥はわずか二メートル程度の通路、その先は金属製の扉。その扉はよく見かける形状のものだった。取っ手もない二枚の扉。それがふすまか障子のように並んでいる。両側へとスライドして真ん中が開く事が容易に予想できる形状。
それをよく見かけるのは、マンションやデパートのような高層建築物。扉の横には下を向いている三角形のボタン。
「これ……、エレベータだな……」
「下向きのスイッチしかないって事は下に降りるだけのエレベータっすね。確かに上の階にはエレベータなんてなかったですし」
「電気代凄そうですね……」
「あんまり使わないでおこうか……。階段ないかな……」
「いや、使いましょうよ。なんで使わないんすか?」
「でも電気代がよ……」
「そうですね。電気代が……」
「え!? ちょっと待ってくださいっす。自分がおかしいんすか? 拠点の地下に続くエレベータがあるんですよ? 電気代とか言ってる場合っすか?」
ローラさんはゴツい指でエレベータのスイッチを押した。三角形のボタンがオレンジ色に光る。そして奥から響く作動音。
「いや、冗談だって。まあ、階段があればそっち使うけどな」
作動音が続く。
「結構長いですね。一番下はどのくらいの深さなんでしょう?」
「なあ、ハセガワ。クジョウはこのエレベータについてなにも言ってなかったのか?」
「なんも聞いてねえっす。ただ拠点の設備は自由に使っていいとしか」
『チンッ』という軽快な音が響き、エレベータの扉が開く。その中はごく普通のエレベータに見えた。三人が恐る恐る中に入る。中のボタンは四つだけ。『開』『閉』『上』『下』。
三人が乗り込んだ後、自動的に扉は閉まった。三人は四つのボタンを凝視する。時折お互いに顔を見合わせていたが、最後はローラさんが動いた。人差し指を突き出すようにボタンへと近づける。
試しに『上』を押しても反応はない。ハセガワの予想通り、地下へと続くエレベータだった。行き先は一つだけ、ローラさんはゴツい指で『下』のボタンを示してから二人に聞いた。
「そんじゃ下、行ってみるか?」
「行きましょう!」
ヨシダさんとハセガワは期待に満ちた目をローラさんに向けて、そして力強くうなずいた。
表向きのカレーショップの地下に拡がる、新しい拠点の真の姿を想像し、胸を熱くした。そして長い下降。長い長い下降。その最深部まで行き着くまでの時間は、拠点が恐ろしく深い穴の底にある事を示しているようだった。
そしてまた響く軽快な音。エレベータの扉が開き、三人の目の前には拠点の真の姿が広がる。
「くさっ!」
「なんですか、この臭い……」
「おえっぷ!」
エレベータの扉が開いた途端に彼らを襲う悪臭。それはまるで下水道の臭いだった。
「いや、ちょっと待って。これは酷いな」
そして拠点の地下はカレーショップの建物とほぼ同じくらい。
「何年くらい使ってないんすかね……」
コンクリート打ちっ放しの壁にはアチコチに妙なシミがついている。その不気味な空間を照らすのはオレンジ色の小さな豆電球。広さは恐らく二十畳程度。
その薄暗く不気味な空間には二つの金属製の扉がある。エレベータとは違い、頑丈そうな金属製の扉。その扉を見つめるローラさんも悪臭に顔をしかめている。
残りの二人も同様だった。明らかに生理的に受け入れがたい臭い。シンプルに言えば『蓄積した糞尿』の臭い。ヨシダさんは鼻と口を押さえてしゃがみ込み、ハセガワに至っては目の焦点が合ってない。
問答無用で吐き気をもよおすような悪臭に満ちた地下室。それが拠点の真の姿だった。
「さすがにこれは無いな……。どうする、もっと奥があるみたいだけど……」
「鼻で呼吸しなければなんとかなりそうですけど、服に臭いがつきそうですね。いったん上に戻りますか……」
「もうダメっす、このままだと自分死ぬっす」
そして三人は再びカレーショップへ。拠点地下への期待は無残に打ち砕かれ、悪臭で体調まで崩していた三人がそこにいた。
「あの扉の向こうっ側も一応調べとかないとなあ」
「確かにそうなんですけど、かなり厳しいですね。まずドンキーへ行ってマスクとか消臭剤を山ほど買い込んできましょうか……」
「おえぇえええええええええええっ!」
「じゃあ、ハセガワ。ちょっと行ってきて」
「おえぇええええええええええええええっ!」
