13
マリーワが私の秘した行為を知っていたのは、何も社交界にそういう評判が響き渡っていたからというわけではないらしい。
どうやら私の髪に花びらが付いていることを注意してくれた侯爵令嬢は、昔のマリーワの教え子だったらしい。それと王宮の庭師が花壇で子供が飛び込んだような跡があると憤慨していたのを伝え聞き、二つを結びつけ私が犯人だと決めつけたようだ。
そんな当て推量で頭のてっぺんをぐりぐりされたのは非常に遺憾なことだが、当たっているだけに何にも言えない。
「お嬢様。あなたは迂闊が過ぎます」
当家の使用人二人の前で行われた令嬢虐待の後、私とマリーワは一緒の馬車に乗って屋敷に入った。そうして私の部屋で始められた礼儀作法の授業の初め、神妙な顔で椅子に座っている私をマリーワは厳しい声でしかりつける。
「前々から注意しようと思っていましたがいい機会です。あなたは物事の目先に囚われその場しのぎでごまかすことを習性にしている節があります。その時見られなかったらいいだろう、その時やり過ごせばいいだろうという安易な思考しかありません。短期的なごまかしが根本的な解決に至らないことを知らず、よって長期的な視野が持てていません。だから最終的なところで必ずと言っていいほど失敗するのです」
「ぬぬぬ」
私の過去の失敗が偶然によるものでなく、私自身の思考の過失だと指摘されてうなり声を上げる。
お嬢様らしからぬ私の態度にマリーワはちらりと視線をよこしたが、何も言わずに続ける。
「淑女というものはそれではいけません。見られているから姿勢を正すのではありません。常態から背筋を伸ばし、しとやかであるべきなのです。そうしていついかなる時も正しい姿勢をして初めて淑女の卵として認められるのです」
天才たる私にお説教なんて恐れしらずなことだが、マリーワの言には学べるところも多いのは事実だ。私は前世の知識すらこの頭脳に修めた紛うことなき天才だが、経験というものでは三十を超えたオールドミスなマリーワに太刀打ちできない。
「つまり、あなたはまだ淑女の卵としてすら認められません。わかりましたか、クリスお嬢様」
「わかった、マリーワ」
マリーワの経験を言葉に代えて呑み込んだ私は、その糧の内容を私なりに解釈して表現する。
「ミス・トワネットです、お嬢様」
「ああ、うん。それはもういい。……つまりマリーワはこう言いたいんだろう。その場の目撃情報だけを気にするのではなく、その場にいたという痕跡を潰して完璧な証拠隠滅をしろと。つまりバレなきゃ構わないとい――」
「誰もそんなこと申しておりません」
「――いぎゃん!」
私の理解は不合格だったらしく、途中でごっつんと拳骨が振り下ろされる。
最近のマリーワは、ムチの代わりに直接手が出る傾向があるのだ。おかげさまで今みたいに直接ぶってきたり拳をぐりぐりしてきたりとバリエーションが豊富になった。
「物事を自分本位に解釈するのはおやめなさい、クリスお嬢様。あなた、そんなことばっかり言ってるとそのうち致命的な失敗を犯しますよ? 手遅れになる前に今すぐその性根を叩き直して差し上げますのでお覚悟を」
「な、殴ってから言うことじゃないだろう! それにな、マリーワ。お前はひとつ大切なことを忘れているぞ!」
拳骨にはムチの鋭い痛みとはまた一味違う鈍痛がある。殴られてずきずき痛む頭を抑えて涙目になりながらも、私は必死に訴える。
「私をそこらの七歳児と一緒にするなっ。私、クリスティーナ・ノワールは一歳で歩き始め、三歳で言葉を自在に操り、五歳で書斎の書物を読み尽くした天才だぞ! その私が致命的な失敗なんてするはずないだろう!?」
「……クリスお嬢様」
