胎ドーズ、蠢ドーズ、オーバードーズ
木々の生い茂る、陰鬱であり逆に清浄でもあるような、山奥にある結界の奥の洞穴に、一人の女が入って行った。そこには既に一人の老人が居た。仙人のように浮世離れした雰囲気の老人は、威厳を孕んだ低い声で女に言う。
「我々の管轄の区域に人外、特に吸血鬼が生まれた可能性が高いということである。アヤメにはそこへ向かってもらう」
アヤメと呼ばれた女性は、置かれた地図の老人の指差した辺りを見つめて、一度頷いた。
「しかし、どうして吸血鬼とわかるのですか?」
「この地区で、体の不調を訴える女性が多いらしい。医師には貧血としか診断されないらしいのだが。さらに満月の夜には行方不明者も出ているとのことだ。これらは、吸血鬼がこの辺りで無作為に食事をしている証拠足り得ると、西洋の奴らが判断したのだ。そして、無作為な吸血になる前、ある中学校で女生徒が四人、相次いで行方不明になったそうだ。吸血鬼というのは、なりはじめの頃は欲に飲まれて身近な者を貪ることが多いというので、この中学の生徒が吸血鬼となり、その生徒が今は知恵を付けてひっそりと他人を貪っていると考えると辻褄が合うと。そこで、お前にはこの中学の生徒として、吸血鬼退治をして欲しいのだ」
「私、二十歳ですよ?生徒は無理があるような……。兄に教師として向かってもらったほうが」
「この件ははじめ、西洋の奴らがやると言い出したのだ。吸血鬼のことは我々のほうが詳しいから、と。しかし我々の土地の事は余所者に任せられんと、儂が断った。その手前、優秀なお前にこの件を必ず成功させて欲しいのだ。見た目の事なら、お前は童顔であるし大丈夫だろう」
そう言うと、老人は荷物を取り出し、アヤメへと手渡した。
「これにお前が着る制服などを入れておいた。お前は引っ越しの支度をして用意した部屋へ向かえ。逐一調査報告を行なうこと、疑わしい者の眼を見ないこと、これらをしっかり守って必ずや我々の手で吸血鬼を始末するのだ」
「はい」
アヤメは頷くと、渡された荷物を肩に掛け、下山した。
下山し自宅へ戻ったアヤメは、引っ越しの荷物をまとめる中、制服に手を掛けた。着てみるとサイズは合っていたが、やはり不安があって、姿見の前に立った。
「やっぱり、無理があるよねぇ……」
「そのコスプレ、似合ってんじゃない」
皮肉の混じった声の方を振り向いたアヤメは、すぐに抗議の声をあげた。
「お兄ちゃん、ノックぐらいしてよ」
アヤメの兄はその声を無視してベッドに腰を下ろすと、荷物の傍に置かれていた下着を手に取った。
「聞いたぞ、依頼が入ったって」
「パンツから手を離しなさい」
「あのジジイ、俺に何も言わないってことは、優秀なアヤメ様に任せるってことなのかねぇ」
卑屈になった兄は下着を指に引っ掛けてくるくると回しはじめた。
「そんなことないよ。お兄ちゃんが頑張ってるのは、みんな知ってるし。あと、パンツ返せ」
「そんな同情、要らねえんだよ!」
不機嫌になった兄はそう吐き捨てて、アヤメの部屋から飛び出した。
「……扱いづらい人」
部屋で一人になったアヤメは、そう呟いた。
元々、アヤメには人外退治や家のことなど、まったく興味が無かった。しかし、アヤメには才能があり、家の者は勝手にアヤメに期待するようになり、子供の頃仲の良かった兄はいつの間にかアヤメに嫉妬するようになった。そのような状況はアヤメにとって疎ましいもの以外の何物でもなかったが、自分の家以外での生き方を知らなかったため、そこに身を置いて生きるしか無かった。そのため、任務ではあるものの、家の者に干渉されずに行動出来そうな今回の吸血鬼退治は、少し楽しみだという気持ちもあった。
「さて、行きますか」
まとめた荷物を持ったアヤメは、そのような少しの高揚感とともに、実家を離れた。
「だいぶ、上手くなったね」
人の居ない公園でスーツ姿の女性を腕に抱えているヤイトに向けて、エリスが言った。
「死なない程度に血を吸うようにすれば、騒ぎが大きくなることは無いよ。目を覚ました女性は、みんな吸われる前後の記憶が抜け落ちて、ただの多幸感とその後の倦怠感しか残らない。噛み跡は、残るけどね」
眠っている女性はストッキングが半分脱がされ、内股の歯形から小さく血が垂れていた。ヤイトはその血を拭うと、女性にストッキングを穿かせ、人目を気にしながら、女性をベンチに座らせた。
「でも、満月の夜にはなかなか自分の欲望に逆らえないよ。最近、血が吸いたくなると思うんだ、僕は汚れている、気持ちの悪い人間だって」
エリスは暗い顔をするヤイトを撫でながら優しい瞳で見つめた。
「人間じゃなくて吸血鬼でしょ。そういう感覚も、きっと永い時の何処かで忘れるよ。でも、寂しさを忘れることは、多分ない。だから、今は学校や家も大切にしてね。これから先、私たちの時間がほんとうになるまでは、でいいけど」
ヤイトにはエリスの真意がよくわからなかったが、いつも自分を見守ってくれている彼女に対して、大きな安心感を抱いていた。
エリスはヤイトを屈ませ、ヤイトの口に付いた血を舐めとる。
「最近、A型の人多いね」
「日本は元々、A型が多い国なんだよ」
「私はO型の味が好きなんだけどなあ」
そう言って、二人はO型の血を求めて、再び夜の街へと消えて行った。