真っ青な顔のはハセガワはローラさんの命令に嘔吐で応える。おおよその意味は『無理っす、マジキツいっす』。
ハセガワの応えに苦笑いのヨシダさん。ただし彼女も顔色は悪い。
「ちょっと休んだら二人で行ってきます……」
***
地下の悪臭から解放されて一時間後、ドンキーで買い物を済ませた二人は完全防備で戦いに挑む事となった。
「真面目な話……、行かないとダメっすか。もう地下は放棄って事で……」
しかしハセガワにやる気はない。
「でも下をなんとかしないと、あの臭いがエレベータから上がってくるって事も……」
もちろんヨシダさんもやる気はない。ただ地下の臭いがトラウマになりつつある。彼女は理解していた、このまま逃げてしまえば一生あの臭いに怯える事になると。
そして気が付いていなかった。別に臭いに怯えようと、今後の生活にはまったく影響はないと。
別に逃げたところで問題はない。それに気が付かないほど彼女もテンパっていた。
「ああ、多分気のせいだと思うけど……。なんか臭うな……」
そしてゴリラが余計な事を言った。その一言に弾かれたように二人は装備の確認を始める。
「ゴム手袋、よしっ! マスク、よしっ! ブラシ、よしっ!」
「消臭ビーズ、よしっ! ファブ○ーズ、よしっ! 洗剤、よしっ!」
「ああ、この水が入ったバケツは俺が持ったらいいの? 足りる、これで?」
ヨシダさんは無言で空のポリタンクを指差す。ブツブツと文句を言いながらも、厨房の水道でポリタンクに水を入れるゴリラ。二十リットル入るポリタンクが三つ。合計で六十キロ。
「いや、持てるけどね……。逆にこんな要るか?」
三人のソルジャーが戦場へとおもむく。地下の悪臭に対して、可能な限りの装備を持って。
無言のまま、三人はエレベータに乗り込んだ。そして鳴り響くブザー。重量オーバーだった。
ゴリラ、二〇〇キロ。水、六〇キロ。これで二六〇キロ、対してエレベータは三〇〇キロまでしか運べなかった。残りの積載量は四〇キロ。
「二度に分けましょう。まず私とハセガワ君で先行します。その後、ローラさんが続いてください」
「分かった。頑張ってね」
ローラさんの返事はどこか棒読み気味。その意図を察した二人が軽くゴリラを脅す。
「もし降りてこなかったら……、この消臭ビーズを口の中に突っ込みます」
「その後、ブラシをケツに突っ込むっす。腐りきった性根も綺麗にしないといけないっすから」
「…………分かった。すぐに降りるから……」
逃げるつもりだったゴリラが軽くヘコむ。それに見向きもせず二人の戦士が戦場へと降下を開始した。
軽快な音が響き、エレベータの扉が閉まる。その後、延々と続くエレベータの動く音がやたらと響く。そして心臓の音も、これまで経験した事のないほど激しく響く。
「自分……、この洗浄が終わったら……、結婚するつもりだったっす」
ハセガワが静かに微笑む。それに応えるように、ヨシダさんは胸元のポケットから一枚の厚紙を取りだした。
「見てくれ、ジョニー。これが俺の息子さ……。もうすぐ八歳になるんだ……」
取りだした厚紙、そこにプリントされていたのは『お○松さん』だった。二人は小さく笑う。そして戦場へと辿り着いた事を告げる音が『チンッ!』と鳴り響く。
「行こうぜ、ボビー。俺たちの戦場へ……、洗浄してやろうぜ……」
断っておくと二人は法に触れる薬物などを摂取している訳ではない。ただし二人は揃って正気を失っていた。
エレベータの扉が開き、そこに彼女たちは幻覚を見た。姿無き悪臭の化け物が拠点を占拠しているさまを。
エレベータの中でヨシダさんは業務用消臭ビーズの袋を開けた。そしてゴム手袋で中身をつかみ取る。
ハセガワはファブ○ーズを二つ手に取った。引き金を絞ると消臭液が噴射されるその道具を、二丁拳銃のように構える。
先行はハセガワ。エレベータから飛び出して、ファブ○ーズをやたら滅多に撃ちまくる。
「へい、どうしたチキン野郎! かかってくるっす!」
彼女たちにはゾンビのような化け物が大挙して襲いくる幻覚が見えている。それをファブ○ーズで蹴散らしていくハセガワ。
その後に続くのがヨシダさん。片手に消臭ビーズの袋を持ち、もう片方の手で掴んだビーズを部屋の中に投げまくる。
臭気が一カ所に集まった、そして自らに挑みかかる愚かな少女を嘲笑った。少なくともヨシダさんにはそう見えた。