胸を張る私に、マリーワは冷たい一瞥を向けて指摘する。
「三歳五歳の云々はともかく、一歳で歩き始めるのは健やかな幼児の順調な発達段階でしかありません。その言葉によれば、あなたの始まりは凡俗でしかないということになりますがいかがですか?」
「!?」
致命的な矛盾を突かれ、私は何にも言えずに固まってしまった。
自己紹介を少し変えようと思う。
私はクリスティーナ・ノワール。天才だ。
一歳で屋敷の中を自由に駆け回り、三歳で言葉を自在に操り、五歳で書斎の書物を読み尽くした天才である。
「……うん」
「……?」
訂正を加えた自己紹介を脳内で反芻して一人頷く。そんなことをしている私をミシュリーが不思議そうに見上げてくるが、今だけはミシュリーへの反応を後回しにしておく。
マリーワの授業が終わった後、私はいつも通りにミシュリーの部屋を訪れていた。
今日も今日とてミシュリーと仲良く遊ぼうと思ったのだが、いまの私はマリーワの指摘によって天才としての自意識がちょっと揺らぎかけている。その不安定になってしまった自信を固めなおすために思考を深めているのだ。
その結果生まれたのが、先ほどの文言である。
一歳で屋敷の中を自由に駆け回り、三歳で言葉を自在に操り、五歳で書斎の書物を読み尽くした天才だ。
うむ。たぶん、断定はしないがおそらくはこれでいいはずだ。いや、その、私には一般的な発育の知識がないから何とも言えないが、おそらく凡庸な一歳で屋敷の廊下を走り回り階段の上り下りを自由にこなし庭を駆けるのは無理……だと、思う。たぶん。私が一歳半ばにはそれを可能としていたのは天才的に物覚えが良かったからのはずだ。……たぶん。いやだって、お父様の書斎の育児に関する本なんてなかったし、前世の知識にも発育関連のものは一切なかったから……
「……なあ、ミシュリー」
「なぁに?」
「ミシュリーは一歳の頃、自由自在に駆け回れたか?」
いつもの自信が四割減になっている私は、ミシュリーに意見を求める。
積み上げた経験と吸収した知識はまだ少なくとも、そんなこと関係なしにミシュリーは天使だ。天使の保証をもらえば私の自意識もきっとゆるぎないものに戻る。
私の質問に、ミシュリーはぶんぶんと首を横に振った。
「よくわかんない」
五歳の私の妹は、一歳の時のことなんて覚えてなかったようだ。
「そっかー。だよなー」
「えへへ」
求めていた答えとは違ったが、かわいかったのでよしよしと頭をなでる。ミシュリーの笑顔を見ていると大抵のことはどうでもいいと思えるから不思議だ。
「それよりおねえさま。きのうのぶとーかいってどうだったの?」
「うん? そうだなぁ……」
いつも通りピンポイントな話題を求めてくる最愛の妹を前に、なにを話そうかと整理する。まだ幼いミシュリーのためにも、わかりやすく楽しげな内容にしなくてはいけない。
「ダンスホールっていう場所に集まってるんだけどな、そこはきれいな飾りとおいしいご飯が並べられてるんだ。きらきらしたすごい場所でな、そんな中でみんなドレスで着飾って楽しく踊ってたよ。そしてお姉ちゃんはその中でも特に大人気でな。ひっきりなしにいっぱいの人が私に挨拶をしにくるんだ」
「わかるっ。だっておねえさまカッコいいもんね!」
「ふふっ、そうだろうそうだろう!」
愛する妹に慕われていると確信できるのは姉として望外の喜びだ。
「後は同じ年くらいの子供が集まってたな。親同士の挨拶で少し顔をあわせるくらいがほとんどだったけど……ああ、そうだ。おねえちゃん、友だちが一人できたんだ」
「ともだち……?」
「そうだ」
もちろんシャルルのことだ。他の貴族の子弟とは、お嬢様の面を被ったまま話したので腹を割った友達はできていない。
