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木の上はいい。
屋敷を一望できるノワール家の大樹に登った私は、ほうと息を吐いた。
淑女として目覚ましい成長を遂げている私は最近めっきり木登りをすることもなくなったけれども、ノワール家の大樹は私の心を落ち着かせてくれる。私が生まれるずっと前から生きているこの木は偉大な存在だ。背中預けてそっと寄り添えば、その生命力を分けてくれるような温かみがある。
そしてやはり何よりの利点は、青々と茂る枝葉が私を覆い隠してくれることだ。
「安心しなさい、クリス。シャルル殿下は追ってきてないわ。ミシュリーが私の姉も巻き込んで殿下の相手をしてくれているみたいだから、そうそう簡単にあの会場は抜け出せないでしょう」
「そうか……」
しっかりした枝に腰掛け、膝を抱えてうずくまった私は下から報告される連絡事項に力なく相槌を打つ。
人に好かれる振る舞いを見るに、ミシュリーにはきっと社交の才能がある。当然だろう。いままでは人前に出ることがなかったというだけで、あの天真爛漫な笑顔と人懐っこい態度は養子という微妙な立場のわだかまりを溶かすほど温かいものだ。天使と接すれば自然と笑顔になってしまう。ミシュリーの天使力にかかれば、政界に巣食う魑魅魍魎ですらあっという間に浄化してしまうだろう。
それに比べて私はどうだろう。
私は逃げた。
天才として生まれたこの私が、逃げたのだ。目の前の難関に挑まず、背を見せてただただ逃げ延びたのだ。ああそうだ。認めてくれよう。一目散に逃げだした。それはもう、人目もはばからずに逃げ出した。
私は、シャルルから逃げ出した。
ぐっと唇をかみしめるが失態はなかったことにならない。後悔しても遅いし、今をもって立ち向かう勇気がわかない。
私はこんなに情けなかっただろうか。
「ちなみに後でちゃんと姉に説明してほしいんだけど、私は自分の意思で逃げたわけではなくて主催者の一人であるあなたに引っ張られて仕方なくあの会場を後にしたのよ? そこのところは分かっているわね。だから後であの姉に変なおせっかいを受けるいわれはないってことをきちんと説明しておいてね?」
「いくらでも釈明してやる……」
ノリノリであの会場から一緒に逃げ出したというのにやたら言い訳がましいサファニアを論破するのも面倒だ。おっくうに了承する。
ちなみに木に登れないサファニアはなぜかげしげしと木の幹を蹴り上げている。樹齢百を超えるこの木はもやしのサファニアごときに蹴り飛ばされたぐらいではこゆるぎもしないが、さっきからなにやってるんだあいつは。
「……人の家の木を蹴るな。お前はどこの野蛮人だ」
「いえ、こうやったら木登りしてる野生児が落ちてこないかなと思って」
「……」
手近に這いよっていた芋虫を一匹つまんでサファニアの頭めがけて落としてやると「ぴぎゃぁ!?」という面白い悲鳴が上がった。
「な、なにするのよ!」
「よかったなサファニア。木を蹴ると虫が落ちてくるということを学べただろう? 我が家の大樹を足蹴にしたお前が悪い」
「ぐっ……!」
文句をつけてきたサファニアを、ぐぅの音ぐらいは出る程度に言い負かせてやる。たぶん下からこちらをにらみつけているんだろうが、青々と茂る枝葉に遮られてその視線はこちらまで届いてこない。
「でもクリス」
また虫を落とされてはかなわないということか、ようやく木を蹴るのをやめたサファニアが問いかけてくる。
「あなた、いつまで逃げるつもりなの?」
サファニアの言葉は、思った以上に深く突き刺さった。
「正直、外面がいいあなたがあの会場で逃げ出すとは思わなかったわ。人の目がある中で今日みたいにあからさまな避け方をしたら、あなたの評判も下がるわよ。というか、今日のだけでも変な噂が立ってもおかしくないわ。それでも逃げ続けるつもりなの?」
「……心が落ち着くまでだ」
「二年経っても落ち着かないじゃない」
それは本当にサファニアの言う通りで、何ひとつ言い返せなかった。
「二年経ってどうにもならないものが、この先どうにかなるの?」
「……」
悪態をつく気力もなく、抱えた膝に顔をうずめる。
分かっているのだ。
私だって分かっている。今の自分の心が放っておいたら落ち着くものではないということぐらい、うすうす察している。時間に身を任せていたってどうにもならないどころか、どんどんと悪化していくだろう。
だからきっと、シャルルと改めてちゃんと顔を合わせるのが一番の解決法なんだってことぐらい天才の私は気が付いているのだ。
でも、それでも、だって。
「だって、二年だぞ」
口からこぼれたのはただの言い訳で、それでも紛れのない本音だった。
「私は、二年もシャルルから逃げたんだぞ?」
答えが分かってるのに心が動かないことがあるのだ。
始めは恥ずかしいだけだった。自分の気持ちを自覚して、衝動的におでこにキスなんかしてしまった直後で顔から火が出そうなほどの羞恥心に襲われていた。
でも一回逃げたらどんどん顔を合わせずらくなった。次にどんな顔をすればいいのか、どんな言葉を掛ければいいのか、だんだんとわかなくなっていった。前はなんにも考えなくたって動けていた口と体が固まっていった。そうするうちに次第に恐ろしい気持ちが差し込んできたのだ。
二年間、ロクに顔を合せなかった。
逃げてばっかりだった。ミシュリーに相手を任せたり、お父様に役目を回したり、一回だけメイドに押し付けたことすらあった。この二年で私がシャルルとまともに顔を合わせて話したことが、何回あっただろうか。
シャルルは、そんな私のことを嫌いになっていないだろうか。
さっきの会場で出会ったシャルルを思い出す。
あの時のシャルルは笑顔じゃなかった。たぶん、ちょっと怒った顔をしていた。
それが、怖い。
天才の私ともあろうものが、人の真意を知ることを怖がっている。
「いまさら、どうやって顔を合わせればいいんだよ……」
私のせいなのに。
シャルルは何にも悪くないのに。
私の自業自得でも、嫌われているしれないと思うと、それなくともシャルルの気持ちがこの二年で風化しているんじゃないかと思うと怖くて仕方ないのだ。
「ねえクリス」
真剣な声だった。サファニアのよく通る冷たい声が、答えを得ているのに怯える私にまっすぐ届く。
「私、なんであなたのポエムを聞かされてるのかしら? あなたの口からでる背中がムズかゆくなるようなポエムを聞かされるくらいなら、普通に市販されている詩集を読みたいのだけれども――」
「……」
言葉の途中で手近にあった枝葉を揺らしてサファニアの頭に大小さまざまな虫を落としてやったら「きゃぁあああああ!?」という結構な悲鳴が上がった。




