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まるでその身に重さがないようだ。
なんでもない道を軽やかに歩く女性を見て、マリーワはそんなことを思った。
自分の少し前を歩いている金髪碧眼の女性だ。二十半ばを通り過ぎた自分よりさらに一回り下の、まだぎりぎり大人になりきれていない歳。あえて地味で姿を隠すような服装をしているためわかりにくいが、ただ歩くだけだというのに見ていて頬がほころんでしまうような無邪気さがある。周りと見比べても浮き立った足取りを見れば、その人の浮かれ具合が分かるというものだ。見るからに上機嫌で歩く女性の少し後ろで観察しながら、マリーワは少し不思議な気分になる。
彼女が馬車を降りて別の馬車に乗り継ぐほんの少しの距離を随伴する。それが彼女と話すための条件だと聞かされた時は困惑した。
イヴリア・エドワルド。
この国の第一王女。女性ゆえに王位継承権こそないが彼女は積極的に政治活動をしており、その声には大きな影響力がある。社交界の一部では同じ大きさの金塊よりなお価値がある真に完成された淑女とまで評される彼女だが、不思議なくらい市井になじんでいた。
マリーワがその彼女とつながりを持とうとしたのは、なんてこともない。イヴリアの一派が掲げる理念でもある貴族の特権排除。それが自分にも利する活動だと思ったからだ。彼女の一派に加わり、あわよくば発言権を持ちたい。そんなありふれた打算である。
「ね、マリーワ」
「何でしょうか」
人通りの少ない通りの真ん中で、イヴリアがくるりと振り返る。前触れもなく名前を呼び捨てにされたのには少し驚いたが、それだけだ。イヴリアの気安さは社交界でも有名であり、大げさに目を見開くようなことでもない。
そんな貴き彼女は自分の横の何もない空間を指さす。この国において並ぶものが数少ない彼女の横にはもちろん誰もいない。こんな下町に彼女の隣に立てるような人間がいるはずもないのだ。
「そんな後ろにいないで隣を歩こうよ。今なら私のお隣は無料だよ? 社交界にいるときには大人気な私のお隣が、いまはお手頃価格どころの騒ぎじゃないんだよ!?」
「お戯れを」
「えぇー、そんなぁ。馬車に乗る時も一人だったし、お隣に誰もいなくて私は淋しいよー。こっちおいでよぉ」
イヴリアの手招きに内心でこっそり顔をしかめる。
こうして気安く他人と接しようとするのは人たらしの彼女がよく使う篭絡の常套手段だ。天然でそんなことをしているのが恐ろしく、なによりこの類の無邪気さをマリーワは苦手としている。
だがそんな感情は表に出さない。イヴリアの影を踏まないよう、斜め後ろに付き従ったままかしこまる。
「私ごときに、あまりに畏れおおい申し出です」
「なんでそんなによそよそしいかなぁ。もっと気楽にしてくれていいんだよ? 私なんかに気を使ったっていい事なんにもないんだから。ほらほらー、表情硬いよ、マリーワ。いまから私がマリーワの凝り固まったほっぺをやわらかーくしちゃうからねー」
宣言するや否やイヴリアは一歩距離を詰め、ぐにっとマリーワの頬をつまむ。さらには何の遠慮もなくぐにぐにとこねくり回すという暴挙に出た。
「こうやってほっぺを持ち上げると、人の顔って強制的に笑顔になるんだよ。ほーら、チーズみたいに伸びたマリーワのほっぺが笑顔に――」
畏敬の念が凍り付き、思わず視線が冷えた。
「……イヴリア様」
「うわっ。マリーワの目つきこわっ!」
ぱっと手を放して大仰に叫んだが、言葉とは裏腹にまるで怖がっている様子はない。マリーワの威嚇を受けてけらけらと笑う彼女に怖いものがあるのかどうか。生を全力で楽しんでいる彼女は自分が死ぬ寸前でも笑って受け入れそうである。
「あはは。口元だけ笑顔にしてもやっぱ無駄だねー。でもいっか。マリーワ、さっきより断然いい顔してるし。そうそう。私が会いたかったマリーワはそんな感じのマリーワだよ」
