第3章
第3章
翻る布、布、布。
いや、花のようにも見える。
闇などどこにも無いのだと主張するように照らすライトの光。
ファッションショーの晴れ舞台だ。
現在、17時15分。リオンの出番は最後だ。今は個人に与えられた控え室で過ごしている。
扉を叩く音の後に返事を返す。
開けて入って来たのはグリノフだった。
少しだけリオンの背中を緊張が走る。
「…今、良いか」
「はい、大丈夫です」
「その、前は、悪かったな。あんな事を言っちまって。自業自得なのにな」
ぞんざいな口調だったが表情や声音に深い後悔と謝意が滲み出ていて、心からの謝罪なのだとよくわかった。
「いいえ、僕は全然気にしていません。だから、グリノフさんも、どうかもうお気になさらないで下さい」
悔いる者を安心させる笑みで言えば、グリノフは眩しいものでも見たというように一瞬目を細め、
「許してくれてありがとうな。あの時の事がきっかけで、改めて自分を見つめ直して、これじゃあダメだと初心に返って、色々と清算して、新たにモデルとしての自分を鍛え上げて、何とかトップモデルとしてこの舞台に立てたよ。社長の采配とお前があの場に現れてくれたお陰だ。ありがとうな」
「…僕は、何もしていませんよ」
全ては神の御導きあってのこと、それとグリノフの試練を乗り越えた心根の強さ。
「あなたが、訪れた苦難にも負けず頑張ったからです。僕は、そんなグリノフさんにこの先、幸多かれと祈ります」
挫折を挫折のまま終わらせる人間も多い。
「ククッ、なんだか牧師みたいな奴だな」
リオンの台詞に可笑しそうに笑うグリノフに、天使ですからと言いかけてやめた。グリノフなら冗談だと思って更に笑い転げそうだが、大多数の人間にヤバい薬を決めてる奴だってレッテル貼られるから本当の事でも言っちゃいけないワードとしてブライトから指定されているのだ。
「そんじゃあ、そろそろ俺の出番だからよ、今日のショーはお互い頑張ろうぜ」
あの後穏やかにリオンと雑談を交わした後、グリノフは晴れやかな笑顔で手を振り、リオンの部屋を出て行った。
もうそんな時間かと時計を見ると18時調度だった。なんだかんだと30分以上も話し込んでいた。
グリノフが出て行って入れ替わるように女性スタッフのエクレアが訪ねて来た。
「大変ですわ、リオさん!あなたの衣装が無くなっておりますのっ」
「衣装が?」
ツインテールを揺らし、高いピンヒールで走るエクレアの後を着いて衣装部屋へとリオンは向かった。
「ここにかけられていたリオさんの衣装だけが無くなってるんですのっ!あたしがお手洗いにここを出る10分前までは有りましたのに」
エクレアの言う通りリオンが着る予定の服が掛けてあった場所はもぬけの殻になっている。
リオン達がショーをやる為に着る服は所属事務所ごとに部屋に収められている。
以前から、ショーをやるのに集まった他の事務所のモデルが妨害や嫌がらせの為に、服を切り刻んだり捨ててしまったりという事件が多いことを受けて、主催者側が配慮したらしい。
美しく華やかな世界の裏の事情。
この部屋にはグリノフ、ミリィ、リオンの服があり着付けの為にエクレアが担当者として滞在していた。
「ごめんなさいですの。あたしが目を離してしまったせいですの」
頭を下げたエクレアは責任ある者として泣くまいと堪えるが、声には涙が混ざっている。
「いいえ、エクレアさんのせいではありません。どうか頭を上げてください」
「何を騒いでいるの?」
リオンがエクレアを慰めている中、ミリィが衣装部屋に入って来た。
「ミリィ…」
「っ、リオの衣装が無くってる!?」
「実は、そうなんだ」
ミリィは掛かる衣装を検めてやっぱり無いのを確認してから、
「…来て!」
リオの腕を引っ張り早足で歩いていく。
「ミリィ、いったい何処へ?」
「リオの衣装が無くなったのはきっと、あいつの仕業よ」
「あいつって…?」
辿り着いたのはグリノフに与えられた個室だ。
「ここ、グリノフさんの?」
ミリィがドアに手をかけて開ける。不用心にも鍵が掛かっていなかった。
中に入るとミリィはグリノフのゴミ箱へ真っ直ぐに向かい、中を漁る。
すると、中から無くなった衣装がバラバラにされて出て来た。
「やっぱりあったわ。今迄の嫌がらせもグリノフの仕業だったのよ」
「ミリィ…」
「二人とも歩くのが早いですわ。足の長さの違いかしらですわ」
ミリィが取り出してリオンに見せた所でエクレアが来た。
「あら、こんな所にありましたのね。でも、おかしいですわ。あたしがリオさんに告げに行った時、グリノフさんはリオさんの部屋から出て来たところですもの。グリノフさんがリオさんの部屋にどのくらい居たのかはわからないですけど、グリノフさん、リオさんの衣装を隠す暇なんて無いんじゃありませんの?」
そう、リオンの衣装が無くなった時間、グリノフはリオンの部屋に居た。
「あら、そうなの?リオ。じゃあ他の誰かの仕業か、グリノフがやらせてここに捨てさせたか、かしら」
誰か。グリノフが誰かにやらせる?あんなに誠意を見せて謝って来た人間が?あり得ないとリオンは結論付ける。
「ねぇ、どうしてミリィは、すぐにグリノフの部屋のゴミ箱に僕の衣装があるとわかったの?」
「なんとなく、かしらね」
弧を描く唇。今日の衣装に合わせられた紅の色。
「そう…なんだ」