「これ以上、貴方の好きにはさせません!」
八畳程度の広さの地下室に、ヨシダさんが消臭ビーズを投げまくる。
「ちっ、これじゃ切りがないっす! ボビー! もっとファブ○ーズを! もあ、ふぁぶ○ーず! もあ、ふぁぶ○ーず!」
「いいぞっ、べいべーっ! 逃げるヤツは悪臭だ、逃げないヤツは訓練された悪臭だっ! ホント、洗浄は地獄だぜぇっ!」
一心不乱にファブ○ーズを撃ちまくるハセガワ。同様に消臭ビーズを撒き散らすヨシダさん。
『チンッ!』と軽快な音が響き、そしてローラさんが到着。完全に悪臭で正気を失っている二人を見て、静かにポリタンクの水を置き、そのままエレベータの中に戻った。
見なかったフリをしてゴツい指で『閉』を押そうとした瞬間、ローラさんの腕を小さな腕が掴む。ローラさんは不意を突かれた驚きのまま、その腕を視線でたどる。そこには血走った目のハセガワ。口元には若干の吐瀉物が残る。
振りほどくのは容易かった。ゴリラの力に幼女が敵うわけもない。だが、不意を突かれたローラさんはその血走った目にそのまま怯んでしまう。ハセガワの口元が歪む、まるで笑っているように。
「逃がさないっすよぉ」
低い声で唸る幼女に、ゴリラに大人しく従った。
「ひゃっはー! おー、いえー! ゆー、えす、えー! ゆー、えす、えー!」
その頃、ヨシダさんは完全にトリップしていた。
***
それから一〇分後。なんとか正気を取り戻したヨシダさんが恥ずかしそうに部屋のすみでうずくまる。
「本当にお恥ずかしい姿をお見せして、すいませんでした。本当にすいません……」
辺りの悪臭はだいぶ軽減されている。だが、ファブ○ーズと消臭ビーズの微妙な臭いと、いまだ無くなった訳ではない糞尿の悪臭が混じり合い、ゴリゴリ団の拠点地下は人類がいまだ見た事のない異境と化していた。
「まあ、さっきまでとは比べ物にならないね。だいぶマシになったよ。……ところでヨシダさん、大丈夫? なんか脳みそが溶けちゃってたみたいだけど……」
「あっ、はい。なんとか大丈夫です。ただ今も気を抜くと……」
「無理しないでいいからね。あっ、とりあえず換気するか。この扉開くんだろ? まだ開けてないの?」
改めて三人は地下室を見回す。地下室は恐らく二十畳程度の空間。地上なら狭いとは思わないはずの広さだが、薄暗くコンクリートに囲まれた地下室では、異様な圧迫感を覚える。
まだ開けられていない扉の前にローラさんが立つ。軽く拳で金属製の扉を叩く。『ゴイン、ゴイン』と硬い音が響いた。
「結構頑丈そうな扉だな。いや、結構というか、かなりかな」
そう言って、ローラさんはかなり強めに扉を殴ってみた。それでも扉はビクともしない。よく見ると扉の上の方に『西側出口』とうっすら書かれたプレートが貼ってあった。
「おい、そっちの扉になんか貼ってないか? ああ、そこ。いや、もうちょい上」
「ああ、『東側出口』って書いてありますね。なんでしょう。この地下室、出口しかないんですか?」
ゴリゴリカレー地下。エレベータのみで降りる事ができる地下施設。そこは二十畳ほどの広さと二つの出口。
「あんま意味がないよな、これ」
ローラさんの言葉は若干的外れだった。悪の秘密結社同様に、ヒーローも本来はその正体を隠してきた。最近のヒーローはともかく、昔ながらのヒーローであれば拠点への出入り口が一つだけなんて事はあり得ない。
そしてそれは表でどれほど騒ぎを起こしても『秘密裏に拠点へと戻れる』事を可能にする。もちろんある程度の限界はあるが。
「外で暴れた後、歩いてゴリゴリカレーに戻ってきたら一発で拠点だってバレちゃうっすよ。そう考えると、二つも別の出入り口があるって便利っすね」
ハセガワは口元の吐瀉物を拭いながら言った。
「出口がどこにつながってんのか分からんけどな」
「それは今から調べましょう。なんにせよ、この拠点……」
ヨシダさんはそこで言葉を切った。ローラさんとハセガワを交互に見つめる。ヨシダさんの言葉を引き継いだのはローラさん。珍しく真剣な面持ちで、ゴリラは力強く言った。
「……結構便利だな。よっし! ここから始めようか、新しいゴリゴリ団を!」
珍しく格好つけているローラさんの言葉に、二人は力強くうなずいた。




