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この物語は大体がコメディで、思い出したように恋愛要素が入り、ごくまれにシリアスさんが割り込んできます。お気軽に読み捨てていただければ幸いです。
※2015/11/28 書籍化に伴いタイトルを変更することになりました。よろしくお願いいたします。
木の上は良い。
屋敷の庭にある立派な木によじ登った私は、しっかりとした枝に腰かけながらそんなことを思った。
私はクリスティーナ・ノワール。天才だ。
一歳で歩き始め、三歳で言葉を自在に操り、五歳で書斎の書物をことごとく読み尽くした。
そんな私が生まれた我が家は三百年の歴史を誇る公爵家だ。その庭は優秀な庭師によって代々管理され続けた。私がよじ登って腰かけているこの木なんて、もう百年も前から植えられているものらしい。
百年経ってもこの樹木には老いなんて微塵もない。私の体重を支える枝はしっかりしており、寄りかかっている幹からは背中越しに静かで巨大な生命力を感じさせる。
何より素晴らしいことに
「お嬢様? クリスティーナお嬢様ー?」
青々と茂る枝葉は、下で私を探している女性の目を遮ってくれる。
私の名前を連呼しているのは、三十代半ばほどの女性だ。痩身で身長が高く、すらりと伸びた背筋は彼女のかっちりとした性格を表している。
マリーワ・トワネット。
私の教育係として我が家に雇われた家庭教師だ。
「クリスティーナお嬢様。どこにいらっしゃいますか、クリスティーナお嬢様。大丈夫です。今なら怒りません。今なら行儀作法の授業から逃げ出したことに関して何もとがめないと誓いましょう。逆に今すぐでなければ、お嬢様は地獄の底で後悔することになります」
「ふん」
聞こえて来たウソに、鼻を鳴らしてせせら笑う。
「たかがやとわれの身分で安いウソと脅しをほざく」
はるか高みから彼女の無駄な捜索を見下ろしながら私は彼女の虚偽を断定する。
何せ私はこれでも世に稀なる天才児だ。一歳で歩き始め、三歳で言葉を自在に操り、五歳で書斎の本をことごとく読み尽くした。七歳になった今日この頃、父親を論破して涙目にさせてやったのは痛快な思い出だ。
その天才たる私がマリーワの真意を読み切れないはずがない。
「……どうせ今私が降りてごめんなさいをしてもムチで叩くくせに」
こっそり膝を抱えて、地上には決して聞こえない声でつぶやく。
ムチはダメだ。あれ、痛い。
行儀作法の教師として我が家に召されているマリーワは、ムチを常備している。本人曰く矯正用に決して欠かせぬものらしく、実際遠慮なくビシバシとムチをいれてくる。特にマリーワは私の口調が気に入らないらしく、初日なんて一言口を開こうものならその度にムチが飛んだものだ。
仮にも公爵家の一子たる私にムチをいれるってどういうことだと目に涙をためて権力を振りかざしてみたら、マリーワは冷たい目で「教育です」と言い切った。
超怖かった。
それはもう天才たる私を心胆寒くするものだった。あれは尊厳ある人間を見る目ではない。まるで出来の悪い調教馬でも見下すような目つきは冷酷無慈悲と表現するほかなく、あまりの冷たさに震えてしまったものだ。
とはいえ、そんな恐怖で屈してしまってはノワール公爵家の天才児として生まれて名づけられたクリスティーナ・ノワールの名前が泣く。だから今日も今日とて私はマリーワの授業をボイコットしているのだ。
「クリスティーナお嬢様? これが最終勧告です。これが聞こえていてもなお出てこない場合……今日の授業はいつもよりはるかに厳しいものになります」
「……っ」
しょ、しょせんは脅しだ。
五分に一回はムチが飛ぶいつもよりはるかに厳しいと聞いて思わず肩がびくついてしまったが、その授業自体を行わせなければ私の勝ちなのだ。
マリーワは当家の使用人とは違い、住み込みで働いているわけではない。馬車の送迎の時間は決まっており、それを逃すことはできないのだ。つまりその時間まで私が隠れ潜んでいれば、マリーワは私に手出しはできない。よって私は時間がくるまでここで隠れていればいい。
完璧だ。欠けるところなど一片もない、珠玉のごとく完璧な計画だ。
「……」
「クリスティーナお嬢様? ………………ちっ」
息を潜めていると、やがて諦めたのかマリーワの姿は見えなくなった。最後に行儀作法の教師あるまじき無作法が聞こえた気がするが、きっと気のせいだろう。
「勝った……!」
勝利だ。会心の感動に、ガッツポーズを作る。
「はっはっは! マリーワめ! しょせんは雇われただけの身分だな! そのような身でこのノワール公爵家長女にして一子、クリスティーナ・ノワールに勝てるはずもないのにな! くっくっく、ふわぁーっはっはっはっはっは!」
枝の上に仁王立ちになって、高らかに笑い声を上げる。高いところからの眺めは良く、何よりここは我が屋敷が一望できる位置だった。そこで高笑いをするのはとても気分が良い。
もちろん、視界のどこにもマリーワがいないのは確認済みだ。木の上で仁王立ちをして高笑いしているところなど見られたら、ムチで打たれるどころか枝から逆さで吊るされかねない。大げさな、と思うことなかれ。あの頭でっかちな家庭教師はしつけと拷問の境がいまいちはっきりしていない節がある。たぶんやらないとは思うのだが、絶対にやらないとは言い切れない恐ろしさがあるのだ。
