序章
序章
神の存在なんて知らなかった。
だって、産んでくれた人が縋っていたのは男と酒で。
祈る事も知らなければ、何が罪かなんて知らなかったし、僕にとっては母親が唯一で全ての世界だったから。
でも、ある日与えられたホットチョコレートとコート。
生まれて初めて触れる暖かい優しさ。
神という言葉すら知らなかったけれど、知っていたら僕は彼を神様と呼んだかも知れない。
ブライト・マーティンは何もかも持つ男だった。
金を稼ぐ会社。美しい妻。素直でよく出来た息子。
才能に溢れ、外見、内面共に魅力的で友人知人が多く、とてもモテたから、十代という若さで全てを手に入れていた。勿論、いくら才能や多方で恵まれていたとしても並大抵の努力では無かったが、手中に収まっているのは、そうするのに値するものばかりだ。
転機が訪れたのは三十歳となり純真で好青年であった時など幻であったのだと言われても仕方の無い、清濁があれば間違いなく濁しか無いだろう人間となり、それでも外見と才能だけは変わらないからタチが悪いと自覚していた頃だ。
「何度も言わせるな。お宅みたいな小会社、ウチには救う価値もない。それにこっちはデカイ会社との取り引きで忙しいんだ。さっさと帰ってくれ」
「ですが、あなたに見限られたら、当社の社員は何人か首をくくらなければならなくなります。どうか話しだけでも聞いて下さい。お願いします」
「知るかっ。俺の利益にならない連中など、俺に全てを与え給うた神とやらも喜ぶんじゃ無いか」
「そんなっ」
ブライトに縋るように懇願するくたびれた男はもう己の視界に無いとばかりに電話をかける。
「今から暇か?」
所謂、愛人というやつだ。
「わかった。じゃあミッシナホテルで落ち合おう」
用意をして運転手に命じれば、すぐだ。
その前に部屋の掃除をさせなければと、ボディーガードを呼び、先ほどから
「どうか…どうか…」
と壊れた機械のように繰り返すものを片付けさせる。
引きずり出される際に何か叫んでいるがブライトにはもう聞こえてはいなかった。
美しい女と事を済ませて、女は部屋に置き、ホテルのロビーから出た時だった。
「こんばんは」
今まで抱いていたミスなんちゃらを獲得した美女なんて猿だったんじゃ無いかと思えるほど、やけに美しい、いや、神々しい相手に話し掛けられた。
ブライトは異性愛者だったからどうか女の子であってくれ、そしてどうか俺とお楽しみをという思いを込めて極上のスマイルで応じる。
「やあ、こんばんは。どうしたんだい?」
「貴方が何の慈悲も無く夕方に追い出した男が、首を吊って自殺しました」
「ウチの会社付近でか?」
「いいえ、ご自宅で」
「良かった。いや、まあ、そりゃあお気の毒に」
ブライトは気の毒なのはこちらの方だと思った。とんでもない美人に話し掛けられたと思ったら、とんだツマラナイ話題で少々ガッカリした。
「それで、審査の結果、彼の自殺の原因の一端は貴方にあると結論が出まして」
「冗談じゃない。俺は経営者として厳しい判断をしただけだ」
「ええ。そして裏から彼の会社を危機的状況に追い込んだ。経営者として。ですよね」
「なんだ。何が言いたい?金か?」
一部の者しか知るはずのない情報を知っている。どういうことだ。漏れたか?そんな筈は無い。関わった連中には口止料はたんまり飴と鞭をくれてやった筈だ。
「いいえ。ただ、天使である僕は、貴方に制裁が下ることを告げるため姿を現しただけです」
「は?天使?制裁」
プラチナの髪に夕陽色の瞳。透き通るような白い肌。神秘的な外見とは裏腹に、中身は熱狂的なオカルト信者か、それとも可哀想な子か。
