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廊下を小走りに駆けていく。リズムよく、跳ねるようにして、体を前に進める。途中ですれ違ったメイドが「危ないですよっ、お嬢様!」と注意してきたが、そんな言葉では止まれない。
自分ではどうしようもないくらい、最悪な気分だった。
胸の中で、情けなさがグルグルとかき回されている。感情が行き場もなく溜まって澱になるその様は、いつかシャルルに合わせる顔がなくなった時によく似た心境だ。
その時のことを思えば、解決策は簡単に思い浮かんだ。
言えばいいのだ。聞けばいいのだ。思いを吐き出せばいいのだ。溜まったもの全部、ぶつけたい人に受け止めてもらえばいいのだ。
なのに、答えが分かりきっていることを実行できる自信が、ない。
「うう……!」
大声で叫び出したかった。でも、そんな安易な方法で発散するなと叱りつける自分もいた。ならどうすればいいんだと暴れ出しそうになる私もいた。
その全部を押さえつけて、ごちゃごちゃしたものを持て余したままにたどり着いたのは、ミシュリーの部屋だ。ノックをする間も惜しんで、扉を開け放つ。
その勢いのまま部屋で大人しく本を読んでいた最愛の妹に飛びつき、思いっきり抱き付いた。
「ミシュリー!」
「ふえ? お姉さま?」
ミシュリーは私の突撃に驚きこそすれ、嫌がるそぶりは微塵もない。抵抗せずに当たり前のように私の抱擁を受け入れたまま、こてんと小首を傾げる。
「いきなりだけど、どうしたの?」
「ん。ちょっと待ってくれ」
そんなかわいい妹を迷うことなく絶妙な力加減でぎゅうっと抱きしめて一呼吸。慣れ親しんだミシュリーの体温に、少し心が落ち着いた。
しばらくこうしてひっついていたいという欲求が湧き上がったが、今日はダメだ。今日は、ミシュリーに癒してもらいにきたわけではないのだ。
だから私は名残り惜しさを振り切って抱擁をとき、真剣な顔でミシュリーの青い瞳を直視する。
「ミシュリー。ダメなお姉ちゃんを叱ってくれ」
「え? いきなりどうしたの、お姉さま?」
これ以上ないくらい真面目に頼む私に、最初飛び付いた時と同じような疑問を微妙に異なるニュアンスで返してくる。
きょとんとしたミシュリーの表情は、事態がさっぱり掴めていないもの特有の顔だ。確かに、いきなりこんなことを頼んだら、大抵の人はびっくりするだろう。でも、他でもないミシュリーにこそやってほしいのだ。
「いいから、訳も聞かずにダメな私を叱ってくれ。思いっきり強い言葉で活を入れてくれ!」
いまは猛烈に自分を罰したい気持ちに駆られている。だから思いっきり叱って欲しい気分なのだ。お父様に頼もうかとも思ったけど、お父様に叱られたら無意味に反抗したくなるので、その案は却下した。
たぶんミシュリーに「めっ」ってしてもらったら、気分が落ち着くと思うのだ。最愛の妹に自分の不甲斐なさをえぐられれば、全力でマリーワに挑めると思うのだ。
「お願いだ、ミシュリー」
「ええっと……うん。とりあえずわかった」
ミシュリーは人の感情に一際聡い子だ。経緯は分からずとも、私の熱意が伝わったのだろう。半歩だけ後ろに下がって、私と目を合わせたミシュリーの瞳には、もう戸惑いはなかった。
「お姉さま」
そっと呼びかけるのと同時に、ミシュリーがゆっく私の頭に手を伸ばす。
おお。叱ってといって、まず拳骨から入ろうとは予想外だ。でも、好都合でもある。マリーワの方針によく似た体罰を受ければ、目も覚めるだろう。
甘んじて受け入れようとする私の頭に、ミシュリーの手が当たる。
叱りつけるようなグーではなく、全てを受け止めるような優しいパーが、ぽん、と私の頭に乗せられた。
「……え?」
「よく分からないけど、お姉さまなら、きっと大丈夫だよ」
にこにこと笑って一段低い位置から伸ばしてきたミシュリーの柔らかい手のひらが、私の頭を優しく撫でる。
「ミシュリー……」
「えへへ。お姉さまにはちょっと悪いけど、嬉しいかも。お姉さまがわたしを頼ってくれて」
お願いとは反対の感触になにか言おうかと思って、やめる。
私がミシュリーを決して傷つけることをしないように、ミシュリーだって私を傷つけるようなことはしないのだ。
それに、ミシュリーに慰められるのは、やっぱり悪くない。
これはこれで、やる気が出る。
「マリーワさんとなにかあったのかな。うん。そういえば、そろそろ授業自体、終わっちゃうもんね。そっか。このままお別れだと、寂しいよね」
「……ん」
「でもわたし、知ってるよ? お姉さまにできないことなんて、きっとないって知ってるから」
妹に慰められて、力んでいた体から無駄な力が抜ける。染み込んでいく言葉に、心がほぐされていく。
「だから、世界一カッコいいお姉さまなら、大丈夫だよ」
「……うん、そうだな」
にこりと微笑むミシュリーの笑顔に、ずっと昔から知っていたことを改めて確信する。
不甲斐ない自分を打ち捨てて、無償の信頼を捧げてくれる妹にふさわしく、堂々と胸を張って私らしく宣言する。
「私は、世界一かわいいミシュリーのお姉ちゃんだもんな!」
「お姉さまカッコいい!」
いつだって無邪気にはしゃいで私の原動力になってくれる最愛の妹は、やっぱり天使だった。
後で思い返すことがある。
思い出したシナリオに叛逆し役目を放棄してただ目先の幸せを享受していた平穏の日々を懐かしんで、思うことがある。
この時の私は、幸福だった。幸せに満ちていたからこそ、目先の思いにとらわれてその結果がどうなるかなんて考えてもいなかった。
それは天才を自称した私の愚かしさによるものだ。
けれどもその愚かしさは、私が悪役令嬢になるためのわかりやすいきっかけの一つにしか過ぎない。積み上げられていた布石が形になって現れるのがこのすぐあとというだけで、七歳の私も、九歳の私も、十一歳の私も、十三歳の私も……いいや。きっと、五歳の頃に前世の知識を思い出した時からずっとずっと用意はされていた。そうなるようにと仕向けられた道筋は、あるいは私の心すら操っていたのかもしれない。悪役令嬢な私になるべく、私の人生は決まっていたのかもしれない。
それでも恨むような気持ちはない。
それを成したのは私の愛するべき運命なのだから。
私のするべきことは、ただその運命を愛するだけなのだ。