「……どういうことですか?」
「んー? やっぱり仲間になるかもしれない人を見るときは、ちゃんと底を見ないといけないからね。一応、会う前にマリーワのことは調べたけど、それでも……あ! あれおいしそう!」
会話の途中で唐突に第一王女殿下の興味が道端の屋台へとそれていった。人物査定から食べ物へと話題が壮絶な脱線をしたのを機に、マリーワはこっそりと息を吐く。
噂には聞いていたイヴリアの人格だったがこうして直に交流したいまになってもいまだにつかめきれない。社交界の大部分から眉を顰められ、しかし一部では崇拝されている女性。マリーワの目にはただの稚気に富んだ考えなしに見えるが、仮にも政界で人を集め貴族の特権排除を標榜する一派の音頭を取っているのだ。ただの子供じみた女性というわけではないだろう。
だがそれでも、いま屋台の店に直行して肉まんじゅうを自ら買っているイヴリアを見ると思わずにはいられないのだ。
この人、実はただのアホじゃなかろうかと。
「イヴリア様のような貴人も珍しいでしょうね」
「うん? 別に珍しくないよ」
無警戒に肉まんじゅうをほおばったまま振り返ったイヴリアは、まるきり子供のようにも見えた。
こうして市井で会うのは偽装の一環だと言うが、果たしてどうだろう。弾む足取りからして、彼女の趣味という面が強い気がしてならない。饅頭に食いついているイヴリアを見ていると、自分はただ単にこのお姫様の我が儘に付き合わされているだけの気がする。
「私なんてどこにでもいるそこらのお姫様だよ。そんなごくごく普通の人だから、もっと粗雑に扱ってくれてもいいよ?」
「お姫様の時点でどこにでもいない存在です。そしてそのお姫様の中でもあなたは珍種の部類です」
「ふふーん。残念でした、マリーワ」
対面して話していくだけで身に着けた敬意がペリペリとはがされていく。王者の威厳などまるでない王族がそうそういるわけがないと思って言ってやったのだが、イヴリアはマリーワの心を無性に逆なでする仕草で胸を張る。
「うちの王族には、一世代に欠かさず一人は私みたいのがいるんだよ。だから割と普通!」
貴族の特権排除の次にはエドワルド王家の断絶でも目指すか。この短い時間でイヴリアへの畏敬をだいぶ削がれたマリーワは割と真剣にその方法を模索する。
「イヴリア様のような方が安定して生まれるなど初耳です。エドワルド王家の血筋はずいぶんと優秀なようですね」
「いいねいいね。その調子だよ、マリーワ」
完全に敬意が剥がれ落ち、かろうじて敬語がくっついているだけの不敬を通り過ぎたマリーワの嫌味にイヴリアはまるで堪えた様子もない。むしろ楽しそうにくつくつとのどを鳴らす。
「うちはもともとそういう血筋だよ。我らが祖の建国の主、ギリック・エドワルドは自由を愛し革新を好む気風だったらしいから、それが代々受け継がれてるんじゃないかな」
「建国の思想が受け継がれているとはずいぶん素晴らしい事ですね。……それで、具体的にはどういうことになるんですか?」
「アホが生まれる!」
この国の第一王女殿下は、己を含めた性質をきっぱりとどうしようもない世俗的な言葉で断言した。
「事情を知ってる他のみんなは『王家の生まれ』っていうのに遠慮してはっきりとは言わないから、あえて私が言おう! 正直どう考えてもアホな人ばっかだよ」
その性格がイヴリアと同じだというならまさしくその通りなのだろう。
「なんていうかね、マリーワ。一世代に一人は王家にいる私たちは、抑圧されるのが大嫌いで愛したものに執念深いという割とどうしようもない人間が生まれるんだよ。私もそんなどうしようもない人間のひとり!」
「それはそれは……」
「ちなみに直系の男児がそれだと判断されたら、早いうちから臣籍降下の縁談組まれて王位継承権の事実上のはく奪とかされるんだよね。ていうか、うちの国で臣籍降下の風習があるの、たぶんこのせいだよ。何かまかり間違ってアホが王座に着かないようにしてるんでしょ」