というわけで、まだしばらくこっそりしてよう。ここで気を抜いて下に降りて発見されるなどと言う愚を犯したりはしない。私は天才らしく賢くこっそり隠れているのだ。
そうして、また少しかくれんぼを続けていた時だった。
「――ぇさまぁ」
ふと誰かの呼び声が聞こえた。
マリーワでないようだが、彼女が発した尖兵の可能性は十分にある。もしこれがご飯の時間を知らせる呼び声だったとしても、空腹はぐっと我慢して隠れていよう。ここは誰であっても隠れ続けるのが賢い選択だ。
誰が私を探していようと、それこそ我が父が自ら私の捜索に乗り出していようと隠れ続けよう。そう決心しながら、そっと地上を覗き見る。
そこにいたのは、七歳の私よりさらに幼い少女の形をした大天使だった。
「おねーさまぁ……どこにいるのぉ……」
「とうっ!」
わずかに震えたか細い声。その声を聞いて、迷わず枝から飛び降りた。
「ふぇ!?」
「ふっふっふ!」
七歳の私にとって飛び降りにはちょっと危ない高さだったが、愛しの妹が呼んでいるのならば苦にもならない。無事着地した私は立ち上がり不敵に笑う。
飛び降りた私の目の前にいるのは、一人の美少女だ。黒髪黒目というつまんない色合いの私と違い、柔らかい金色の髪は陽光を受けて輝いている。大空を写しとったかのような青く澄んだ瞳は、突如として降って来た私に驚いたのかびっくりと目を見開いていた。
我が最愛の妹にして大天使、ミシュリーだ。
「呼ばれて飛び出るお姉ちゃんだぞ、ミシュリー!」
「お、おねえさま……?」
「なんだミシュリー! 私のことを探してたのだろう? お姉ちゃんはいつだってお前の傍にいるから――」
「それはなんともよいことを聞きました。今後もクリスティーナ様が礼儀作法の授業から逃げるようなことがあればミシュリー様のお傍を探すことにしましょう」
「――ん?」
いま大天使の声に交じって獄卒か化生のたぐいの声が聞こえた気がする。
振り返ってみたら、そこには長身痩躯のオールドミス、マリーワ・トワネットが立っていた。
「……なんでここにいるんだ、マリーワ」
「わたくしが叩き込んだ言葉遣いが少しでも使いこなせるようになっていると証明できたらお教えしましょう」
「……どうしてここにいますの、ミス・トワネット」
情報収集のため、ちょっと誇りを売り渡してマリーワに習ったお嬢様言葉を使う。
言葉使い自体は合格点だったのだろう。人間のふりをした悪鬼羅刹であるマリーワは、あっさりと答えを話し始める。
「木の上に隠れるというアホなことをしたお転婆様を探し当てるために、ミシュリーお嬢様のお力を借りたのです」
「なっ!? バカなことを言うな!」
マリーワの物言いに思わず激昂する。
私の激情を受けて、マリーワは器用に片眉だけ上げて反応した。
「バカなこと、とは?」
「言うまでもない! 清廉が人の形となったミシュリーがお前みたいな地獄の使いがたくらんだ計画に手を貸すわけないだろう!?」
ミシュリーはこの世で一番清らかな存在だ。それが児童虐待を是とするような存在に与するはずがない。
「ほほう。素晴らしい物言いですね、お嬢様。宣言通り、今日の授業は厳しくいきます。地獄をご覧じる覚悟はよろしいですね?」
「黙れ獄卒め! ミシュリーの所業を偽るような罪を犯したお前はさっさと地獄にかえ――」
「あ、あの、マリーワからおねえさまが、まいごになったって聞いて、ごはんの時間にもこないからしんぱいで……」
「すまないミシュリー! 私は愚かな姉だった!」
地獄の鬼から逃げるのにかまけて妹を不安にさせてしまうなど、姉としてあるまじき失態だ。世界一かわいい心配をしてくれている妹に、謝罪もこめてひしと抱き付く。
マリーワと言い争っているのに何か責任を感じてしまったのか、不安に揺れていた表情はぎゅうっと抱きしめているうちにだんだんと笑顔へ変化していった。
「え、えへへ」
うむ。やはり私の妹は笑顔が似合う。腕の中に天使の体温を感じながらも改めて確信する。
「やっぱりお前は世界で一番かわいいよ、ミシュリー」
「も、もう、おねえさまったら……えへへ」
ミシュリーの声にはもう不安もなく、照れと隠し切れない嬉しさにあふれている。
妹の不安を取り除いたのならば、もはや万事が解決したも同然だ。
残るはごくごく些細な問題が一つ。
「さて、お嬢様。姉妹の仲がよろしいのは幸いです。……もう、よろしいですね」
獄卒による、行儀作法の授業という名の地獄めぐりツアーだ。
しかし私がここで怯えを見せるわけにはいかない。なぜならば私の腕の中には最愛の天使たる妹がいる。
ミシュリーにつゆほどの不安を与えないために、私は堂々と仁王立ちでマリーワに立ち向かう。
「ふ、ふふふ、ふわぁーっはっはっは! 当然だ! かかって来い、マリーワ・トワネット! 返り討ちにしてくれぐぎゃふん!」
「まずはその言葉使いからです。何を間違って覚えたか知りませんが、野卑な男言葉はたっぷりと矯正して差し上げますので、お覚悟を」
「お、おねえさま!? そ、それいたくないの? おねえさまぁー!」
最愛の妹の声援が、いまだけはちょっぴりと遠い。叩かれた頭を抑え、涙目でうずくまりながら私はすぐにやってくる苦難に立ち向かう勇気を固める。
私はクリスティーナ・ノワール。天才だ。
一歳で歩き始め、三歳で言葉を自在に操り、五歳で書斎の書物をことごとく読み尽くし、我が最愛の天使と出会うことで前世の知識を思い出した。
七歳にして、そんな世にも稀なる経歴を誇る公爵令嬢である。