シャルルとは秘密の約束をしたような気もするが、ミシュリーに対しては私の心は常にフルオープンだから多少の緩みは必然だ。仕方ない。
とはいえ、伏せるべきところは伏せておこう。名前と王族だということと花壇を一緒に荒らしたことは特に話してはいけないだろう。
「その友達って言うのが男の子でな。なんていうかこう、無自覚に天才の私を追い詰めようとしてきた小にくたらしいやつだ。登場の仕方からして私の弱みを握ってきたんだから、運気を味方につけてやがるんだろうな」
「男の子……」
「うん。あともう少しで私のライバル認定をしてやろうかとも思ったが、結果的には私の完勝でな。いろいろあって対等な友達になろうということで話が落ち着いたんだ。なかなか面白いやつだったぞ?」
「…………」
あの時のことを思い出して楽しげに話していたが、おやと思う。私の話が進むにつれミシュリーの返事がだんだんしぼんでとうとう黙り込んでいってしまったのだ。
いつもなら青い目をきらきらさせて私の話を聞いてくれるのだけど、どうしたのだろうか。心配になってミシュリーの顔を覗き込む。
「どうした、ミシュリー」
「……おねえさまは」
私の黒い目とミシュリーの青い目を合わせて見ると、ポツリとすがりつくように呟いた。
「わたしとその男の子のともだちと、どっちがすき?」
「ミシュリーのほうがすき!」
迷う必要もなく一瞬の間も空けないで返答する。
どうやらシャルルのことを話したせいで、ミシュリーに小さな嫉妬と不安が生まれてしまったらしい。でも私の優先順位は揺るがずミシュリーが世界一位だ。かわいくいじらしい嫉妬をしてくれるミシュリーにたまらなくなって、私はぎゅっとミシュリーに抱きついた。
「私は、お姉ちゃんは、ミシュリーのことがずーっとずーっと好きだぞ! いまも、むかしも、これからも、誰よりも、だ!」
「…………ほんと?」
「ほんと!」
「……ぜったい?」
「絶対に!」
「ぜったいのぜったい?」
「絶対の絶対のぜーったいだ!」
「……えへへっ」
何度か保証することで、ようやくミシュリーに笑顔が戻った。
不安を消して天使のように笑顔を輝かせたミシュリーが、ぎゅっと抱きつき返してくれる。
「わたしもおねえさまがだいすき!」
「ふふんっ。私はミシュリーが私を好きだって思ってる以上に大好きだぞ!」
「そんなことないもん! わたしだっておねえさまのきもちと同じくらいだいすきだもん!」
「本当か!」
「ほんとうだよ!」
「やったな! 私たちはお互いを同じくらい大好きだ!」
「うん!」
言葉を交わし身を寄せて姉妹の絆を確認しあい、幸福を分かち合う。
私達は仲良し姉妹なのだ。しばらくぎゅーっと抱き付いた後、幸せいっぱいの笑顔のまま抱擁を解く。
「ふふっ。私たち姉妹は最強だからな。きっとミシュリーもそいつと仲良くなれるぞ」
何せ前世の知識によると、シャルルとミシュリーは婚約者であるはずの私をすっ飛ばして結ばれる可能性のある組み合わせだ。今世では天才の私というバグがいるのでそんなことは起こらないとは思うが、普通に友達として仲良くなるぐらいに気は合うだろう。
だから確信を持って放った私の言葉に、ミシュリーはにっこり笑って元気良く答えた。
「それはむりだと思うの」
「え?」
予想外のきっぱりとした否定にきょとんする。
なんで会ってもないのに仲良くなるのが無理だと断言するのか。
「……無理、なのか? 面白いやつだぞ」
「うんっ。やっぱり、むり!」
天才たる頭脳でも理解できずに困惑する私の裾を、にこにこ笑顔のミシュリーがぎゅっと力強くつかんでいた。