悪魔が人を陥れる時に人を魅せる笑みだ。
元堕天使が、陥れられるなんて滑稽過ぎる。
「はっきり、言っても良いのよ。ミリィがやったの?って」
聞くまでも無い。ミリィがやったのだ。そう、彼女は全身で主張していた。
「あいつ、意外と腰抜けだったのねぇ。あれからあんたに何もしないで真面目にモデルやってるなんて」
「なんでですの?ミリィさん、リオさんと同じ事務所でとっても仲良しでしたのに」
「ええ、そう。最初は凄く可愛かったもの。綺麗でまるで天使みたいな青年。だけど世間に名前すら知られていない初々しい新人モデル。潰すのも生かすのも私次第」
ミリィはスッとリオンとの間を詰めると、芸術的な装飾を施された爪をした指でリオンの顎を掬い上げる。
互いの吐息が掛かる距離。
「長い睫毛、きめ細かな肌、宝石みたいな瞳。こんなに近くで見てもリオの美は損なわられない。だからかしら?いいえ、きっと違うわね。そんな見せかけだけで人は人に惹かれたりしない」
指を離し、リオンから一歩下がると、口元に自嘲的な笑みを浮かべ、眉間には苛立たし気な皺を刻み、美人の面に恐ろしくて醜い鬼を憑かせる。
鬼。いや、人だからこそ望む望まないに関わらず現れてしまう顔。
ミリィがリオンに初めて見せる表情。
「リオが初めてカメラの前に立った日から、誰も彼も、ケビーすらも、あんたばっかりっ。私はいつの間にかあんたのオマケになったっ。あんたが雑誌に載って褒められる度に苦しくて、酷い噂を流したり、些細な嫌がらせをしたわ。ねえ、知っていて?毎年この会場でやるショーのメインである最後に出るのは、カメラマンやデザイナーの投票で決まったトップモデル。去年まで私だったわ。でも、今年は私じゃない。あんただった。だから、社長であるケビーにリオが出るなら私は出ないって言ったわ。もちろん、本気じゃなくて自信が欲しかっただけ。『君が出ないとあのショーは始まらないよ。今回リオに決まったのは毛色が珍しいからってだけで、オレの中でいつまでも一番に輝き続けるモデルは君だけだ』そんな言葉が欲しかったのに。なのに、『良いよ。好きにすると良いさ。心身共に老いてきたモデルは必要無い』ですって……」
「…ミリィ、僕は」
伸ばしたリオンの手はミリィによって叩き落とされる。
「触らないで!何もかもあんたが悪いのよっ!あんたさえ、居なければ…私はこんなに醜い自分をっ…」
パァンッと泥々としたものを取っ払うような音が響いた。
エクレアが平手でミリィの頬を打ったのだ。
トップモデルの顔を。
「良い加減になさいな」
「エ…クレア、貴女、モデルである私の顔に手を出すなんて、どういうつもり」
「そうですわ。ミリィさんは商売道具、リオさんも商売道具、そしてミリィさんが破いたこの服も商売道具。デザイナーさんが全身全霊を込めて作ったたった一点物ですわ。それを披露する為に開催されたファッションショーに、ショーを盛り上げようと必死で努力して結果を出そうとする職人さん達。モデルや金儲けしか考えて無い何処ぞの社長の為にショーや服がある訳ではございませんの。ミリィさん達にどんな理由があろうと知ったこっちゃございません。自分に与えられた仕事が不満だからって嫌がらせをするお子様は舞台の隅で指を咥えて見てれば良いんですの。それと、リオさん」
「は、はいっ」
「リオさんの出番までに、このバラバラにされた服を直すから手伝って下さいませ」
「はい、わかりました」
裁縫道具を取りに行ってからリオさんのお部屋に行きますわと言って出て行ったエクレアの背を見送り、先ほどから一言も発しないミリィを伺う。
無表情に下を向き、リオンと目を合わせる気は無い。
良い音が響いたが、顔は腫れていないようだ。
「頬、冷やした方が良いよ。それと…僕がモデルをやり始めたのは、ある人の助けになりたいからで、でも、モデルって思った以上に難しい仕事で、これなら天使やってる方が楽かもって思っちゃったけど、表情とか仕草とか、上手く出来たらミリィが褒めてくれたから、僕は…」
「鬱陶しい。私、もうあんたに興味無いから」
リオンの心からの声はミリィには受け取って貰えず、床の白いタイルや淡いブルーの壁に消えていったみたいだ。
「……どうもありがとう…ございました。ミリィさん」
ミリィとの開いた距離に、リオンは感謝する時によく使われる文句に敬語をくっ付けて放ってみたけど、やっぱり届きはしないのだろう。
元はどれ位近くに居たかもあやふやだ。
与えられた部屋に戻ると、エクレアは何も言わず淡々と服を直した。
リオンが手伝った事といえば、出来上がったのを着てみただけ。
「あたしの仕事は、最高の服を、最高のモデルに、最高の状態で着せて晴れ舞台へと送り出す事ですの」
下手な慰めを口に出さず、代わりに自らの誇りを宣言する。
グリノフやエクレア、時折、人は天上の神々に匹敵するほど美しく眩しいものだ。
トップモデルとして導いてくれたミリィも、リオンにとってはそうだった。
けれど。
「出番ですわ」
歓声と光が幕となって降り注ぐ場所に歩み出る。
ウォーキングも、リオンより忙しいはずのミリィが付きっきりで教えてくれた。
所作に、何かと面倒を見てくれたミリィの面影が出る。
本来嬉しいもののソレは、暗い澱を作っていく。
この輝かしいばかりの舞台を終えた時、そこに嵌ってしまう予感がした。