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悪い噂というものは早く広がりやすい。
凡俗は低俗な風評を好む。面白おかしく誇張された風聞に、根も葉もないゴシップ。政治経済に関わるニュースよりもそういったものを面白がるのは、妬みそねみの裏返しだ。自分の立ち位置は何一つ変わらないというのに、他人が転げ落ちることで自分が優位に立っていると錯覚することで快感を感じているのである。
くだらないことだ。
はっきりと言い切れる。言葉で他人を貶めるなど、低俗極まりない。しかもその言葉になんの根拠もないことがしばしばあり得るのだから信じがたい。
それが庶民の娯楽だと言うならば、まあいた仕方ないと諦められる。彼らはそういう生き方をしている人間なのだ。そこに文句をつける気はない。
しかし本来高貴であるべき貴族ですらその特性を持っているというのは果たしてどういうことなのだろうか。
むしろ風聞での貶めは貴族のほうが苛烈になる傾向があるかもしれない。狭い社会を形成している弊害か、一度生まれた悪評は覆されるような事実がない限りはしつこく長く粘着質に面白半分で語り継がれる。
つまり何がいいたいのかといえば、私が例のパーティーでシャルルから逃げ出したという噂がいま貴族社会で広まっているのだ。
「ふ、ふふ」
その噂を知った私は、いま部屋で書き物をしていた。方々から聞いた情報をまとめて整理し、求める答えにたどり着こうとしているのだ。
広がった噂は、まだ憶測半分のものだ。才色兼備で知られるあのノワール家の息女が本当にそんなことをやらかしたのかと戸惑う声も多いらしい。あるいは変わり者で知られるシャルルのほうこそ何かしたのではという見方もある。私がいままで積み重ねてきたの淑女の偶像はやすやすと崩れ去るほど儚いものではないことが図らずとも証明できたことになる。
しかし、そもそもそんな噂が広まっていること自体に問題があるのだ。
「ふふ、ふふふふふふふ」
紙にインクを滑らせながら笑い声を漏らす。自室に響く笑い声は、我ながら不気味に聞こえる。だが、止まらない止められないそもそも止める気など微塵もない。
私の悪評の他にもノワール家に天使がいるらしいというミシュリーの良い噂も流れているようだが、そんなものはちょっとの慰めにしかならない。
私はいま、怒っているのだ。
「ふふふふふふふふふふふふふふふふ」
屈辱だ。いままで完全無欠を体現してきた私の品格が疑われるような噂を流されるなど、耐え難い。そしてこの私、クリスティーナ・ノワールが屈辱に耐え忍ぶなどという消極的姿勢に甘んじるはずがない。
敵がいれば叩き潰す。そこに迷いなどあるはずがない。
カリカリと休まず立てていた音がピタリと止まる。あちらこちらで囁かれる己の悪評をあえて聞き出し、そこから抽出した情報から逆算した答えがようやく出たのだ。
「ふふふふふ、できた……できたぞ!」
快哉とともに掲げたのは執念と怨念を込めて作った渾身のリストだ。
あそこで私の悪評を発信したと推測される人物表である。噂を聞き出した人物から、その発信者とあえて話を悪し様に捻じ曲げた人物を見つけ出してやった。噂の発生源を突き止めるのは非常に難しい。これをつくりあげるのは、天才の私にしても困難であったが完璧にやりとげた。
「くっくっく……よりにもよってこの私の名を貶めてくれるとはな。口は災いの元と知らしめてくれようじゃあないか!」
つくったリストを片手に、ごうっと気炎を吐いて立ち上げる。
さて、このリストに載った奴らはどうしてくれようか。まだ十一歳の私に振るえる権力はごく少ないが、それでもやりようはいくらでもある。この私、クリスティーナ・ノワールの名を永遠に忘れられないようにしてくれようではないか。
ミシュリーと過ごす時間すら削ってつくったリストなのだ。それを無駄になど、絶対にしない。私はやられたらやり返す女だ。世紀の天才、クリスティーナ・ノワールをこけにしたことを後悔させてやる。
そうやって気分が暗い方向に盛り上がっていたところに、コンコンとノック音が差しこまれた。
「お嬢様、よろしいでしょうか」
「む」
復讐に駆られてた私はむっつりと顔をしかめる。
今日はマリーワの授業もない日だし、いまは清掃の時間でもないはずだ。だというのにメイド風情が私の復讐を邪魔しようなど、相応の理由があるのだろう。これでミシュリー関連の話でなかったら、扉の外にいるメイドは思いっきり困らせてやろう。
「なんの用だ?」
「お館様がお呼びです。書斎でお待ちとのことですので、ご準備のお手伝いをいたします」
なんだ。お父様か。
この屋敷の最高権力者からの呼び出しと聞いた私は、ふむと頷いた。
「なら行かない。私にはやることがあるんだ。よろしく伝えておいてくれ」
「行ってください。お館様が泣いてしまいます」
このメイドも、最近は随分といい性格になってきたと思う。
前だったらこのくらいのあしらいで慌てふためいていたのに、としみじみ懐かしんでいたら、入室の許可もだしてないのに扉が開いた。
「失礼いたします」
「いや、おい。入っていいと言った覚えはないぞ」
「事前にお館様からお嬢様の部屋なら押し入ってもいいと許可をいただいてますので」
「え」
まさかの返しに呆気にとられてしまった。いや、確かにお父様からの呼び出しと聞いて、部屋に立てこもってメイドを困らせてやろうとは思ったけど、まさか事前にそんな許可をもらうなどという対処をされているとは思ってもなかった。
自分の信用のなさに唖然としている隙に、するりと部屋を横切ったメイドはクローゼットを開ける。
「さて、それではお着替えのお手伝いをいたしますね」
「………わかったよ」
天才といえど、事前準備を怠れば敗北を喫することもある。
いろいろとタフになったメイドの笑顔に、さしもの私も白旗をあげて素直になった。