「その風習を決めた方には心の底から感謝を捧げます」
「そう? ちなみにわたしの場合は、この国の人民を心から愛してるから貴族の特権排除なんて活動をしてるの。だってこの国、お金ないし! 財政ピンチだし! お金持ちに課税できないって仕組み考えたやつ絶対頭おかしいよね。貴族の資産に課税出来たらだいぶ楽になる! それに――」
ふざけたように軽い言葉で己の思想を語るイヴリアの唇が、不意におぞましく歪んだ。
「――もし失敗しても、別にいいしね」
ぞくりとマリーワの背筋を撫でる仄暗い言葉。あまりも軽々しい態度に辟易しかけていたマリーワは思わずイヴリアの顔を凝視したが、一瞬後にはもうその空気は霧散していた。
「でさ。マリーワは、なんで私に協力しようと思ったの?」
イヴリアが見せたおぞましさなど片鱗も感じさせない笑顔でようやく今日の本題を問いかけてくる。
先ほどの様子は気にかかったが、そもそもイヴリアと話す時間には限りがある。本音を打ち明けるほどイヴリアに心を開いているわけでもなければ、対価をもらっているわけでもない。事前に考えていた建前を打ち明けよう。そう思って口を開こうとして、覗き込まれた目にぎくりと身をすくめた。
マリーワを見る碧眼は湖面の水面よりも透き通っていて、何もかも見透かされそうだった。
「ああ、そっか」
マリーワが気圧されて言葉をためらっているうちにイヴリアは答えを得た。
まだ何も言わないうちに、どうして理解できたのか。感情を見抜いて心を見透かすような瞳でマリーワを見通したイヴリアは、ぽつりとつぶやく。
「嫌だったんだ」
端的な言葉は正鵠を射っていた。
イヴリアの言葉通り、マリーワがイヴリアに会って政界での発言権を得ようとしたのはあまりにも単純なひと言ですむ。
嫌だったのだ。
「優秀なマリーワは、否定されるのが嫌だったんだね」
あまりにもその通りで、言葉もでない。
女だからと言われるのが嫌だった。周りの誰よりも抜きんでた自分の優秀さを、女だからというだけで押し潰そうとする異性が嫌いだった。能力だけなら劣ることがないのに、女だからというだけで卑屈になる周りの同性も嫌だった。なぜ女性が下に見られるのか、なぜ女だから男よりも優れていてはいけないのか。その理不尽が嫌で、自分を受け入れない今の世の中が嫌いだった。
だから同じく女性が頭であるイヴリアの一派に所属して成果を上げ、自分を認めさせようとしたという――
「――そういう動機なんだ」
マリーワの心をすべて見透かしてから、ふいっと視線が外される。
「私たちがやってることなんかに参加しないで、マリーワはもっと弱さを振りかざしても良いと思うよ? 今のままじゃ生きにくいでしょうに。別にいいじゃない、女なんだっていうことを利用すれば。理不尽を呑み込んで、もっとか弱さアピールをして生きればいいんだよ。淑女っていうのはそういうものだから、マリーワがそうすれば問題は解決するよ」
「嫌ですね。それが淑女だというなら、反吐が出ます」
「そう?」
怖い。
自分を見抜かれた事実に対し素直にそう思う。口をへの字に捻じ曲げたのは完全に強がりだったが、追及はされなかった。頑固なマリーワをそれ以上諭すことはせず、イヴリアはくすくすと笑う。
「それがマリーワなら、それでいっか」
そう結論付けたイヴリアが立ち止まる。気が付けばすぐそこの道の曲がり角に馬車が止めてある。イヴリアが乗り継ぐ予定の馬車で、この短い散歩の目的地だ。
イブリアは御者の手を借りて、するりと馬車へと乗り込む。
「じゃあね、マリーワ。また今度」
短く別れを残して馬車が走り出す。それを見送るマリーワは、無言のままわずかに唇をかみしめていた。
マリーワは己の優秀さ故にまっとうに負かされたことがなかった。公平と正当性が約束された事柄ならば敗北などないという自負もあった。それが短い会話で一回りは年下の相手に敗北感を植え付けられたのだ。
