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私の名前はクリスティーナ・ノワール。天才だ。
一歳で屋敷を自由に駆け回り、三歳で言葉を自在に操り、五歳で書斎の書物をことごとく読み尽くし、七歳で初めて参列した舞踏会で完璧な淑女として社交界をあっと言わせ、九歳で初恋を知った。
そんな私ももう十一歳になった。
初恋を自覚した九歳の頃から二年間が経った。二年という月日は自分の心を取り出して解析するのに十分な時間のはずなのだが、恋というものは天才である私でも解明できていない。あの日に芽生えた心には、いまだに振り回されているのだ。
その証拠に、自室にいる私は一人で鏡を見て頭を抱えていた。
「……うぅ」
鏡に映る私に変なところなど何もない。使用人に頼んでしっかりと衣装も着付けてもらった。私は派手好きだが趣味が悪いつもりはない。赤いドレスをベースにした着こなしは、ちゃんと私自身の魅力を引き出すような組み合わせになっている。鏡に映るのは完全無欠の美少女クリスティーナ・ノワールだ。
シャルルを出迎える準備は万全に整っている。天才の私がぬかりないの自明のことで、不安要素なんて一片もない。
でも、何故だか無性に心が乱れてしまう。
シャルルが訪問してくる日には、時々こんな感じになってしまう。
十歳も近くなって、シャルルの公務も徐々に増えてきた。公務と言っても民衆の前に出る者だけではなく、単純に勉強の時間の割合が多くなっているのが実情である。私自身の予定の兼ね合いもあって数年前のように週に二回も三回も訪問するのは難しくなっている。この頃では屋敷でシャルルと顔を合わせる機会は月に一回程度の頻度になっている。
そうして合わない時間が長くなったせいだろうか。シャルルと会うのに、少し緊張するようになってしまったのだ。事実、鏡に映る私の顔は来ているドレス程ではないが赤くなってしまっている。たぶん、感情が高ぶってしまった表れだと思う。幼少の頃のようにただただ無邪気になんの遠慮もなく言葉と感情を交換するようなことはできなくなっていた。
そうやって部屋でそわそわと落ち着かずに過ごしていたら、ミシュリーが部屋に訪問してきた。
「お姉さま……って、なにしてるの?」
私の部屋に訪れたミシュリーは、顔を見るなりそう聞いてきた。
私の最愛の天使も二年間で成長した。天使が成長するというのも奇妙な表現かもしれないが、日に日に魅力が増していく様子は成長というほかない。きっとそのうちに天使から女神へとジョブチェンジを果たすのだろう。ミシュリーはまだ九歳だけれども、そのかわいらしさたるや幼くして圧倒的だ。年々かわいさが増量していく妹を見ていると、妹離れのことも忘れて抱き付きたくなっていってしまう。
「顔が赤いよ? 体調が悪いの?」
「ミシュリー……いや、なんでもない」
私の妹離れはミシュリーの姉離れと並行してきちんと進んでいる。べったりだという自覚はあったが、私が十歳を超えたあたりからそれぞれの時間を持つようになった。最近はミシュリーも私との関わり合いがない時間のほうが多くなっている。
それでも、私たちが仲の良い姉妹であるということは変わらない。
「ダメだよ。風邪かもしれないんだから」
ミシュリーがちょっと怒ったように言って距離を詰めてくる。
昔は私の言葉に従って後ろについてくる印象が強かったミシュリーも、こうやって私の意図から反する自主性を見せるようになってきた。
「熱を測るからね、お姉さま」
「いや、だからこれは平気だって――」
「だーめ」
私の反論なんて何のその。互いが触れ合う至近距離まで近づいたミシュリーは、こつんとおでこをくっつけて来た。
間近でミシュリーの青い瞳と視線が合う。その瞳に初対面の頃のような透徹さはなく、いろいろな感情が溶け合った人間味ある光できらきらと輝いていた。
「お姉さま、変に自分で抱え込むところがあるから……うん。やっぱり熱がある」
「え、本当か?」
「うん。ウソなわけないでしょ」
「ふむ……」
顔が赤くなっている以外に自覚的な体調不良はないのだけれども、ミシュリーがそういうなら実際に熱があるのだろう。となると、胸が締め付けられたりするこの感覚は体調不良から来ているのかもしれない。
「熱……ということは、無難に風邪か?」
「たぶん。そんなに自覚症状がないなら、ひき始めじゃないかな。安静にしてたほうがいいよ」
「そっか」
なんだ、風邪か。
納得だ。
そうかそうか。いくらシャルルと久しぶりに会うからと言っても、心が乱れすぎだとは思っていたのだ。なるほどなるほど。この心理状況は体調不良との合わせ技か。ならば仕方ない。
「今日もシャルルには帰ってもらうか」
風邪をうつしたら悪い。シャルルは最近忙しくなっているのだから、お見舞いで時間をつぶさせることもないだろう。
「ね、お姉さま」
さっそく王宮に馬車を飛ばして連絡してもらおうと今後の予定変更へと頭を回していると、ミシュリーが手を取ってぎゅっと握って来た。
「今日はわたしがお姉さまをつきっきりで看病するね」
「……風邪をうつすかもしれないぞ?」
「気にしないよ。だってわたしとお姉さまは姉妹なんだよ?」
「そっか」
にこにこと邪気のない笑顔で申し出てくるミシュリーにつられて私の顔も自然と緩んだ。
ミシュリーも着実に成長している。もう私たちは依存をしあうような関係ではなく、お互いを純粋に助け合う最強の姉妹だ。
「なら、よろしくな」
「うん!」
嬉しそうに微笑む、世界で一番かわいらしい妹の好意に甘えることにした。
ちなみに余談だが、その日の午後にはマリーワの授業があった。
もちろん私の体調不良は事前に連絡はしていたはずなのだが、マリーワは午後にはきっちりと訪問してきて予定通りの時間に授業を開始した。
「今日は私が寝込んでいるのかも、とか思わなかったのか?」
「思いませんね」
ミシュリーの看護が功をなしたのか、午後にはもう顔の熱も引いて元に戻っていた。だから授業を受ける分には何の問題もなかったのだが、どうして私の体調が戻っていることを予見できたのか。ノワール家に訪れた時のマリーワは、授業が潰れる心配など一切無用であるかのような落ち着きぶりを見せていた。
「なんでだ? 朝には熱があったんだから、それが午後には収まるとは思わないだろう。医者でもないくせにどうして午後は平気だと思ったんだ?」
「予測と呼ぶのもおこがましい簡単な理論です」
疑問に思って聞いてみたら、マリーワは淡々とした口調であっさりと言った。
「バカは風邪をひきません。ゆえに、午前中のそれは間違いなく誤診です」
「おい撤回しろ!」
「しません。伝え聞きでしかない私ですら状況があっさり想像できるぐらい簡単な手法でご自分の妹にころっと騙される程度には思慮が足らないことをそろそろ自覚なさい。シャルル殿下はシャルル殿下でアレな感じを受け継いでいますし、ミシュリー様も着実に厄介な性質を育てつつあるのです。私の経験からはっきりと申し上げますが、あの手の人間に巻き込まれたら厄介どころな騒ぎではすみませんよ?」
「何の話だよ! 私を心配してくれたミシュリーに何か文句でもあるのか!?」
最近は敬語が形ばかりになって不敬を通り過ぎているマリーワに、公爵令嬢の私は思いっきりほえたてた。




