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とんとんとん、と本を指先で叩く音がしている。
町はずれの教会の一室。週に一回だけ会える友達との集まり場所になったそこで、レオン・ナルドはちらりと視線を上げた。
そこにいるのは、見るからに育ちのよさそうな女の子だった。
鳶色の冷たく切れ長の瞳。透きとおるような白い肌とは対照的な、重く長い亜麻色の髪を背中にまっすぐ伸ばしている。まだ少女という年齢なのにその容貌は大人びた美しさがある。
サファニア・カリブラコア。
高位貴族の息女。その彼女が、隠しようもなく苛立たしさをあらわにしていた。
「なあ」
「なによ」
レオンが話しかけても、サファニアは本を開いたまま顔を上げない。
ちなみに、手に持っている本は、先ほどから一ページたりとも進んでいない。まったく本の内容が頭に入っていないのだろう。
そんなサファニアに呆れつつ、苛立ちの原因を察しているレオンは言葉を続ける。
「クリスティーナが来ないからって、そんなカリカリするなよ。来週には学園入学だろ? 嫌でも会えるじゃん」
「クリスは関係ないわよ!」
やっぱり図星だったのか、顔をあげて噛み付くように声を荒げる。
「クリスが来ないからなに? あのバカがいないからって私がイラつくはずがないわ。むしろ平和でいいことじゃないっ」
「はいはい、おっしゃるとおりです、お嬢様」
明らかな過剰反応に、肩をすくめた。
なんでこうひねくれてるのか、レオンにはいまいち理解できない。素直になればいいのにと思う。
「まあ、クリスティーナも入学前でいろいろ準備があるんだろ。こっちに来れないのはともかくとして、サファニアの家には来てないのか?」
「……来てないわ。来なくていいわよ、あんなやつ」
ふん、と意固地になったサファニアがそっぽを向く。わかりやすいくらいの反応に、にやつきそうになるが、見咎めらたら面倒なのでぐっとこらえる。
「どうする? ボードゲームでもするか?」
「……もうやったじゃない」
確かにサファニアの言うとおりだ。それにサファニアはあのボードゲームの腕をめきめきをあげていて、レオンでは相手にならなくなりつつある。
さて、ならばなにをしようかと思案していると、教会の扉が開く音がした。
ばっ、と音が鳴りそうな勢いで反応したのは、もちろんサファニアだ。
「あー……俺、見てくるわ」
明らかに確認しにいきたそうなのに、立ち上がらずにじっとしている。そんなサファニアを見かねて、レオンが部屋を出る。
サファニアは、近づけば遠ざかる。だというのに、不器用過ぎて自分から近づきたい相手にも近づけない。
正直、面倒なやつだ。手間がかかるし、メンドクサイ。
「まあ、そういうとこも好きなんだけどさ」
周りに誰もいないということもあり、つい本心が言葉になって漏れ出る。
この二年間の付き合いで、あのわがままなお嬢様を割とどうしようもなく好きになってしまっていた。
我ながら身の程知らずだとは思うが、と苦笑してから礼拝堂に向かう。
少しでも好感度を稼ぐべく使いっ走りを引き受けて礼拝堂に入ったレオンが見たのは、見知った人物だった。
「あれ? マリーワさん、と……げっ」
「げ?」
レオンの語尾を捉えて小さく首を傾げたのは、ミシュリーだった。遠目でも輝いて見える金髪に碧眼。特徴的なまでにかわいらしい容貌は、忘れようにも忘れられない。
「こんにちは、レオン君。気持ちはわかりますが、表には出さないように」
「あ、いや、すいません……」
女の子に対して、言い訳のしようもなく失礼な行いだったので素直に頭を下げる。
ミシュリーは分かっているのか分かっていないのか。どちらにしても気にした様子はない。
「久しぶりだね、レオン。元気だった?」
「あ、ああ、うん。こっちこそ久しぶり。でも、なんでミシュリーが?」
「今日から、この子の授業をここでしますので」
「え?」
理解が追いつかないレオンの横を抜けて、部屋に入っていく。
「あ、ちょっ」
いまあの部屋にはクリスの登場を今か今かと待ちわびているサファニアがいる。レオンが慌てて二人を制止しようとしたが、遅かった。
「誰が来たの、レオ、ん……」
弾んだ声がしぼんで縮む。部屋の中でわくわくそわそわうずうずしていたサファニアが、期待外れの二人を見てぴたりと静止した。