社交という分野に関して、イヴリアはマリーワを圧倒した。
あれが、黄金以上の価値を持つという真の淑女か。
そう納得してしまった自分の心が、あまりに屈辱的だった。
「……次は負けません」
遠ざかっていく馬車の後ろ姿に雪辱を誓って踵を返す。
それがイヴリアとマリーワの初対面。
無邪気さの中に一欠けらの狂気を隠す王女殿下と、ただただ優秀なだけだった令嬢マリーワ。以降もイヴリアはマリーワを振り回し、幾度となくマリーワのプライドをへし折っていく。そうした中で徐々にマリーワの思想は変化して、理不尽を呑み込み、現実を受け入れる思想を得て、己のプライドのためではなく現実の理不尽を是正しようという決意をする。そして膨らんでいった活動自体は結局失敗に終わることとなるが、それは結果すら歴史に埋もれる秘話だ。そんなもの、語る必要もないだろう。
なにせ自分の歴史など、目の前で涙目になって悔しそうにしている少女とは関係のないことだ。
「ぐぬぬ……!」
黒い駒を一つ掴んだマリーワは、うなり声を上げる公爵令嬢に礼儀作法を指摘しようかどうか一瞬だけ悩み、結局は何も言わないことにした。
まだ十歳ほどの黒髪黒目の少女とマリーワの間には盤面が挟まっている。黒が優勢で、白が大敗している。もちろん黒がマリーワだ。ぼろぼろになった白の軍勢を率いる少女は挽回の手立てがないかと必死に活路を探していたが、もう勝負の趨勢は決している。
長考したクリスは、がっくりとうなだれる。
「うぅ……負けました」
「はい」
クリスティーナの敗北宣言を当然として受け取って立ち上がる。家庭教師として雇われているマリーワだが、十歳を超えたこの令嬢も最近はだいぶ仕上がってきた。授業の合間の余暇でボードゲームをするくらいには、だ。
たぶんいつだかの雪辱を果たそうとクリスティーナの方から再戦をねだって来たのだが、結果は見てのとおり。クリスの未知の奇襲戦法で勝利をもぎ取った前回とは趣向を変えて、泥沼の読み合い戦にひきずりこんでなぶってみれば半泣きの公爵令嬢の出来上がりだ。
「では、帰りの馬車の時間ですので私はそろそろ失礼します」
敗北に顔をゆがめている公爵令嬢は置いて、マリーワは立ち上がり一礼する。
ノワール家令嬢の家庭教師。その依頼を引き受けた当初は、イヴリアの子供が公爵家に預けられていると聞いて興味が惹かれただけだった。
だが、今のマリーワの興味の対象は違う。
「マリーワ!」
大敗を喫した公爵令嬢は、自分を負かした相手をきっとにらみ付ける。
「次は……次は負けないからな! いや、次負けたとして、絶対いつかマリーワに勝つ!」
「そうですか。その時を、楽しみにしていますよ」
クリスの決意表明を受けたマリーワは、淡々と答えながら帰り支度のため背を向ける。彼女の教育係として雇われ、もう五年以上経つ。だからこそクリスの成長を知るマリーワは、お転婆ですぐ調子に乗る公爵令嬢だけには決して気が付かれないようわざと嫌味に聞こえる言葉に本心を包み隠す。
小さな公爵令嬢が成長し自分たちの歴史を超えていってくれることを、己の失敗を伝え二の徹を踏ませないために教師になったマリーワは他の誰よりもクリスに期待していた。
もちろんクリスの人生はクリス自身で決めることだ。教師の役目を全うすべく職務に忠実なマリーワは、押しつけがましい期待など片鱗も見せたことはない。
ただ、それでも一つ確信していることがある。
ノワール家の送迎用の馬車に乗ったマリーワは、帰路の途中でぽつりとつぶやく。
「……ねえ、イヴリア。私は結局あなたに一度も勝てませんでした。けれども、ですね」
かつての活動のしっぺ返しを一手に引き受けいなくなってしまった友人へ、ほんの少しの優越感を込めて
「あの子はきっと、あなたに負けませんよ」
どういう人生の選択をするにしろ、きっとクリスティーナは淑女としてイヴリアを超えていく。
教師として、かつての雪辱がいつか果たされることを確信したマリーワはそっとほほ笑んだ。