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かぁっと顔に血が上る。頭の中にもう一つ心臓ができたみたいに血流がパニックに陥る。ハチャメチャになった血の巡りと呼応するように、思考もめちゃくちゃになる。
「良かった。クリスも僕のこと好きなんだね」
好き、という二文字にびくぅっと肩がはねた。
「ううううううるさい! うぅ……うるさいバーカ!」
「バーカ!?」
反射的にののしって、でもまともな言葉にならなかった。
まずい。顔はおろか、首筋まで真っ赤になっているのが分かる。どくんどくんと跳ねる心臓の音がやかましくてしょうがない。初めての感情に頭がパニックになりそうだ。でも冷静になるのとか無理だ。
なんだこれ。
生まれ変わったみたいな感情の変化に私自身がとてもじゃないけどついて行けない。
そんな私にシャルルがずいっと怒った顔を近づけてくる。
「クリス? なんでバカとかいうのさ!」
顔が近い。
近距離を自覚してとっさに顔をそむける。
でもそんなの無駄な抵抗だ。だって、手つないでるし。踊ってるから、ほとんど体をくっつけるみたいな体勢だし。意識してみれば、シャルルの息が首筋に当たるくらい近いし。ていうか、あ。いま手汗が。やだ。シャルルにバレて――
「ていや!」
「うわ!?」
とっさにシャルルに足を引っかけて転ばせる。もちろん手を握っていた私も巻き込まれて一緒にバランス崩すが、むしろそれが狙いだ。その勢いで体が離れた。狙い通りである。そうして二人そろって、でもほんの少し離れた位置で、いつかのように花壇に転がり込む。
がばっとシャルルが真っ先に起き上がった。
「なに!? いきなりなにクリス!? びっくりしたんだけど!」
「うっさい! 無理っ。無理だから!!」
起き上がったシャルルとは対照的に、うつぶせになって顔を隠した私は足をじたばたさせて叫び返す。
「なにが!? 何が無理なのさクリス!」
「三千世界には男女七歳にして同衾せずという言葉あるんだぞ! 私、淑女だから! だから無理だから!」
「そんな言葉聞いたことないけど何の話してるの!?」
「あるんだ! とにかくあるんだ!」
前世の知識だけどな!
私、嘘吐いてないからな!
ごまかしてないからな!
混乱とかしてないからな!
だって私天才だもん!
「ていうか、なんだよシャルル。何かないのか……?」
真っ赤な顔を隠すために、うつぶせになったまま言葉を絞り出す。
私、あれだぞ。
なんか自覚してなかったけど、告白しちゃったみたいなものだぞ。
茎やら葉っぱやらが当たってちくちくする。でも顔をあげるのは無理だ。いまシャルルの顔を直視するのは無理だ。それくらいなら多少不自由でもこの体勢を選ぶ。
そりゃ、シャルルが私のこと好きっていうのは知ってる。両想いだっていうのも分かってる。シャルルが喜んでくれたのも理解している。
でもなんだよ。
私の告白に対して、もっと何かないのかよ。
「あるよ?」
心を読んだんじゃないかというほどのタイミング。
相変わらずテンポよく、迷いもない言葉がシャルルの口から出て響く。
「ないわけないじゃん。ずっとそう言われるの、待ってたもん。ミシュリーに負けたくないって、ずっと思ってたもん」
シャルルがどんな顔をしてるのか分からない。自分がどんな顔をしてるのかも全然分からない。逃げるように地面を突っ伏している私は臆病者で、きっと私をまっすぐ見ているシャルルは正直者なんだろう。シャルルが思うままに続けられた真摯な言葉はするりと耳に入る。
「クリスに出会えたことの次に嬉しいよ、クリス」
ああ、こいつは、もう。
「……お前、ほんとに素直だな」
うめき声のような定例句は、敗北宣言に等しかった。
卑怯だ。
そんなに自然に言われたら、自分の心に振り回されている私がみっともないじゃないか。
頭がパンクした私はよろよろと立ち上がる。おかしい。休憩がてらにここまで来たはずなのに、ここに来る前の一万倍は疲れている。
「もう戻る……」
「えぇー」
不満の声があがったけど、もう無理だ。むしろ今から戻ってちゃんと淑女の皮をかぶりなおせるのか……でも、これ以上ここに居られそうな気もしない。