「……あなたは」
「こんにちは、サファニアさん」
失望感からか、敵意に近い不機嫌さを向けるサファニアに、ミシュリーはぺこりと行儀よく頭を下げる。
「ごきげんよう、サファニア様。申し訳ありませんが、この部屋は、この子の授業に使わせていただきます」
「ミス・トワネット……」
入室してきたマリーワとミシュリーに、サファニアなにかを言いたそうに下唇を噛む。
仲間内ではどこまでも強気なのに、こういう場面では弱気になるサファニアに変わって、レオンが前に出た。
「えっと、マリーワさんでもミシュリーでもいいんだけど、クリスティーナって、どうしたんですか? あいつ、しばらくここに来てないんだけど」
「ここで待っていても無駄だと思いますよ。お姉さま、もう来ませんから」
レオンの質問に答えたのは、ミシュリーだった。
しかも質問したレオンに向けてではなく、サファニアの顔を見て言葉を続ける。
「学園に入学しても、きっとこれまで通りじゃないですよ。ここにお姉さまが来なくなったことで、薄々勘付いてたんじゃないですか?」
「……うるさいわよ」
ミシュリーのセリフが挑発じみた響きを伴っていたからだろう。怒りが内気に優ったのか、押し黙っていたサファニアが切れ長の瞳でミシュリーをにらみつける。
「なんであなたがクリスのことをわかったように言うのかしら。何様のつもりよ。クリスにべったりなだけのあなたが、いつクリスの代弁者になったの?」
「……やっぱり。もしかしてサファニアさんって、わたしのこと嫌いでしたか?」
「当たり前じゃない。かわいさを盾にして、なんでもかんでもたらしこめると思ったら大間違いよ。わざとらしくて鬱陶しいのよ、あなたは」
不穏になり始めた空気、レオンはあれっと冷や汗を流す。
いままで気がつかなかったが、もしやこの二人、仲が悪いのだろうか。助けを求めるべくマリーワを見上げたが、いつも通りの鉄面皮なマリーワに仲裁する気はなさそうだった。
「そうですか。わたしのこと、嫌いだったんですね」
「そうよ。だから、なに?」
口喧嘩なら受けて立つとばかりに目をらんらんと輝かせて戦意を高めているサファニアに対し、ミシュリーはくすりと笑った。
「でも、お姉さまの前でそれは言えなかった。……かわいい『ライバル』ですね」
「!」
サファニアがかあっと赤面したのは、怒り以上に羞恥の念が大きかったのだろう。
とっさに言い返せなかった時点で、サファニアの負けのようなものだ。レオンが庇おうかどうか迷っている間に、会話が途切れた絶妙なタイミングでマリーワが割って入る。
「ミシュリー。そこまでです。謝罪をなさい」
「はい、ミス・トワネット。……ごめんなさい、サファニアさん」
マリーワの介入に、ミシュリーはあっさりと矛を収めた。
「……っ。別に、気にしてないわ」
いっそ見事な引き際に、感情のぶつけどころをなくしたサファニアは意地を張るしかなかった。
「申し訳ありませんでした、サファニア様。この子は、まだまだ教育がなっていなくて、大変失礼なことを」
ミシュリーの謝罪に続けて、マリーワも頭を下げる。
「ただ、あまり長く外出されているとカリブラコア家の方々も心配されます。騒ぎになる前に、ご帰宅されるのがよろしいかと」
「……わかって、るわよ」
拳を震わせたサファニアが、立ち上がって部屋を出る。
「……」
「レオン君」
なにもできずに呆然と見送ってしまったレオンにも、マリーワが声をかけて促す。
「あなたもそろそろ帰りなさい。学園入学の準備もあるでしょう?」
「あっ、はい。それじゃ……」
「うん。じゃあね、レオン」
我にかえって立ち上がったレオンに微笑みかけたミシュリーは、完全にいつかの建国祭で見た時の無邪気な笑みだった。
「お、おう。じゃあな、ミシュリー」
顔が引きつりそうになったのをなんとか堪えられたのは僥倖だった。
二つ年下の女の子に言いようのない恐ろしさを感じつつ、レオンは先に出て行ったサファニアを追いかけるべく部屋を出た。
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これもひとえにここまでお付き合いいただいた皆様のおかげです。ポイントと感想は執筆の原動力ですね、やっぱり!
詳細は活動報告に記載してあります。
必見な表紙画像も貼り付けてあるので、ぜひぜひ。