「ちょっと、ブライト。何を一人でブツブツと言ってるの?疲れてる?」
さて、どうしたものか。と考えていると、先ほど部屋に置いてきた女に後ろから声をかけられた。
「ひとり?いや、君は何を言ってるんだ?ここに彼?彼女?がいるだろう?」
無礼を承知で差し出した指先が触れそうな距離。
腕を絡め横に並んだ彼女へ確認する。
「?誰も居ないわよ。ねえ、ブライト。本当に大丈夫?」
彼女の顔色を伺えば特に揶揄っている訳では無く、本当に心配しているようだ。
改めて、自称天使を見る。
天使の背後から伸びる両翼。
真っ黒で艶やかな羽。
「ごめんなさい。嘘付きました。天使は天使でも、僕、堕天使です。悪魔と堕天使の違いとか聞かれても説明出来ませんが、でも僕、聖水や十字架とか神っぽかったり聖なる系、苦手なんでやめて欲しいです」
堂々と嘘を告白し、あまつさえ、黙っていた方が良いだろう弱点の暴露。
通常の者ならば関わりたく無いと思うが、ブライトは普通とか退屈を嫌う男だったから、
「へぇ。良いな君。気に入った」
面白いと思ってしまったのだ。
ブライトが現在、妻と息子は旅行中で使用人しか居ない本邸に帰って来たのは久しぶりだった。
使用人達すら驚きを隠せず、夕飯は等と聞いてくるのに対し、食べてきたから放っておいてくれと反抗期の思春期みたいな返しをし、帰って早々に自室へと引っ込んだ。
「何か飲むかい?」
「ホットチョコレートを…とお願いしたい所ですが、生憎この身では飲めませんので、お構い無く」
「そうか。それで、君、名前はなんていうんだ?性別は?」
やれるかどうかばかりが気になって男か女か当たりをつけるのに忙しく名前すら聞いていなかった。
男か女かというより、あんな時間にあんな場所で未成年がいるはず無いと思い込んで失念していたが、少年もしくは少女といった年齢かもしれない。
仮に未成年の少女だとしたらそんな趣味は無いから手を出す気は全く無いし、少年だとしたら眼中に無くなる。
「リオンと言います。ファーストネームしかありませんので、お好きにお呼び下さい。天使というのは性別が無いのも多いのですが、僕は死んで天使として生まれ変わったので男です」
「あ……そう。男。男か。くそっ」
「他にご質問は?」
「君は制裁と言ったが、具体的に言うとどんな事が起こるんだ?」
長く重たげなプラチナのまつ毛を一度上下させ瞬きすると夕陽色の瞳で、ブライトの色男と持て囃される整った顔に収まる磨き上げられた銀の鋭い瞳をじっと見つめ、桜色の艶めいた薄い唇から発するには似合わない厳かさを持った響きで告げる。
「…そうですね。今まで受けた恩恵を失い、貴方に多大なる不幸が訪れます。あと、大切な人にも」
「恩恵を失って俺に不幸が?恩恵ってなんだ?金か?名誉か?」
リオンが大切な人にと言ったのに、ブライトは自分の事ばかりで聞こえていないようだ。
「様々なものです。ですが、今から悔い改めて慈悲の心を持ち、他者と接すれば最悪の事態は免れられるかもしれません」
「はっ、馬鹿馬鹿しい。何が恩恵だ。誰かに恵まれた訳でも施しを受けた訳でも無い。全て計算して使えるものは使い、俺は自分の力で全てを手に入れてきたんだ。慈悲だの悔い改めるだのくだらないっ」
「そうですか。……残念です」
心底といった風に呟きを落とし、リオンが見つめていた瞳を伏せた後、ブライトの電話が鳴った。
「ああ、なんだ?……何っ?ちょっと待て、どういうことだっ!?…おいっ!」
電話は会社からだった。経営者にとって最も恐るべき事態。
会社が倒産するかもしれないという連絡だった。