「なんなのクリス? 変だよ? 第三形態?」
「うっさい。戻るったら戻る。……あ、そうだ」
ふと気が付いて、シャルルへと振り向く。
「シャルル。汚れを軽く落としてやる」
「別にいいけど……ていうか、花壇どうするの? クリスのせいだけど、これバレたら僕がすごく怒られる気がする」
「その時は黙って怒られて私のことは黙秘しろ」
「なにそれ理不尽」
理不尽でも言ってないと自分をごまかせそうもないのだ。
これからやろうとしていることに、異常に緊張する。シャルルの服をはたいて汚れを落としている今ですらまともに顔を見れない。拗ねてそっぽを向くふりして恥ずかしさをごまかしてシャルルと視線を合わせないようにする。
「だいたいこれでいっか……髪を払うからちょっと目を閉じろ」
「ん」
青い目が閉ざされたのを確認して、ほっと息を吐く。あのまっすぐ見つめてくる目がないだけでもだいぶ違う。落ち着いた状態で、改めてシャルルの顔を見る。七歳。五歳で出会ってから二年。成長しているが、顔はまだふくふくとして愛らしい。でもきっと、これから精悍に育っていくのだろう。前世の知識で知った絵姿を引っ張り出して見比べてみると、共通する点も多かった。
そうしてしばらく、ぼうっと見惚れていたら
「クリス?」
「ひゃうっ!?」
突然開いたシャルルの口に、変な声が出た。
「ひゃう?」
「ちょっとびっくりしただけだ! で、なんだ!?」
「まだかなーって思っただけだけど……」
「まだ! もうちょっと待て!」
見惚れて何にもしてませんでしたなんてまさか口が裂けても言えるわけもない。慌てて言葉を荒げてシャルルにステイを命じる。おとなしく目を閉じ続けているのを確認して、乱れた息を整えた。
とりあえず、言った通りにシャルルの髪に着いた葉っぱを取り払う。もう今まで何回触った分からない金髪が、柔らかく指に絡みついてきた。
「ぅ」
今まで意識していなかった些細なことすらこっぱずかしい。なのにその感覚が嫌じゃない。胸がくすぐったい。その柔らかさが心地良い。ミシュリーの髪をすいている時はまた違った感情だ。
そっとシャルルの前髪を持ち上げる。すべすべのおでこがあらわになって、ふと変なことを思いついた。
シャルルはさっき、頑張ったと言った。頑張ったら褒めてあげなきゃいけない。私がマリーワに褒めてもらったみたいに、ちゃんとご褒美がなければいけない。それだけだ。今からやろうとしていることに、それ以上の他意はない。
でも……嫌じゃないかな。
ふと心に不安が忍び寄ったけど、頭を振って振り払う。大丈夫。私とシャルルは、あれだ。りょ、両想い、だ。だから平気だ。……たぶん!
言い訳を並び立てて理性をごまかした私は、そっとおでこに口づける。
なにやってるんだろう。どこか他人事のように思う私がいて、でも止められなかった。
不思議な感触を感じたのは一瞬で、くっついた唇を離す時に、ちゅ、と小さな音が鳴った。
「え」
「うわぁっ」
びっくりと目を開いたシャルルに気が付いて、思いっきり後ろに飛びずさる。
どんな感触がそこに押し付けられたのか理解しているのかしていないのか。おでこに手を当てたシャルルは、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「……クリス? いま――」
「じじじじじじじじじじゃあなシャルル!」
別れの言葉だけ投げつけて、思いっきり逃げるように走り出す。作法も何もない。淑女を目指す私にあるまじき失態だ。
恥ずかしくて頭がぐるぐるする。嬉しくて心がふわふわする。緊張して身体がドキドキする。三つとも動きがバラバラで血液が熱暴走を起こしそうなくらいグラグラ煮立っている。
なにやってるんだ、私。
いまの自分が正常じゃないことくらい分かってる。天才にあるまじき支離滅裂さで感情に振り回されているのは自覚している。
でも、止められないのだ。
庭園から逃げ去る直言、ふと頭上を見上げる。
夜の初めからある満月は変わらず輝いて、それが私の心を映す。
飛び跳ねていく自分の気持ちは空にある満月のようにつかめず。
それでも私の心は、空に浮かぶ満足よりもなお満ち足りていた。




